5号館を出て

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言論の自由とリテラシー

 NHKが土曜の夜のゴールデン・アワーに生放送で3時間の討論会をやっていたようです。最初の30分くらいは見ていたのですが、とても見ていられなくなって借りてきていたDVDの実写版ピーターパン映画に切り替えました。(なんと今日・明日は旧作DVDの1週間レンタルが39円でした!)

 2時間弱の映画が終わってからも、まだやっていたNHKを見たので最後の30分くらいも見たことになります。

 結論としては、3時間見続けても最初と最後の30分を見ただけでも同じだったろうという感想です。というか、最初と最後の10分ずつ見ても、あるいは最初を見ずに最後の20分だけを見ても同じだったかもしれません。

 このような番組では時間に追われている上に、ゲストコメンテーターも出して、一般の人にもしゃべらせて、ある程度納得できる意見分布や特殊意見を引き出そうとしますから、どうしても無理があります。話しているほうも短時間でうまくまとまった話ができなかったりして、不満が残ったことだと思われます。

 参加している人たちが話しきれなかったという不満を持っていることが見て取れると、見ているほうとしても落ち着きませんし、結局こんな番組は見ない方がいいかという結論にもなります。

 こういう議論(「どう思いますか格差社会」)は、絶対にネットのほうが適していると思います。ブログの達人であれば、議題を提供した上で基調報告をして、コメントとトラックバックを引き出しながら議論をリードして、かなり納得できる結論を導き出せるのではないかと思いました。

 というわけで、NHKの討論番組を見ながら頭の中ではブログ上での議論の進め方などについて考えておりました。

 現時点でもコメントとトラックバックを大量に引きつけるカリスマ的なブロガーの方はたくさんいらっしゃいますが、そこで繰り広げられている議論の進み方は、今日見たNHKの番組とはかなり違う雰囲気なのはどうしてなのだろうと気になりました。

 それは、意見を述べる人の主体的なモーティべーションの差なのかもしれません。ネット上で発言する人、それもコメントではなくきちんとトラックバックして発言する人は、かなりのリテラシーの持ち主です。また、コメントをする人にしても、かなりテンションが高い人に限られていることが多いのに対して、素人の方をたくさん出したNHKの番組では、無理をしてでも多様な意見を引き出そうとしていることがありありとうかがえ、ネットなどの環境に置かれたらば必ずしも発言をしないような人にも強いて発言を促していたように思われます。多様な意見がでてくることは、もちろん悪いことではありません。

 ただし、申し訳ないのですが発言に慣れていない方の多くは、言いたいことを要領よく短時間で話すという技術がそれほど洗練されていませんので、要領が悪く、時間をかけても言いたいことが伝わってこないという最悪の状況に陥って、話す方・聞く方・進行担当のすべてがフラストレーションに陥りながら中断させられてしまうということになりがちです。

 我々が常日頃考えたり発言したりている「言論の自由」という民主主義における最大の重要事項がたとえ保障されていたとしても、国民の側にそれを使いこなすリテラシーがなかったら、全く意味のない絵に描いた餅になってしまうということになってしまうということを再認識させらたれた今日の番組でした。

 リテラシーなんて単なる技術にすぎないものですから、誰でもが訓練によってかなりのところまで到達できるはずです。「学力低下」ということで、またまた学習指導要領を変えようとしている文科省ですが、そのついでに竹島は日本の領土であるなどということを書き加えるなどと言う姑息な策動をするよりは、日本の子どもに読み書き話すというリテラシーをつけるプログラムを提案するようなことをして欲しいと思います。

 読み書き話す能力がきちんとつけば自然科学の「学力」も間違いなく上がるであろうことは、教育現場にいる人間として自信を持って言えることのひとつです。
Commented by おやじのつぶやき at 2005-04-03 22:40 x
 最近若者とは言わず、人と話しているとき、音声言語と脳内言語との落差を感じることがあります。
 というのは、耳に入る音声言語を我々の世代は、漢字仮名交じり文として脳の中で変換しながらて理解していると思います。例えば、四字熟語。これは明らかに漢字四字に変換しないと何の意味を持つのか理解できないと思っています。
 しかし、最近、どうもそうではないのではと思うようになったのです。つまり、音声のままにせいぜいカタカナかひらがなに変換しているだけの人が多いのではないかということです。それは、若者とは限りません。
 また、意味を持つ最小単位である文節として音声言語をとらえていることが、出来ていないのではとも思うのです。
 だから、お芝居などを観ていても、たぶんに台詞を意味言語に変換せず、音声リズム(うまい表現ではありませんが)、言ってみれば洋楽を聴くような感じで観ている。
 かつて、「せりふの時代」言われたこともありますが、政治家の発言から宗教家の発言まで、今や音声としてでしか言語が語られていないのでは?と感じています。
 ブログといったような、活字言語文化の働きという側面が、問われているような気がします。
Commented by 花見月 at 2005-04-04 00:23 x
見ていられないという意味では、同じ感想でした。
途中、痛々しくて、何度か中座しましたが、大体全部見ました。
見ていられない原因は、ゲストの一部の人の議論の態度のまずさ、
NHKのアンケートの設定のまずさ、NHKまでが社会の二極化についてこのような捉え方を始めたという衝撃でした。
途中ニュースの前に、出演者の一人が出演料のことなどでNHK批判をはじめ、一時的にスタジオが異様な雰囲気になりました。
しかし、そのことで、番組の進行がうまくいっていないことが見ていられなさの原因だとはっきりし、少しほっとしました。
我が家で話題になったのは、「stochinai」さんとは逆に、出演者が手短に、あまりにきちんと話すので驚いたということでした。
20年前の日本人を考えた時に、このような公の場で、このように
誰が当てられてもそれなりのことを答えられただろうかと、家人が驚いていました。
ゲスト識者以上に「市民」がテレビ慣れし、まるでそのための教育を受けたかのように、「テレビ時間に」に合わせて、発言できるのは、なんだかかなり気持ち悪い感じがしました。
Commented by stochinai at 2005-04-04 20:59
 おやじのつぶやきさん、コメントありがとうございます。
>今や音声としてでしか言語が語られていないのでは?
 学生が手で書く文章をみていると、10年くらい前から漢字変換されずにかなのままで「漢語」を表記する例が頻発してきたように感じられます。
 それが、ブログという活字文化のルネサンスによってどう変わっていくのかちょっと楽しみにおもっているところもあります。
 今後ともよろしく、お願いします。
Commented by stochinai at 2005-04-04 21:06
 花見月さん、いつもありがとうございます。
 NHKのこの番組については、あちこちのブログで取り上げられているようで、意見も肯定的なものから否定的なものまで、さまざまです。
 ただあの手の番組は、たとえライブと言えども、かなり緻密に練り上げられたシナリオはあったのだと思います。議長としてのアナウンサーの力量は問われますが、民放の討論番組でしばしば見られるような、序論だけで終わりということがなかった分、スムーズすぎて「気持ち悪い」という印象になったのかもしれませんね。
 いずれにせよ、時間に追われた討論は好きにはなれません。
by stochinai | 2005-04-02 23:31 | つぶやき | Comments(4)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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