5号館を出て

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教員を評価してあげてください

 昨日のエントリーには、たくさんのコメントとトラックバックをいただき、たいへんにありがとうございました。

 こうして、ネットを使うとお金や権威の力をかりなくても、とても良い意見を集めたり、建設的な議論ができるのに、政府はどうしても**会議とか***委員会とかを主催したがるのは、やはり意図したような結論へと持っていくことが簡単だからなのでしょうか。タウンミーティングだと「やらせ」は新聞ネタになりますけれども、教育再生会議が「やらせ」だというところまで新聞やマスメディアでとりあげるというようなことは、あまりないような気がします。でも、こちらから見るとまったく同じ臭いがするのは、下司の勘繰りというものでしょうか。

 それはさておき、昨日のエントリーでたくさんの人から、教員の評価は必要だし、良いことではないか、というご意見をいただきました。

 コメント欄でも書きましたけれども、私も教員を評価してはいけないなどとは思っておりません。むしろ、がんばっておられる良い先生を積極的に評価していただきたいとすら思っております。

 では、なぜ子どもや保護者(大学だと学生)による評価に対して否定的なコメントをしたのかというと、非専門家による「評価」というものが往々にして、好き嫌いや理解できるできないという、感情的なところで結論を下されてしまうことが多いことと、もうひとつはそうして得られた「評価結果」が一人歩きをはじめて、別の目的にも利用されてしまうことを恐れたからなのです。

 あともうひとつ評価につきまとう「客観性」という魔物にも触れておかなければなりません。評価というものが難しいとは誰しも認めることですが、それに客観性を持たせるためにしばしば行われるのが「数値化」ということです。これは科学とも関連があることなのですが、数値化には「数値化できるものしか数値化できない」という落とし穴があります。

 あたりまえのことのように聞こえるかもしれませんが、世の中には数値化できるものとできないものがあり、たとえば「教員の能力」などというもののうちで数値化できることなどは、能力全体のうちのほんの一部だということに注意しなければなりません。

 しかし、それにもかかわらず数値化できるものは、ある種の客観性もありますし、それよりなにより数値というものは一次元に並べて比較することが簡単ですので、ついつい広く使われてしまうことになります。

 研究者の世界ならば、論文数とかその論文のインパクトファクターとか、学位をとった弟子の数とか、指導している大学院生の数とか、数になりやすいものが比較の対象になって、研究者あるいは教育者の質として比較されてしまうことになります。

 小中高校の先生だと、受験でどこの学校に何人入れたとか、クラスでいじめられた子どもが何人いるとか、出席停止になった子どもが何人いるとか、自殺した子どもが何人いるとか、そんな数値になりやすいものだけが比較に対象になってしまうことをとても恐れます。

 今日は大学の話はやめておきますが、小中高校の先生の教え子の何人が受験に受かったというのはほんとうに先生の能力を反映しているのでしょうか。最初から能力の高い子どもを選別して、そうではない子を教えることを拒否した先生のクラスからはたくさんの合格者が出るのではないでしょうか。それは、先生の能力だけを反映しているでしょうか。子ども達の能力のほうが大きいのではないでしょうか。

 あるいは、同じような子ども達を預かった二つのクラスで、片方は真面目にあらゆる教科を教えました。もう一つのクラスでは、受験科目以外の学習時間をすべて、受験科目に振り当ててガリガリと詰め込み勉強をさせました。さて、この場合どちらのクラスの子どもがたくさん合格するでしょうか。そして、その場合単位を偽装してズルをしたクラスの先生の評価が高くなるというようなことはないでしょうか。

 あるいは、とても大変な児童がたまたま何人もいるクラスを担当した先生はどうでしょう。その子たちのために時間外の自分の時間をたくさん使って、土日もなくなるほど彼らの相手をしてやった結果、その子たちは普通の子ども達と同じようにクラスで振る舞えるようになり、普通に公立の中学に進学したとしたら、その先生にはなんらかの数値的評価が与えられるでしょうか。不登校児やいじめを出さなかったという意味で×の評価は避けられたとしてもプラスの評価はもらえないのではないでしょうか。

 でも、私にはどの場合も数値をもらえなかった先生も、とても良い先生のように思えてならないのです。わかりやすい評価をするということは、おそらく「客観的な数値評価」が導入される可能性が高いと思います。特に、教育の専門家ではない人が評価にかかわると、「私は良くわからないから数値で出せるところだけで評価しましょう」ということになるのではないかと、とても心配なのです。

 もちろん人間が生きている限り、競争や評価は避けて通ることのできないもので、それを否定するつもりはまったくないのですが、評価するのなら数値で比べられないものもしっかりと評価することのできる「専門家」にやってもらいたいと思います。そして、たとえ専門家といえども神様ではありませんから、間違うこともあるでしょう。そういう時のために、評価する人を監視するあるいはさらに評価する人も用意して欲しいのです。

 そうした体制がととのったならば、いま現場で苦しみ、悩み、がんばっておられるたくさんの素晴らしい先生方も、喜んで自分を評価してもらいたいと思うことでしょう。

 評価というのは、人をおとしめるために行うのではなく、素晴らしいひとを褒めるために行っていただきたいと思います。

 わかっていただけるでしょうか。
Commented by winter-cosmos at 2006-11-30 00:32 x
こんばんは。
 私も10年ほど子どもらからアンケート等を受ける立場の仕事をしていましたが、同時にPTAの役も、当時させていただいていました。
 役員の会合で頻繁に出入りするようになると、管理者である先生が親なんか(教育について)何もわかっていないのだから等々の発言をされるのを耳にすることもしばしばでした。
 新任の先生がいらっしゃて、その方は技術的なものは高いのですが、あきらかに問題(具体的な事実)がありました。
 管理者である先生は新任を指導する立場でもあるので、あくまでもその先生をかばわれるのには困りました。安心して子どもをあずけられません。でも、悲しいかな、感覚的には私らは、子どもを"人質"にとられているようなものでした。 
 (もし導入されることがあったなら)評価制度が正常に機能するような信頼関係がまず築けることを望みます。

 私が受けていたアンケートは、"参考"の範囲だったと思います。相手は小・中学生で、良くも悪くも感覚による評価ではありますから、最終的なことは総合的に見て管理者が判断していました。
Commented at 2006-11-30 01:09
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by kshojima at 2006-11-30 02:12
評価がきちんと活かさなれないと意味が無いです。
昨年も評価はありましたが、記名でこちらで集計するので中身を吟味することもできフィードバックが可能でした。こちらの改善点も明示し、勘違いを解く事は互いにとってよかったです。
しかしこういう仕方は稀で、匿名のものが多いです。結局人気なければ、なんとなく互いの関係を悪くするような気がしてなりません。
これでは参考程度にもならないのが実感です。
うちの場合の一貫は親から担任や担当とはずせと言われ、上は次年度に平気で変更します。また生徒の上または担任への担当の苦情を是として全て受け入れ、当事者に確認せず、授業もろくに見ず、噂だけで評価されています。それが僕なんですけど。。。
生徒は人気で否にしたものが何と無く真に感じとれ、教師は現状から正当でない部分あると分かっていても、数値で現せれば聖人君主で無いので凹みます。これでいい関係や発展が望めないでしょう。
うちが異常なだけかもしれませんが。。。
Commented at 2006-11-30 04:17 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by ナオサン at 2006-11-30 07:29 x
 「数値化」のもう一つの問題は、内容ではなく数字さえだせばよいという発想がはびこることではないでしょうか。そうすると数字が出せる最も安易な方法があれば、そこで思考停止することになりやすいと思います。
 「数値化できるものしか数値化できない」というのはもっともだと思います。さらに言えば、この場合(一人一人を育てるというような場合)は「数値化できる程度のことは些末なことが多い」とも思います(もちろんビジネスで、そうではないこともあるでしょう)。そんなものを目標にしてはイカンのではないかと思っております。

Commented by stochinai at 2006-11-30 13:45
 winter-cosmosさん、お久しぶりです。

 学校とかかわっておられると、「問題教員」に出会うことも多いかもしれません。PTAの立場では、親御さんが「子どもを人質に取られている」という感覚になるというのも、良くわかります。学校の管理者(校長先生でしょうか)や教育委員会も実は利害関係者なのが日本の教育現場の悲劇だと思います。みんなで、自分たちの利害を最大にすべく隠蔽や共犯行為を犯す構造になっています。

 ですから、私が言いたいのは利害関係のない第3者が教員や(時には父母)を評価したり、批判したりというシステムが必要だということなのです。文科省からも、教育委員会からも、学校からも独立した監視機構が必要なのだと思いますが、それは文科省や政府の権限を弱めることになりますから、改革案としては出てこないのでしょう。

 八方ふさがりですが、ここをなんとかしない限り、日本の教育は「再生」しないと思います。
Commented by Tea at 2006-11-30 19:57 x
評価や数値というものが、本来のあるべき姿のためではなくて、いろいろなものを削るために使われている、使おうとしているように思います。教育に必要なことは、数値よりも、もっと目に見えないものを大切にしていくことではないかと思うのです。書いてあることだけを見ようとするから、見えてこないんだと思います。その場しのぎの考えで即決していくような会議では意味がありません。育てることには時間がかかるのです。もっと深く考えていかないと、本当のところがうやむやになります。うやむやにして、権威をかさに解決していくだけなら、子供も大人も救われないと思います。
Commented by stochinai at 2006-11-30 21:04
 みなさん、真剣で生産的なコメントや提言をありがとうございます。非公開コメントも皆さまに読んでいただきたい、素晴らしい者ばかりです。このテーマにつきましては、当ブログにおいて今後も息長く考えていきたいと思います。よろしく、ご協力をお願いいたします。
Commented by oyajikamo at 2006-11-30 21:18 x
昨日のコメントに返信をいただきましてありがとうございました。
私も人(教師)を評価するのに際して必ずしも数値化が必要だとは思いません。例えば企業の人事評価においても数年前に大流行した成果報酬的なものは人事評価における数値化の最たるものであったように感じます。しかしながら昨今はむしろその欠点に注目が集まり人事評価はやはり定量的なものから定性的なものに回帰しつつあるような印象を受けております。やはり人を評価できるのは人でしかないと思います。

私には教職についた大学時代の友人というのも割と多くおりますが、彼らと飲んで話を聞いていると、生徒や親やPTA、学校などに対し色々な不満を持っております。それ自体は人間ですから普通の事だと思いますが、逆にその不満を生じさせている問題の解決策として、彼らには何のツールも組織的な援助も与えられていないということは驚くべきことだと思います。大学を卒業したての若者を教室に一人放り込んで、「あとは頑張れ」というのではシステムとして体をなしていないとしか思えません。
Commented by stochinai at 2006-12-01 07:14
>大学を卒業したての若者を教室に一人放り込んで、「あとは頑張れ」というのではシステムとして体をなしていないとしか思えません。
 まったく同感です。日本の教育現場は、小学校から大学院まで、基本的にこのスタイルだと思います。文科省がその基本的問題点に気が付いていないのか、知らないふりをしているのかわかりませんが、「教育再生会議」などで、こうした教員の支援体制の欠如をどうするかという議論がほとんどされてこないことに、大きな違和感を覚えます。
by stochinai | 2006-11-29 23:33 | 教育 | Comments(10)

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