5号館を出て

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研究をしない大学に存在価値はあるのか

 昨日は教育の場としての大学を考えてみました。今日は研究編です。

 大学そして大学院が高校までと違うのは、やはりそこに「研究」があるからだと、私は思っています。初等中等教育までは、過去に蓄積された学問を体系化して、そこから「学ぶ」ということに徹する段階です。

 大学以降の高等教育では、もちろん過去の学問業績を学ぶということもあるのですが、それよりも未だ学問になっていない未知の領域へと踏み込んでいく「研究」の存在が、初等中等教育と高等教育を大きく区別しているものではないでしょうか。

 大学は単に教育するだけの機関ではなく、教育研究機関であると言われるのは、そこでは過去の学問体系だけではなく、研究によって既存の学問体系に新たな知見を付加し、さらには体系を組み直す、場合によっては旧来の体系を破壊してまったく新しい学問体系を築き上げるというワクワクするような経験を若者に与えることができる場所だということです。

 学生もなんとなくそのことは感じていますから、大学へ入学したての時から一刻も早く専門の講義を受け、理系ならば実験をやりたいと焦る気持ちを持っているのです。そのこと自体は特に悪いことではないと思うのですが、昔の大学ではそうした情熱を冷ましてしまうかのごとくに、一般教養と呼ばれる幅広い「教養」を身につけさせるための講義が1年ないし2年行われていました。

 この初年度から始まる一般教養の講義は学生に「パンキョウ」と呼ばれて嫌悪されていたものですが、多くの学生は大学を卒業する頃あるいは、大学院さらには卒業した後で懐かしく思い出すだけではなく、あの時に受けた教養教育こそが後の人生を送るに当たって非常に重要だったと気がつくような、真の意味での教養教育だったのかもしれません。

 しかし、昨日も書きましたように大学設置基準が大綱化された時に、学生には評判が悪くそして教員にも負担が大きかったこの一般教育・教養課程が日本中の大学から一掃されてしまったのです。北海道大学ではコアカリキュラムとして、がんばって教養教育を残す努力をしていますが、学生の希望もあって専門教育から下がってきたような初年度教育が増えてきていることは全国的な傾向ではないでしょうか。

 それはさておき、学年も上がり専門教育をある程度受けてくると、世の中にはまだまだわかってないことが山ほどあるということが学生にもわかってきます。そこで、わかっていないことをわかるための行動である研究というものがきわめて身近になってくるのが、大学の高学年だと思います。そして、最終年度には卒業研究・卒業実習といってほんの小さなことかもしれませんが、(ひょっとすると)こんなことを研究するのは自分が世界で初めてかもしれないという体験をすることができます。

 これこそが研究の醍醐味であり、大学からこの興奮を取り除いてしまったら、何が残るのかというくらい重要なものだと信じます。

 そして、たとえ小さな研究でもその指導をすることができるのはやはりプロの研究者としての大学教員だと思います。プロの研究者であり続けるためには、たとえ時間やお金がなくとも少しずつでも研究を続けられる環境が必要なのです。また研究という営みを通じて、教員と学生は共同研究者としての連帯感を感じつつ、学生が一人前に研究ができるように育つというのが理想だと思っています。

 就職のための職業訓練だけが大事なら、こうした学問の最前線の営みである研究を経験することは必要ないのかもしれません。しかし、逆に研究の素晴らしさや楽しさを知ってしまったからといって、一般の職業人に向かなくなるということもないと思います。大学生ならば最後の半年か1年を研究に費やすだけですので、特にそうだと思いますが、大学院へ進学して修士2年、博士3年、さらには留年をしてもっと長いこと研究に浸っていると、社会との適合性を失うのでしょうか。

 確かに、1年ではなく、1+2=3年、さらには3+3=6年、そしてポスドクとしてさらに3年、また3年と研究生活を続けていくと、小学校から学習を続けてきた期間よりも長い研究生活を送ることになる人もいます。そんな彼らの多くは研究者として独り立ちできるようになっているはずです。そうやって長い時間をかけて育てた人材を生かすことができないとしたらそれは社会の大損失と言わざるを得ません。今、日本はみすみす大損失をしつつあるのです。

 育てた人材の能力を社会に還元できるしくみを、工夫して作ることこそ国の役割というものだと思います。昨日書いたように、今の大学では教育担当の人材が絶対的に不足しています。十分な研究環境を保証するというところまでは無理かもしれませんが、とりあえず大学という場に彼らの居場所を確保して、教育を担当してもらいながら研究に関しては個人の力で、どこかの研究室にコネを作り共同研究をしてもらうということができるのではないでしょうか。

 研究という営みから切り離してしまうと意味を失ってしまう大学教育という場に、力強い助っ人として(たとえ一時的であるにせよ)彼らが戻ってきてくれるなら、大学の教育と研究に大きな助け舟になるような気がします。

 どう考えても、研究を削ってしまったら大学の意味がなくなってしまいます。大学はすべからく「研究大学」でなければならず、「教育大学」はもはや大学と呼ぶに値しないのではないかと思います。大学を教育の場として再生させるために、大学を出た卒業生の力を借りてみてくださいませんか。文科省殿。



 蛇足ながら:

 大学院に進学しさらにポスドクを続けている彼らの多くは、たとえ長年研究を続けてきたとしても、立派に社会的な活動ができる普通の人だということも申し添えておきたいと思います。よく聞かれる、「年齢が高いので高給になるので雇いにくい」というのは不採用のための口実に過ぎないと思います。年齢から見ると少しは安いかもしれないという採用条件を提示してみてはどうでしょう。「プライドが高すぎて」というのも多くの場合、採用したくないがための口実に聞こえます。ともかくチャンスを与えてみてくださいませんか。ニートやフリーターやプー太郎などという言葉を聞く度に、若者が働きたくないのではなく、社会が職を与えていないだけじゃないのかと思えてなりません。
Commented by MANTA at 2006-05-11 23:43 x
ご意見、賛同いたします。大学院卒は単なる「知識バカ」ではなく、既存の知識から新しい知識を生む方法を学んだ者だと私は思います。これは高校までは決して習わない技術であり、社会にでれば身につくものともいえないと考えます。大学の教員はその意味で「知識の糸をつむぎ続ける研究者」でなければならないとおもいます。
 あと言葉の問題で恐縮ですが、「教育大学」でも研究はやってますよ…
Commented by stochinai at 2006-05-12 00:58
>「教育大学」でも研究はやってますよ
 そうなんですよね。私も書きながら、これは教育大学の人に無用なストレスを与えてしまっているなあ、と反省していました。もちろん、カッコを読んでいただければ誤解だとはわかっていただけるということで、今回は見逃してください。m(_^_)m
Commented by 沙羅 at 2006-05-12 01:28 x
蛇足以下のはっきりとしたお言葉、ちょっと感動して涙が出そうになりました(; ;)
惰性を産まず、かつ過度な競争にならない(私はあまりに競争が過ぎる研究社会になると弊害も出てくると思っています)そんな制度作りは当事者が考えても難しく思えます。
一方で博士進学者(修了者)も、難題に取り組み新しい視点を導入できることができる(はず!)、という良い意味でのプライドを持ってどのような仕事だってえり好みしない姿勢も大切だと思います。
Commented by alchemist at 2006-05-12 12:11 x
大学院は自分で考えるということを指導教員に助けられながら実践する場、大学は自分で考えるということへの導入部分というふうに受け取っています。自分で振り返っても、大学時代、受け売りで話していることと自分で考えたことの区別がついていませんでした。
そういうことをきちんと理解できるようになるのが大学院の存在意味であると考えれば、文系、理系の区別など必要で無くなりますし、大学院でやって来た研究と違う分野で活躍できるのも、基本的に考えるという習慣が領域を超えて共通しているからではないか、と推測されます。
Commented by alchemist at 2006-05-12 12:12 x
さて、しばしば実業界から「日本の大学院修了者は使えない」という発言があるやに聞いておりますが、これはその会社が「自分で考える」ということを必要としない制度を維持している(要は会社に都合の良いことだけを考えれば良い)ということではないか、と考えたりします。その辺に社会との兼ね合いの上で内部告発が称揚される国と、内部告発などもってのほかという国のあり方が見え隠れするような気がします。
しばしば、米国の大学院修了者は使える、という発言もあるように聞いています。本当に使えるのか、それとも米国人への何らかの遠慮があるのか、ちょっと疑問を持ったりします。何故ならば、米国の大学で働いている日本人はしばしば米国の企業からの誘いがありますし、移動した場合十分に通用しているように見えたからです。日本の大学院修了者が使えないといっている企業は、日本の企業だけのようにも見えます。
Commented by Inoue at 2006-05-12 12:53 x
大学院修了者が使えるかどうかはさておき、日本企業が大学院に社員を送り込むことはあまりないですよね。国内留学と称してPh.Dをとらせたりはしてきましたが、それはよく働いてくれた社員へのご褒美みたいなもので、能力開発を目的としているわけではない。
 社員の再教育に役立つなら、企業は喜んで社員を大学院に入れるだろうし、院卒者を採用することでしょう。
Commented by alchemist at 2006-05-12 13:03 x
兼務先の大学に良く日本の企業の研究員がポストドックでやって来てました(サラリーは企業持ちです)。あの大学の研究室でやっていることと、日本の大学の研究室でやっていることに基本的に差はありません。もし、あの大学でのポストドック経験が日本の企業にとって役に立っているのなら、日本の大学でも同じでしょう。もし、あの大学でのポストドック経験が日本の企業にとって役に立っていないのなら、それは単に日本の企業の米国の大学に対するコンプレックスじゃないのかな、と思える節が多々ありました。
Commented by inoue0 at 2006-05-12 17:12
企業研究員が大学院博士(後期)課程にいると、ラボがいい意味で「締まる」んです。実験や文献読みのスピードが一般学生の3倍ぐらいあるんで、周りもそれに影響される。助手が鬼軍曹になって院生の尻たたきをしないでもいい。まさに「背中を見せる」ことになるんです。
Commented by alchemist at 2006-05-12 17:37 x
ヒトによりそうですが、企業からの博士課程そういう効果もあるかも知れません。社会人大学院生に甘いクライテリアを作っている大学では逆の効果もあるようですが。
私は会社から来ていたポストドックしか存じませんが、企業の研究所にいろんな知り合いができて楽しかったですね。お金には縁のない付き合いが未だに続いています。
Commented by Cup at 2006-05-12 18:59 x
はじめまして。私は現在ポスドクをしております。以前、父の急病により家業を少しでも手伝えるようにと実家に程近い大手製薬企業がちょうど自分の学んできた事の研究職を募集していたため、そこへの転職を思い切って考えてみた事があります。そして返って来た返事が、「実験補助員としてなら・・・」と。企業の人事は「頭が悪いんじゃないか」と憤りに近い気持ちを持った事を覚えております。果たしてポスドクを経験し、海外留学経験のある自分を実験補助員として、人間関係がスムーズにいくものでしょうか?よく言われている「博士卒はわがまま」だとか「自分勝手」とか「専門が偏り過ぎている」というのは、人事職員が適切な配属を知らないか、もしくは「専門が偏りすぎた機械」であるかのように思っているのでしょうか。それ以来幻滅と現実を知り、やめずに実家の遠くでポスドクとしてまだ頑張っています。
Commented by Inoue at 2006-05-12 19:48 x
詳しい事情も知らずに勝手なアドバイスをすることをお許しください。実験補助員で何か問題があるのですか?使える人材だとなったら、正規の研究員への登用だってあるでしょう(会社によるでしょうが)。
コネクションもなしにいきなり正規の社員を採用するのは不安なんですよ。コネというと悪い意味で使われることが多いですが、とおりいっぺんの履歴書と業績リストだけで審査するよりもはるかに豊富な情報が得られますので、コネ採用は、単なる公募よりもよい結果になることがあるのです。
Commented by どぞ at 2006-05-12 20:16 x
http://nosumi.exblog.jp/d2006-01-25
Commented by Cup at 2006-05-12 21:03 x
Inoueさん、仰るとおりですね。私の場合はコネなしでした。私の場合は時給が1400円と提示され、つい計算してしまって、それでも頑張ってみようという意識が失せてしまいました。これまで金銭ではなく好きだからやっている、で片付けてきましたが、苦しい生活だけでは疲れてしまい、転職の難しさを感じたというのが本音でしょうか。すみませんでした。
Commented by at 2006-05-13 00:15 x
こちらでは初めまして。
ハローワークに転がっている求人での希望学歴は「高卒以上」が殆んどですし、中には「学歴不問」で義務教育さえすめばいいというところもあります。ましてやこれだけ「石を投げれば大卒にあたる」みたいな現状だと意味がないのです。が、企業によっては「大学院卒」で「ポスドク」というと、「働いたことのない、いい年して世間知らず」という偏見がまだ強いようです。
仕事に関してのスキルはパソコンが使えて、ビジネスマナーといったのがあれば誰でもいいのです。しかし、年齢構成の問題や同世代の社員と同等のスキルの基準に届いているか…など企業側の雇う理由もあるのでその辺は理解してもらいたいです(大体30~35歳ぐらいが上限といえますが)
ただ、ビジネスマナーすら身についていない人を社員として雇う場合、最初から教育をするほど企業は暇ではありません。大学卒業時の新卒採用を逃したら「即戦力」として「中途採用」しか出来ないので、このへんも問題ではないかと思うのです(就職できなかったから留年する、というのもこういう理由がおおいみたいですし)
Commented by hal at 2006-05-13 00:57 x
Cupさん、Inoueさん
上のコメントでInoueさんの言うことは極端だと思います。研究への熱意だけでは生きていけません。ある年齢からは(しかもこの業界は一般に比べて非常に遅いのが事実です)収入だってある程度は必要です。時給1,400円で8時間労働、週5日勤務で、月収は約20万。税金や何やと引かれると、手元にはいくらも残りません。年収1千万よこせ、だなんて誰も言っていません。私もかつて家族を抱えて職探しで苦労し、当時はせめて400万は、と思ったものです。世間では、それでも望み過ぎだと思われるのでしょうか・・・。
Commented by hal at 2006-05-13 00:58 x
つぶやきさん
昨夜の時点で既にこのエントリーがアップされていたのですね。大変失礼いたしました。私のPCでのリロードがどうもヘンだったようです。
さて、このエントリーはとても深い含蓄に富む重い言葉が続いていると思います。研究をするからこその大学なんですよね。現在の「余っている」ポスドクも、「教育を担当してもらいながら研究に関しては個人の力で、どこかの研究室にコネを作り共同研究をしてもらう」というのなら、(予算はともかく)皆にとってハッピーかもしれません。ただ・・・(また面倒なことを言いますが)、どうも具体的なイメージとしてあるべき姿が見えないような気がするのです。どういう人たちがどういう目的で修士課程で何を学んでどういう研究をし、またどういう人たちがどういう目的で博士課程で学んでどういう研究をするのか、そしてそれぞれの卒業生にはどんな出口があるのか、さらに彼らを育てる研究室はどういうレベル研究をなし得るのか。どうも私には雲をつかむような話なのです。。。
Commented by alchemist at 2006-05-13 14:24 x
出口の一つに、大学の事務系職員があっても構わないのではないでしょうか?問題は今の給与体系では博士を出たヒトを相応の待遇ができないこと、と事務系のトップが云っていました。
しかし、大学の機能の一部を研究に特化する必要がある以上、そういう事業の支援スタッフとして大学院修了者は必要でしょう。もう一つ、学卒者が中心で担われている日本の科学行政も大学院修了者が活躍できる場であるハズです。ただ、日本の公務員の数が矢鱈に少ないので、そういう技能者を雇うゆとりがないようです。
あと、米国の社長ってPhD持っているヒト多いですよね。せめて、あの半分くらいPhD持っている社長が日本に出現するようになれば、日本も国際化できるかも知れません。
Commented by inoue0 at 2006-05-14 00:38
 それを言うなら技官ですよ(法人化されてすでに官ではないが)。かつての国立大学では、彼らが機材や実験動物の管理をしてくれていたじゃないですか。人員削減でどんどん減らされ、今や教員や大学院生が片手間でやってるのですが、仕事の継続性や専門性から考えれば、それ専門の人間がいた方がいいに決まってる。
Commented by alchemist at 2006-05-14 14:04 x
今は技術職員です。
ウチにも先日まで居ました。あのポストは上がないので、日本では難しいです。ウチの場合は助手のポストが空くまでのポストドック的な使い方をしていました。めでたく助手に昇任したら、定員削減で、技術職員のポストがなくなってしまいましたけども。
まだ、技術職員が残っているところもあるようですが、別の問題は学位を持っていることが評価できないような給与体系になっていることでしょうか。
Commented by コモン at 2009-06-21 23:50 x
同意見です。
研究を行わない大学が少なからずあるようですね。文科省は研究実態のない大学に対して警告を発したようです。大学は教育だけを行っていればいいわけではないというのが国の姿勢のようですが、実際には行われていないところがあるっぽいですね。しかしながら、一応警告を発したのを確認しました。ただし、最近の文科省は甘いですね。
Commented by masa at 2009-06-22 10:48 x
「研究をするからこその大学」まさしくそうだと思います。文化省が打ち出す「科学技術立国」と「運営交付金削減」の間に大きな矛盾があるように感じていたのですが、文化省の大学経営関連審議会の傍聴を通じて原因がわかってきた気がします。

大学設置法の改正に伴い研究していない大学の設置が数多く認可されてしまっているのでそれを取り締まりたいという意識があるようです。

技官系の職が必要という皆さんの意見に賛成ですが、博士が働くためには色々整備が必要ですね。

ちなみに私は、ポスドク上がりの非常勤職員です。年齢が若いと言うだけで、掃除のおばさんより安い給与で働いています。でも、私の最終目標である研究者の働きやすい環境整備をするためには仕方ないと思ってます。

※掃除のおばちゃんが悪いと言ってるわけではないです。彼女らもすばらしい仕事をしています。
Commented by 必ずしも at 2009-06-22 13:03 x
そうではないかと。欧米にあるようなリベラルアーツ・カレッジにも十分存在意義があるでしょう。世の中学ぶべきことはいくらでもありますよ。
Commented by コモン at 2009-06-22 20:43 x
世の中に学ぶべきことはいくらでもありますが、
教育だけを行う大学に存在意義はないでしょう。大学と名乗らずに
塾と名乗ればいいだけの話です。または専門学校でもいいです。大学と名乗る以上は研究せねばならないと思います。研究もできないのに大学を名乗ること自体おかしい気がします。おかしいと思うのと同時に、文科省が警告を発するのですから、研究をしなければいけないということだと思いますよ。
Commented by だから at 2009-06-23 09:50 x
教育だけをおこなうリベラルアーツ・カレッジも米国では存在意義を認められていますし、有為な人材を輩出していますよ。オバマもそうですね。
専門的な研究は大学院からという考え方もあります。欧米を見習うのであればその辺にも目を向けた方がよいと思います。文科省も含めて。
Commented by alchemist at 2009-06-23 12:33 x
リベラルアーツに対する需要が日本の社会にあるのなら、それに類する目的を持って設立された東大の教養学部(シニアー)や埼玉大学の教養学部などの人気が高くなると考えられるのですが、現状はどうなのでしょうか?
米国の場合、お金持ちのコドモが悪さをしないようにと集めて紳士教育するカレッジの伝統が強過ぎて、ベルリン大学風の研究部門をその中に入れるのが難しかったので19世紀後半から大学院というものを別組織として作って研究をする場にしたという歴史的背景があります。
それに対して日本の大学は手に専門職をつけた卒業生を早く採用したいという要請をうけて、旧制大学から新制大学に切り替わる時に卒業年限を二年前倒しするような風土があります。はたして、この社会で学部専門教育はリベラルアーツカレッジの後という制度が受け入れられるでしょうか?というより、リベラルアーツ教育を目指した教養部すら不要という事でついこの前廃止されてしまったような国ではありませんか?
Commented by というか at 2009-06-23 13:03 x
日本の大学は社会の需要によってつくられたものではないでしょう。
日本でいう教養学部や教養課程もアメリカのリベラルアーツと違い、学者の自己満足のような授業ばかりでした。もともとリベラルアーツの教養というのは社会に出たときに役に立つ教養を意味しますが、そこが分かっていない大学人が多すぎますね。社会で役に立つ教養を目指したリベラルアーツ教育を打ち出せばおそらく日本でも成功するでしょう。
Commented by コモン at 2009-06-23 13:05 x
本当にリベラルアーツの教授(研究者)が研究を行わずに、教育だけを行っているのですか?リベラルアーツでは質の高い教育を行うために優秀な人材(教授)を多額のお金で雇ってくることが重要点だと思いますが、そういった優秀な人材は研究を欠かさないはずです。大学の研究者は、常に研究命だと思いますよ。それが生きがいで大学に行くのでしょう。

少し会話が食い違っていると思います。私が言っているのは、研究の主体者が学生ではなくて教授たちのことです。学生の卒業研究の話ではないです。
ちなみにアメリカのビジネスモデルを近年日本が取り込んだものが株式会社立大学のようなものだと思います。大企業の資本力を生かして、高い質の教育を受けさせるような環境を作ればサービス産業として成功するという改革。小泉時代にアメリカの経済方式を取り込んだ構造改革の一つです。現段階ではほとんどが悪状況らしいです。成功しない理由は、おそらく膨大な資金力や経営知識、優秀な人材の安定が出来ていないことでしょう。研究設備の弱さも指摘されています。

Commented by もちろん at 2009-06-23 13:18 x
研究の余裕があればするでしょう。それは教員の自由です。しかし目的はあくまで教育の質を高めるためです。教育が優先ですよ。リベラルアーツカレッジの教員は研究者ではなくてまず教育者なのです。それが使命なのですよ。
教育を使命と思えない大学人ばかり量産したことが日本の大学教育の貧困を招いていると思いますね。
Commented by コモン at 2009-06-23 13:18 x
こういう話の例が一番わかりやすいかも。

もし日本人がノーベル賞を獲った場合、その日本人が所属している学部のみならず大学全体のモチベーションが上がります。ノーベル賞の資金で研究設備を整えれますし、校舎が建つことも多いでしょう。そうしたらまたノーベル賞がでやすい環境へと変わるのです。学生数も安定しますし、経営も安定します。

教育だけを行っているような大学では、はっきりいって学生数が安定しないでしょう。優秀な教授も集まらない(研究設備がないため)。負のスパイラルが発生します。

小中高と大学がかけ離れている理由は研究にあるということです。研究を行い成果を出さねば、全てにおいて安定しないのです。研究設備がない=優秀な教授が得られない=教育の質の低下=学生数の低下。こんな模式図で示されると思いますよ。

Commented by いえいえ at 2009-06-23 13:44 x
ノーベル賞のみを基準に考えるその発想がまさに貧困なのです。大学のモチベーションを上げるのはそこの教育を受けた人物がどういうかたちであれ社会で活躍することです。ノーベル賞も結構ですが、世の中はそれだけではありません。
大学が小中高と違うのは「高等」教育だということです。教育の質が高等なのです。リベラルアーツカレッジにおいては研究は教育を高める方法の一つにすぎません。別にリサーチ大学を否定はしませんが、その至上主義はどうかと思います。
Commented by alchemist at 2009-06-23 17:17 x
>教養学部や教養課程も学者の自己満足のような授業
良くそう評されてますね。
教養部でいたのは随分前なのですが、私には結構面白い講義が並んでました。一年間延々と藻類の分類学を教える先生の講義も、続けて聞いていると味がありましたし。清朝の貿易のデータをモトにマニアックにアヘン戦争についてだけ論じる東洋史も、歴史学のお作法を見せつけられるようで面白かったですし。むしろ、専門に入った後で始まった『役に立つ』医学の講義の方より、知的には刺激されました。社会に出て役に立つという意味が精確に判っている訳ではありませんが、米国で勤めていた頃、教養部での講義で習った考え方みたいなものは、研究室の外で話したりする時に有効ではありました。金銭的な儲けには繋がりませんでしたけど、イヌ仲間のヤッピー(元弁護士)やら画家やらと話すネタにもなりましたし。
by stochinai | 2006-05-11 15:46 | 大学・高等教育 | Comments(31)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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