5号館を出て

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研究の作法を誰が教えるか

 今日は北大の一般入試の後期試験のため、朝は7時前に家を出ました。東区(といっても我が家の近辺が特にひどかったようですが)は、15センチ位の積雪があったため自転車はあきらめて歩いていると白く見えたものは降っている雪ではなく、朝になって気温が下がってきたためかだんだんと濃くなっている霧でした。
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 今日の試験を最後に、次年度の新入生が最終的に決定することになるのですが、今どきの大学新入生に今まであまり書いたことのないレポートというものを課すると、そもそも何を書いて良いのかわからない、書き方がわからないということで、多くの学生はまずはインターネットで探したものを露骨にコピペしてきます。

 最初のうちは、コピペがばれると思ってか、文章をどこから持ってきたかという情報を書いてこない学生が多いのですが、インターネットから引用するのは構わないから必ずどこにあった誰の文章から引用したということを示すようにということをしつこく繰り返していると、だんだんとインターネット時代の「引用の作法」の初歩の初歩が身についてきます。多くの学生は最初にうちは、たったひとつのサイトから一本のレポートの全文を作り上げるくらい大量にコピペして一丁上がりというレポートを出してくるのですが、できるだけたくさんのソースから少しずつ引用してあるレポートが高い評価を得る可能性が高くなるということを伝えると、優秀な学生はだんだんといろいろなところを散策してつまみ食いし、だんだんと自分なりにまとめたものを作るということができるようになってきます。もちろん、できるようになる学生と、最後までまったく進歩のない学生というものはいます。

 大学院生になって英語を書くようになってくると、その場合も日本語の文章を書く時と同じように、あちこちから自分のデータや考えたことを表現するのにぴったりな英文を拾い集めてくることはいっこうに構わないから、ということで指導します。インターネットがない時代にも、教科書や他の人の論文の中にあった文章を少しずつ拝借するということは、我々のようにもともと英語を話さない国民にとってはむしろ推奨される英語上達法だったと思います。

 ICTが発達した時代にはそうした訓練がよりやりやすくなっているはずなのですが、怠慢な学生はついつい1ヶ所から大量にコピペをしてしまい、そのことがばれるのを恐れてか、もっとも大量に引用(コピペ)した原著を引用文献に挙げなかったりするので、どうしても不思議な論文原稿ができあがってしまいます。

 そうした原稿を最初に読むのはいわゆる「指導教員」と呼ばれる立場の人ですが、専門の研究という意味でも重なっており、ていねいに学生の書いた文章を読む機会がもっとも多い指導教員が「英語論文を引用する作法」を教える義務があると思います。さらには、学生が研究を始めるようになると、その研究を指導するとともに、研究成果が論文になるときには多くの場合「共著者」として連名になることが多い我々理系の場合には、指導教員こそが学生の書いてくる論文原稿の最初の査読者としてもっとも責任が大きい存在になります。ここで厳しく、厳しくしつけられなければ、子供はダメになってしまいます。

 私の大学院時代の指導教官のキャッチフレーズは「君にはダマされまいぞ」でした(笑)。

 学生が大学院を卒業し、一応独り立ちしたポスドクや研究員となったとしても、理系の場合には共同研究者がたくさんいることが多いわけですから、その共同研究者たちが「実験の大部分を実行し、最初の論文原稿をかく筆頭著者である若い研究者」の投稿前査読者とならなければなりません。もちろん、研究の内容には連帯責任を負うことになるのですから、図表を含めて論文原稿には自分の責任として徹底的に目を通すことが求められています。

 どうやら、今目の前で繰り広げられているドタバタ劇を見ていると、「共同研究者」の方々は若い筆頭研究者のやっていた実験やその書いた論文原稿をすべて把握していたとは思えない状況です。

 もしも若い研究者が、大学院の時代、ポスドクの時代を通じて、指導教員やシニア研究者から、しっかりと研究の作法や、論文の作法を教わることなく、コピペだけで作った論文がホイホイと指導教員や共著者の「めくら判」で投稿にまで至るということが繰り返されてきたのなら、その若い研究者が研究や論文作成の作法をまったく身に付けないまま「大人」になってしまったという可能性も排除できないと思えます。

 逆に、次々と魔法のような(彼らが常日頃欲しいと思っていた)データを出してくる若い筆頭研究者が自分たちの業績作成マシーンのように思えて、チヤホヤしてしまうというようなこともあるかもしれません。

 こちらがどんなデータが欲しいかを話したりすると、その望まれているデータが次々と出てきたりするという「恐ろしさ」を経験したという、厳しい指導教員の方の話を聞いたことがあります。本人にとって「悪気」はなく、狭い世界で人を喜ばせたり、チヤホヤされたりしたいというささいなことが動機なのかもしれません。

 研究の作法や論文の作法をまったく身に付けないまま、大人の研究者としてこの世界に受け入れられてしまった本人には、今自分のまわりで起こっていることが理解できないでいる可能性があります。

 こんなことを考えていると、直近の犯人探しなどをやっても何の解決にもならないように思えます。

 日本の教育システム、研究者育成システム、若い研究者の求職システム、研究者への研究費配分システムなどのすべてが絡みあった根の深い病巣が浮かび上がってくるような気がします。
Commented by ぜのぱす at 2014-03-13 02:44 x
指導教官とされている方にも疑惑(http://stapcells.blogspot.com/2014/02/blog-post_26.html)がある様ですから、そう云う教育を代々受けて来たのかもしれません。だとすると、根が相当深いです。
Commented by stochinai at 2014-03-13 07:19
 その元ボスを育てた大ボスも同じことを繰り返していたなどということが発覚するかもしれません。私も大昔に某国立大学の教授が悪びれる風もなく写真に染色体を書き込んで論文を作っていたのを目撃させられたことがあります。この40年でそれを止めた研究室とやり続けた研究室の差が出てきているのかもしれません。そういうことを続けても研究費が配分される制度を温存してきた科学者のコミュニティが悪いと言ってしまえばそれだけですが、そいういうことをしても論文さえ出していれば研究費を配分してきた文科省・厚労省・農水省の責任はとても大きいと思います(まだ変わったようにも見えないですし)。
Commented by alchemist at 2014-03-13 09:52 x
あんな風な大仰な発表をしなければ、またnatureが受け狙いの論文出してたか・・・くらいのところで終わったような気もしています。それはさておき、学位論文の審査どうなってたんでしょう?普通、伝えられるような不自然な引用があれば、審査の時に指摘されるでしょうし、指導教官が見逃していても、審査を通して書き方のマナーの一端は学ぶと想うのですが・・・。
Commented by ぜのぱす at 2014-03-13 10:15 x
上の『指導教官』は、Harvard大で、直接指導されていた方のようですね。日本の大学の指導教官は、名ばかりでしょう。そもそも、早稲田から、東京女医へ、そしてHarvardへ丸投げされて居る訳ですから、指導なんかしてないんでしょうね。
Commented at 2014-03-13 13:41 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by alchemist at 2014-03-13 13:49 x
研究環境の良い施設に院生を出すことはしばしばあります(在籍期間の1/2の長さまで)。でも、学位審査は本籍地でやるワケで、その場合、いくら専門が離れている審査でも論文の形式がおかしければ(引用文献があるにも関わらず、本文中のどこに該当するか判らなければ)審査前に論文が廻ってきた時に普通は気がつくような・・・。私自身も何度か書き直しを指示したり、書き直しが不充分な場合は審査延期の扱いにしたことがあります。似たような業界でいるだけに、その辺が?です。
私の修了した大学院では学位論文は不要でしたが、外の雑誌にin pressになっている必要がありました。英語で読む方は慣れてきていても書く方は大変で、書いては書き直しで投稿まで半年近くかかった記憶がありますが、そんな感じで習い覚えるのも教育ですよね・・・。
Commented by なんとも at 2014-03-13 19:42 x
コピペが博士論文全体の1/5にも及んでいても、ちゃんと博士号を取得できるとは、羨ましいですな。
Commented by だめだめ at 2014-03-13 23:07 x
おっしゃることはごもっともですが、レポートの書き方の基本とか、剽窃は駄目とか、そういうのは果たして大学の研究室で教えるような事なのでっしょうか。正直で名誉を重んずるべしとか、作法以前の人間の基本的道徳に属する事を含めて、こういうのは中等教育の中核であるべき事と思います。
Commented by みなみ at 2014-03-13 23:57 x
>だめだめさん
大学は,高校の教育が悪いという。高校は中学校が悪いという。中学校は小学校が悪いという。小学校は幼稚園が悪いという。…この連鎖では何も生み出されません。
大事なのは,どの場所でもあたりまえかもしれないけれど,気づいたものが教えていくことが重要です。大人だってできていない人,多いですからね。。
Commented by だめだめ at 2014-03-14 01:24 x
時間は有限です。最近はレメディアル教育とか称して分数の足し算を教えてる大学もあるそうですが、仮に北大でこんな事やってたら国が傾きますよ。入試の改革とか言ってるなら、それこそ論運作る試験やって、中等教育で準備するようしむけるのがいいのでは?
Commented by とおりすぎ at 2014-03-14 09:30 x
私が約20年ほど前に海外の三流大学で学生をしていたときは 2年生最初のタームのときにPlagiarismについて教わり、Plagiarismは退学処分にも値するということを例をみせながら説明された記憶があります。そのときはこれは大変なことと思った記憶があります。
Commented by alchemist at 2014-03-14 09:53 x
卒業研究のない学部でしたので、学部時代のレポートと、大学院でのそれが異なるルールによるというのは研究室で学びました。文献の引用の仕方、共著者の選び方、先行論文の尊重の仕方などなど。中等教育でも、剽窃や捏造がダメということは習っていましたが、具体的にどんなことがダメかは自分で論文書いてみるまで判り難かったです。院のセミナーで「それは誰のデータなのか」「それは誰のアイデイアなのか」「それは誰の意見なのか」を常に意識させられて、ベースが出来たというのが私の体験です。ですから、悪気なく望ましいデータを重ねて行ったようにも見えるこのケースは日本の大学院の劣化を示しているようで、非常に残念です。
1995年の経団連の「新時代の日本的経営」で示された雇用ポートフォーリオの三類型に従えば、研究者は第二の高度専門能力活用型グループに含まれ、必要に応じて雇用される有期雇用契約ということになっています。実験系の専門家が需要に応じてボウフラのように湧いてくるのか・・・という疑問もあるのですが、その必要に応じて雇用された専門家が要求に応じたデータだけを提示する「効率の良い」世界のカリカチュアのような気がします。思い過ごしでしょうか?

Commented at 2014-03-14 12:10
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Commented by 脱三慢森田研究員  at 2017-12-27 16:50 x
私は脱三慢を心掛けています。

三慢とは、怠慢、自慢、傲慢。

人間として、社会人として、そして研究者として正しく生きていくには、怠慢自慢傲慢になってはいけない、そう自分を戒めながら日々を過ごしています。

ただ、実行するのは難しいものです。

ふとした拍子に、怠慢となり、自慢をし、傲慢になってしまう。

要するに、自分に甘く他人に厳しい、それが人間の本質なのかもしれない。

だからこそ、怠慢自慢傲慢にならないよう、脱三慢を忘れないようにしてます。

研究者というのはとかく視野が狭くなりがち。研究費用提供者への感謝も忘れがち。だからこそです。
by stochinai | 2014-03-12 18:19 | つぶやき | Comments(14)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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