2010年 09月 12日
真っ盛りのオオケタデと旧盛岡藩士桑田北海道支部総会
今年はオオケタデが立派に育ち、特に我が家の堆肥からは2メートルを越す大きな株が生えてきて、満開を迎えています。
大きな葉は剣先スコップの先よりも広いものがあります。
さすがに茎の太さは、スコップの柄よりは細いものの、かなりの太さになっています。
写真も見上げて撮ることになります。
今までに我が家で育ったオオケタデの最大記録が更新された感じです。
さて、今日は年に一度の旧盛岡藩士桑田北海道支部の総会でした。最近は、総会で昨年まで理事だったS山さんの歴史講義が恒例となっており、とても勉強になり、楽しみです。
南部藩が800年の歴史を持っているなんて、知ってましたか?
S山さんの講義は、南部藩および桑田に関する我々が知らなかったことを教わるというだけではなく、S山さんが盛岡、南部藩および藩士桑田に対して抱いている深い愛情が伝わってくるものであり、その情熱のお裾分けをいただけるというだけでも大変に価値のあるものです。
S山さんのお話を聞いていると、「旧盛岡藩士桑田」というのは日本の無形文化財や、世界遺産として守る価値があるくらいすごいものだと思えてきます。
800年の歴史がまだ続いている「旧盛岡藩士桑田」、我々の時代で途絶えさせる訳にはいきませんよね。
さて、今日は年に一度の旧盛岡藩士桑田北海道支部の総会でした。最近は、総会で昨年まで理事だったS山さんの歴史講義が恒例となっており、とても勉強になり、楽しみです。
S山さんの講義は、南部藩および桑田に関する我々が知らなかったことを教わるというだけではなく、S山さんが盛岡、南部藩および藩士桑田に対して抱いている深い愛情が伝わってくるものであり、その情熱のお裾分けをいただけるというだけでも大変に価値のあるものです。
S山さんのお話を聞いていると、「旧盛岡藩士桑田」というのは日本の無形文化財や、世界遺産として守る価値があるくらいすごいものだと思えてきます。
800年の歴史がまだ続いている「旧盛岡藩士桑田」、我々の時代で途絶えさせる訳にはいきませんよね。
滋賀県に住む桑田社員です。
S山さんの語り口は本当に詩人のように感じます。
私は今年初めて盛岡を訪問し、盛岡藩士の歴史を知り感激しました。
今後ともよろしく。
S山さんの語り口は本当に詩人のように感じます。
私は今年初めて盛岡を訪問し、盛岡藩士の歴史を知り感激しました。
今後ともよろしく。
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stochinai at 2010-09-13 18:40
同じ藩士の末裔だと思うと、他人の気がしませんね。S山さんがいらっしゃる限り、桑田は安泰だと思います。藩士末裔一同でサポートしていきましょう。
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alchemist
at 2010-09-15 09:30
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どっちでもいい、無関係者のつぶやきですが、南部藩800年は、どうも・・・・。東大の歴史を林羅山の湯島聖堂まで遡らせているような感じです。
糠部の地頭になって以来800年ということでしょうから、奥州南部領800年か奥州南部家中800年じゃないでしょうか。藩が正式名称になったのは明治初年のことですし、それを遡及させて用いられる幕藩体制も江戸時代のこと、無理に繰り上げても秀吉の時代まで、です。
ホンマ、どうでも良いコメントなんですが。
糠部の地頭になって以来800年ということでしょうから、奥州南部領800年か奥州南部家中800年じゃないでしょうか。藩が正式名称になったのは明治初年のことですし、それを遡及させて用いられる幕藩体制も江戸時代のこと、無理に繰り上げても秀吉の時代まで、です。
ホンマ、どうでも良いコメントなんですが。
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stochinai at 2010-09-15 14:46
おっしゃるとおりなのですが、笑って見逃してください(^^;)。
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alchemist
at 2010-09-16 11:38
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まあ、生物系の用語についても同じような会話を学生さんとやってるような気がします、ことに口頭試問の時など。
札幌の帰りに八戸に立ち寄りました。根城という復元遺跡+博物館を見物してきたのですが、元々山梨の南部氏から始まったという説を昨日聞いたばかりで、ここにも南部氏!情報は伝達しますねえw
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stochinai at 2010-09-18 17:22
私などは雑兵の末裔ですが、南部は東北全体に根を張っているようですね。
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alchemist
at 2010-09-20 15:39
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三日月の丸くなるまで南部領、と云われるらしいです。
司馬遼さんでしたか、はるか昔、南部一族が上陸したのが八戸辺りではないかと書いてました。爾来、糠部の馬牧を中心にした九戸四門という制度をとり、名馬の産地として知られることになり、糠部産の馬は「戸立(へだち)」と呼ばれたとか。
元々は、岩手北部(三戸中心)から青森東部(糠部)を中心としていたのですが、南北朝期に青森西部の十三湊を中心として日本海貿易に雄飛していた安東氏の領地に侵入、安東氏は南(秋田)と北(渡島)に逃れ、津軽までを版図に治めたようです。が、家督相続で一門がゴタゴタしているうちに、津軽にいた一族(ともいう)大浦氏(後の津軽氏)が独立、そのまま秀吉に朱印状を貰ったので、独立が公認されます。
津軽領の代わりに、秀吉によって与えられたのが岩手県中部の和賀領(花巻辺り)で、これで南北に長く、縦断するのに三日月が満月になったと云われる、南部領が完成します。今は秋田県に入っている花輪地方も南部領です。
江戸初期、藩主が後継者無く亡くなり、幕府の裁定で旧領8万石を兄が(盛岡南部)、2万石を弟が(八戸南部)受け継ぎ、前者を大南部、後者を小南部と通称します。
司馬遼さんでしたか、はるか昔、南部一族が上陸したのが八戸辺りではないかと書いてました。爾来、糠部の馬牧を中心にした九戸四門という制度をとり、名馬の産地として知られることになり、糠部産の馬は「戸立(へだち)」と呼ばれたとか。
元々は、岩手北部(三戸中心)から青森東部(糠部)を中心としていたのですが、南北朝期に青森西部の十三湊を中心として日本海貿易に雄飛していた安東氏の領地に侵入、安東氏は南(秋田)と北(渡島)に逃れ、津軽までを版図に治めたようです。が、家督相続で一門がゴタゴタしているうちに、津軽にいた一族(ともいう)大浦氏(後の津軽氏)が独立、そのまま秀吉に朱印状を貰ったので、独立が公認されます。
津軽領の代わりに、秀吉によって与えられたのが岩手県中部の和賀領(花巻辺り)で、これで南北に長く、縦断するのに三日月が満月になったと云われる、南部領が完成します。今は秋田県に入っている花輪地方も南部領です。
江戸初期、藩主が後継者無く亡くなり、幕府の裁定で旧領8万石を兄が(盛岡南部)、2万石を弟が(八戸南部)受け継ぎ、前者を大南部、後者を小南部と通称します。
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alchemist
at 2010-09-20 15:40
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なお、もともと八戸根城にいた南部一族は、伊達からの侵略に備えて遠野の領主(鍋倉城主)として移動して、幕末まで続きます。
岩手県の南部(平泉、水沢、一関など)は仙台藩領でしたが、今の岩手県はほぼ四国に匹敵する面積です。岩手南部の代わりに三八下北(三戸、八戸、下北)地方と花輪地方を加えると、四国より広いのではないでしょうか。
花輪地方が南部領から切り離されたのは、窮乏した南部家が領民から借金する時、金を貸した書式にしていたのを、字面のまま借金と解釈されてあの地方の鉱山が明治政府(というか長州閥)に吸い上げられた経緯と関係しているのかもしれません。この事件が江藤新平の乱に繋がっていく訳ですが。
勉強になりました。
by stochinai
| 2010-09-12 21:03
| 札幌・北海道
|
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