5号館を出て

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本を所有することの科学的意義

 夏目書房から2000年に出た、東郷雄二さんが書いた「東郷式文科系必修研究生活術」という本があります。

 アマゾンで見ると在庫がないようで、「出品者からお求めいただけます」ということで、280円からの値段がついています。夏目書房のホームページに行くと、まだ定価(本体1900円+税)とともに表示されていますので、絶版になっているわけではないと思うのですが、私も某古書店で格安で手に入れました。

 ひととおり読んでみましたが、文系の研究スタイルもITの導入で、急速に発展していることを考えると、この手の「術」ものはあっというまに内容が古くなるので、上述のような状況は、仕方がないのかもしれません。とは言え、中に心に残った文章がありましたので、引用させていただき、後世の記録として残しておきたいと思います。

 前置きとして書いてあるのが、林望さんが「借りて読んだ本は記憶に残らないから」、本は自分で買うべきであるという持論をお持ちだということで、東郷さんはそれに賛成と言っているだけではなく、借りて読んだ本が記憶に残りにくい理由を、極めて理科系の科学的に説明しています。おそらく、「脳科学者」を標榜されている方々も認めてくれると思われる説だと思われます。
 自分で買った本は、机の傍らの書棚に並べるのがふつうである。書棚に目をやると、本の背表紙が目に入る。記憶というものは不思議なもので、本の背表紙を眺めていると、無意識のうちにその内容を思い浮かべる。またときどきは手に取ることもある。表紙の色や汚れ、カバーのデザインなども自然と目に入る。本来は本の内容とは関係ないはずの物理的存在感が、記憶の強化に役立つのでではないだろうか。背表紙を眺めているだけで、本の内容が頭の中に定着するように感じられるのである。
 図書館で借りて読んだ本ではこうはいかない。返却してしまえば、それで終わりである。記憶をきょうかしてくれる物理的実体が手元になくなるのである。(119P)
 どうでしょうか。私は完全に説得されてしまいました。

 積ん読という言葉があります。買っただけで読まずに積んでおくことを言うのですが、たとえ積んでおいたとしても、その本の中は買った時にはパラパラと読んでいるはずです。そして、その本の内容の断片は頭に残っている可能性はあります。その程度の弱い記憶でも、目の前に当のその本があれば時折思い出して記憶からはなかなか消えにくいと思います。そして、ある日その本の内容と関連のある出来事に出会って、そう言えばと積んでおいた本を引っ張り出して読むということもたまに経験することです。

 本というものは、いつしかどんどんたまりにたまって部屋を占領してしまうのが、どうも不思議だったのですが、私のようなあまり記憶力がよくない人間は、本そのものを自分記憶の一部として使っているのため、身近に置いておかなければならないということなのですね。本がひたすらたまってくる理由が、この文章で氷解しました。

 逆に言うと、まわりに散乱している本がなくなったら、私のメモリーは真っ白になってしまうのかもしれません。とは言え、本はあったとしても「あの本はどこだ」といつも探し回っている私にとって、このメモリーへのアクセス速度はあまりにも遅く、ほとんど役には立っていないのかもしれません。

 そうなると、偉そうなことを言っても所詮は自己満足ですね。
Commented by ハニーm at 2007-09-13 12:43 x
ビッグニュースをよそに、のんきなコメントを遅ればせですが ..

実体がなく写真がなくても、好きだった人ならふっと想いだせるでしょう ..
お見合いに喩えます。出会い・なれ初めが、人からの勧めや図書館でも
興味を感じたら、じっくり知りたくなって買うでしょう。
いつでも読めるように傍に置きたくなるでしょう。
(内容に惹かれても、装丁は相当重視します。眺めるのですから)

私は少しの蔵書 を以前アクセスデータにしました。
でも手書きのリストを併用、これまで手離した書籍のタイトル等は
残しています。そこから、当時の様子が蘇る場合が多いです。
愛着の度合? 引用の断片とか、何か手がかりがあれば尚更です。
そういえば、つぶやき様の書斎 (書庫)は、未公開ですね。 (^^;

by stochinai | 2007-09-10 19:55 | 教育 | Comments(1)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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