5号館を出て

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誰が呼んだか万能細胞

 もはや訂正は不可能だと思われますが、iPS細胞が「万能細胞」と呼ばれることに、若干の抵抗を感じております。

 幹細胞にはそれがどのような細胞に分化できるかという能力にさまざまな段階のものがあることが知られており、我々ヒトが大人になっても持ち続けている骨髄の中にある造血幹細胞は、赤血球や白血球(リンパ球、血小板を含めることもある)などさまざまな血球(血液細胞)に分化することができますが、骨髄の中にいる限り普通は神経や筋肉や肝細胞に分化することはありません(正確に言うと、「ないと考えられています」。)

 大人のからだの中にも存在しているかどうかは疑問視されていますが、発生をさかのぼると血管と血液細胞の両方に分化できる能力をもった幹細胞(造血・血管幹細胞hemangioblast)が存在することが実験的に証明されています。

 血液は、筋肉や骨と同じく胚の中胚葉に由来するものなので、さらに発生をさかのぼると血液にでも筋肉にでも骨にでもなる能力を持った中胚葉の細胞があることになります。もし、その能力を持ったまま分裂し続ける細胞があればそれを中胚葉性幹細胞と呼ぶことができることになりますが、普通に発生を続けるとそういう細胞はなくなって(それぞれの細胞に分化して)しまいます。

 さらに発生をさかのぼると、中胚葉以外に、神経や皮膚のもとになる外胚葉と、消化管や肝臓などのもとになる内胚葉という3つのすべての胚葉に分化する能力をもった共通の祖先細胞に行き着きます。ヒトなどの哺乳類では、発生初期に出現する「内部細胞塊」と呼ばれる細胞がこれにあたります。

 この内部細胞塊は、ヒトのからだのすべての細胞の元になる細胞ですので、あらゆる細胞に分化する能力を持っています。そして、この細胞を胚から取り出して、どんな細胞にでも分化できるという性質を持たせたまま分裂させ続けることができるようになったものが、ES細胞(胚性 Embryonic 幹 Stem 細胞)というわけです。

 発生学用語では、内部細胞塊のようにどんな細胞にでも分化できる性質を持った幹細胞を全能性幹細胞(Totipotent Stem Cell)と呼びます。ES細胞は全能性を持っていると考えられていますが、報道場面で取り上げられる場合にはこの全能性細胞のことがしばしば「万能細胞」と呼ばれていました。

 この度、山中さんが作ったiPS細胞は induced (人為的に誘導された) Pluripotent (多能性) Stem (幹) 細胞という意味です。多能性というのは全能性が確認されたわけではないが、限りなくそれに近いいろいろなものに分化する能力を持った細胞という意味で名づけられたものだと思います。多能性は、pluripotent 以外に multipotent という言葉があてられることもあります。

 ES細胞も基本的には同じ位置づけの細胞ですので、厳密には全能性幹細胞というよりは多能性幹細胞と呼んだほうが良いのですが、なぜかニュースになる時には多能性幹細胞という言葉がいつの間にか「万能細胞」に置き換わってしまいました。そしてiPS細胞も多能性幹細胞であるにもかかわらず「万能細胞」と呼ばれ続けています。

 おそらく、多能性幹細胞であるES細胞もiPS細胞も適切な条件においてやれば全能性を発揮するものと思われますので、全能性幹細胞と呼んでも良いのでしょうが、全部ということを「科学的に」証明することは意外に難しいことなので、研究者としては「全能性」という言葉を使うことをためらうのは誠実な態度だと言えます。というわけで、ほとんどの研究者はES細胞やiPS細胞のことを多能性幹細胞と呼んで、全能性幹細胞とは呼ばないのだと思います。

 そもそも「万能」などという言葉は生物学にはない言葉で、工学・技術系のニュアンスを感じます。医学もどちらかというと工学・技術系に近いものが感じられますので、ご要望に応じてどんな細胞をも作り出すことができるという意味での「万能」ということなのだとは思います。

 それにしても、何十年も前から全能性と多能性さらに特定の細胞にしか分化することのできない単能性幹細胞という言葉を使い続けてきた身としては、この「万能細胞」という響きに何か落ち着かないものを感じているのであります。

 そう言えば、パーソナルコンピューターをパソコンと呼ぶことに今でも抵抗感を持っている私ですが、標準用語として定着している以上、伝わることを重視する会話の場面などでは不本意ながら使ってしまうことがだんだんと増えてきています。(実は、サイエンスカフェなどでは、やはり便利なので「万能細胞」という言葉を、すでに何度も使ってしまっている私なのでした。^^;)
Commented by バイオはド素人のプログラマです at 2008-01-21 00:21 x
情報系ですと「万能チューリングマシン(Universal Turing Machine)」なんて用語が大昔から違和感無しに流通していますけれども、バイオ系ではpluripotentをiPS細胞の文脈で「万能」と意訳するのは違和感を持つ専門家が多いのでしょうか?日本語版Wikipediaの「人工多能性幹細胞」という項目の記事(ここでは「万能」という訳は適切という記述があります)なんかがstohinai先生のような専門家の目から見てどう評価されるのか興味があります。山中研の論文リストにも「万能」という言葉が含まれたタイトルがありますので、第一人者が気にしてないのなら「万能」でよいのでは、とか素人考えしちゃったりするのですが。
Commented by 研究バ○一代 at 2008-01-21 08:28 x
今回の件は 簡単で、単に日本語には語彙が少ないだけと思います。英語では受精卵- totipotent 、ES-pluripotent、somatic stem-multipotentと区別していると思います。

なお、本件とは関係ありませんが、ポスドクの方々向けのエントリーをしました。
よろしければご覧ください。
Commented by ogaga at 2008-01-21 10:34 x
全能性は"every", 多能性は"more than one"ということですよね。
Commented by stochinai at 2008-01-22 22:21
 pluri- とmulti- はまったく同じ意味だと思います。おそらく研究者の頭の中では、多能性が実験的に示されるということは、それが全能性を持っている可能性が極めて高いと思っているはずです。しかし、論文を書く時には全能であると書くとレフェリーから「どこに証拠がある!」と責められるので、多能性と書くのだと思います。

 広辞苑
 万能:すべての物事に効能のあること。
 全能:何事もできないことのないこと。十全の能力。
 全能性:1個の細胞が、生物個体を構成するあらゆる細胞型へと分化できる能力。胚性幹細胞などで見られる。
 多能:多方面にわたっての才能を身に具えていること。多芸。
Commented by 小市民 at 2008-01-26 02:19 x
> 全部ということを「科学的に」証明することは意外に難しいことなので、研究者としては「全能性」という言葉を使うことをためらうのは誠実な態度だと言えます。
> .....
> やはり便利なので「万能細胞」という言葉を、すでに何度も使ってしまっている私なのでした。^^;)

学者の言葉の論理・感覚を垣間見る事ができて、面白かった。(^^;

iPS細胞から色々作れるのですから、とりあえず「万能」としておいて、もし作れない例が発生したら「万能」を変える、というのは普通の小市民の感覚です。
もし両者が同じ事の場合、「多能性細胞」の言葉より、「万能細胞」の方が遙かに魅力・迫力があります。
Commented by からから at 2008-01-29 13:29 x
全能性か多能性の区別は自律的に個体発生ができるかどうかの違いだと定義されているので、ES細胞は全能性にならないと思います。
「能」というのを「胚葉」と考えているなら、胚体三胚葉+胚体外にも分化できるので「全」となりますけど。
蛋白質 核酸 酵素でそういう記事を読んだことがあります。

とりあえず万能は科学用語じゃないですよね〜
Commented by 小市民 at 2008-01-31 00:29 x
> とりあえず万能は科学用語じゃないですよね~

とりあえず「万能細胞」は科学用語です。

その理由は、最初のコメントの[バイオはド素人のプログラマです]さんが綺麗にまとめられていました。
by stochinai | 2008-01-20 21:37 | 生物学 | Comments(7)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


by stochinai