5号館を出て

shinka3.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

2006年 11月 29日 ( 1 )

 昨日のエントリーには、たくさんのコメントとトラックバックをいただき、たいへんにありがとうございました。

 こうして、ネットを使うとお金や権威の力をかりなくても、とても良い意見を集めたり、建設的な議論ができるのに、政府はどうしても**会議とか***委員会とかを主催したがるのは、やはり意図したような結論へと持っていくことが簡単だからなのでしょうか。タウンミーティングだと「やらせ」は新聞ネタになりますけれども、教育再生会議が「やらせ」だというところまで新聞やマスメディアでとりあげるというようなことは、あまりないような気がします。でも、こちらから見るとまったく同じ臭いがするのは、下司の勘繰りというものでしょうか。

 それはさておき、昨日のエントリーでたくさんの人から、教員の評価は必要だし、良いことではないか、というご意見をいただきました。

 コメント欄でも書きましたけれども、私も教員を評価してはいけないなどとは思っておりません。むしろ、がんばっておられる良い先生を積極的に評価していただきたいとすら思っております。

 では、なぜ子どもや保護者(大学だと学生)による評価に対して否定的なコメントをしたのかというと、非専門家による「評価」というものが往々にして、好き嫌いや理解できるできないという、感情的なところで結論を下されてしまうことが多いことと、もうひとつはそうして得られた「評価結果」が一人歩きをはじめて、別の目的にも利用されてしまうことを恐れたからなのです。

 あともうひとつ評価につきまとう「客観性」という魔物にも触れておかなければなりません。評価というものが難しいとは誰しも認めることですが、それに客観性を持たせるためにしばしば行われるのが「数値化」ということです。これは科学とも関連があることなのですが、数値化には「数値化できるものしか数値化できない」という落とし穴があります。

 あたりまえのことのように聞こえるかもしれませんが、世の中には数値化できるものとできないものがあり、たとえば「教員の能力」などというもののうちで数値化できることなどは、能力全体のうちのほんの一部だということに注意しなければなりません。

 しかし、それにもかかわらず数値化できるものは、ある種の客観性もありますし、それよりなにより数値というものは一次元に並べて比較することが簡単ですので、ついつい広く使われてしまうことになります。

 研究者の世界ならば、論文数とかその論文のインパクトファクターとか、学位をとった弟子の数とか、指導している大学院生の数とか、数になりやすいものが比較の対象になって、研究者あるいは教育者の質として比較されてしまうことになります。

 小中高校の先生だと、受験でどこの学校に何人入れたとか、クラスでいじめられた子どもが何人いるとか、出席停止になった子どもが何人いるとか、自殺した子どもが何人いるとか、そんな数値になりやすいものだけが比較に対象になってしまうことをとても恐れます。

 今日は大学の話はやめておきますが、小中高校の先生の教え子の何人が受験に受かったというのはほんとうに先生の能力を反映しているのでしょうか。最初から能力の高い子どもを選別して、そうではない子を教えることを拒否した先生のクラスからはたくさんの合格者が出るのではないでしょうか。それは、先生の能力だけを反映しているでしょうか。子ども達の能力のほうが大きいのではないでしょうか。

 あるいは、同じような子ども達を預かった二つのクラスで、片方は真面目にあらゆる教科を教えました。もう一つのクラスでは、受験科目以外の学習時間をすべて、受験科目に振り当ててガリガリと詰め込み勉強をさせました。さて、この場合どちらのクラスの子どもがたくさん合格するでしょうか。そして、その場合単位を偽装してズルをしたクラスの先生の評価が高くなるというようなことはないでしょうか。

 あるいは、とても大変な児童がたまたま何人もいるクラスを担当した先生はどうでしょう。その子たちのために時間外の自分の時間をたくさん使って、土日もなくなるほど彼らの相手をしてやった結果、その子たちは普通の子ども達と同じようにクラスで振る舞えるようになり、普通に公立の中学に進学したとしたら、その先生にはなんらかの数値的評価が与えられるでしょうか。不登校児やいじめを出さなかったという意味で×の評価は避けられたとしてもプラスの評価はもらえないのではないでしょうか。

 でも、私にはどの場合も数値をもらえなかった先生も、とても良い先生のように思えてならないのです。わかりやすい評価をするということは、おそらく「客観的な数値評価」が導入される可能性が高いと思います。特に、教育の専門家ではない人が評価にかかわると、「私は良くわからないから数値で出せるところだけで評価しましょう」ということになるのではないかと、とても心配なのです。

 もちろん人間が生きている限り、競争や評価は避けて通ることのできないもので、それを否定するつもりはまったくないのですが、評価するのなら数値で比べられないものもしっかりと評価することのできる「専門家」にやってもらいたいと思います。そして、たとえ専門家といえども神様ではありませんから、間違うこともあるでしょう。そういう時のために、評価する人を監視するあるいはさらに評価する人も用意して欲しいのです。

 そうした体制がととのったならば、いま現場で苦しみ、悩み、がんばっておられるたくさんの素晴らしい先生方も、喜んで自分を評価してもらいたいと思うことでしょう。

 評価というのは、人をおとしめるために行うのではなく、素晴らしいひとを褒めるために行っていただきたいと思います。

 わかっていただけるでしょうか。
by stochinai | 2006-11-29 23:33 | 教育 | Comments(10)

今日二つ三つ朝顔の通り道          稲畑廣太郎


by stochinai