5号館を出て

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ゆく年くる年

 大晦日です。明日からは、2005年が始まります。人間が勝手に決めたカレンダーの区切りが改まるだけなのですが、今日で1年が終わり、明日から新しい1年が始まると言われると、なんとなく今年1年はどんな年だったのだろうと振り返る気分になるのが不思議です。

 しかし、振り返って思い出せることは1ヶ月か2ヶ月くらい前までのことで、それより前のことは今年のことなのか、去年のことなのか、それよりもずっと前のことなのかがはっきりしないようです。

 これは、単に私の記憶力に問題があるということなのかもしれませんが、人間の頭が別にカレンダーと連動して動いているわけではない以上、こんなもので良いのではないかと思っています。つまり私にとって、3ヶ月以上前の過去は、今年であろうがそれ以前であろうが、単なる過去としてまとめてしまわれているということです。

 そんなトリアタマ(来年の干支の酉は三歩歩くとモノを忘れると言います)の私ではありますが、振り返ってみるとこの「つぶやき 新シリーズ」が始まったのが、今年の2月21日でした。いつまで続くか、と自分でも思っていたのですが気が付いてみると、ほぼ毎日書き続けて今日までたどり着いております。

 新しもの好きではありますが、飽きっぽい私としては良くもこんなに続いたものだと、自分でも感心しております。どうせ続いたのですから、1周年記念日までは書き続けてみたいと思っております。書き続けて記録が残るということは、恥ずかしいことでもあるのですが、自分の発言に責任を持つという意味ではなかなか優れたやり方だとは思っています。

 もちろん、間違ったことを書いてもそれがずっと残ってしまいますが、逆に「それは違うよ」という指摘を受けることで、訂正することもできます。タイミング良く、アメリカにいる友人から「誤用納め」というタイトルのメールを頂きました。

 「ところで、11/23の『つぶやき』に "確信犯"という言葉が出て来て、連絡しようとしてそのまま忘れてしまったんですが、再度、12/25にも出て来たので、思い出して連絡している次第です」とのこと。それは誤用だというのです。ありゃりゃ。

 goo辞書によると、確信犯とは「道徳的・宗教的・政治的な信念に基づき、自らの行為を正しいと信じてなされる犯罪。思想犯・政治犯・国事犯など」を指すということです。

 私が引用した「確信犯」は、雑酒をビール並みに課税しようとした学者のI氏と、論文データをねつ造した研究者達でした。

 確かに、彼らの行動は崇高な理念に基づいて行動している政治犯に比較するとあまりにもみみっちく、それを確信犯などというと、命をかけて人々のために闘っているミャンマーの星・アウンサンスーチーさんなどに申し訳なくなります。

 犯罪を行う人間の多くは、自分が犯罪を犯していることを自覚しているものだと思います。もちろん、私が使っていた「確信犯」という言葉には、悪いことをやるのだと思いながらも犯罪を犯す人間までは含んでいませんでした。私が使ったケースでは、行為としては犯罪的なものかも知れないが、自分には理があり行うことは罪悪ではなくむしろ正義であるという立場で行う「犯罪(法律に反する行為)」を指していたつもりです。

 そういう意味では、「認識犯」とか「意識犯」、「信念犯」(どれも美しくない言葉ですが)のような言葉を使うべきだったと反省しております。

 日頃から、美しい日本語を守らなくちゃと言っていながら、自分から誤用を連発していてはいけませんね。今後とも、いろいろとご指摘をいただけるとありがたいところです。

 というわけで、今年は「誤用納め」で年を締めくくることができましたので、良い大晦日になったと思います。また、明日から心機一転、ぶちぶちとつぶやきを続けていきたいと思います。

 どなたさまも、良いお年をお迎え下さい。
by stochinai | 2004-12-31 23:49 | つぶやき | Comments(0)

犯人逮捕

 ついに、奈良の小学生誘拐殺人事件の容疑者が逮捕されたようです。少なくとも警察発表によれば、殺された少女の携帯電話やランドセルが容疑者の自室から出てきたということですので、間違いはなさそうに思われます。

 事件から約1ヶ月半の逮捕ですから、最近の逮捕率の低さを考えると快挙と言えるのかもしれません。

 しかしながら、記者会見した奈良県警の刑事部長さんがうれしそうにニヤニヤしながら発表していたのは、ちょっといただけなかったと思います。本音として、嬉しい気持ちがあってもそれはそれで無理はないと思うのですが、昨今のように警察への風当たりが強い状況の下では、もう少しきちんとポーカーフェイスを作ることの出来る人をスポークスマンに立てておかないと、そのうちバッシングに遭いそうな気がします。

 それにしても、今回の事件は警察にとっては練習問題のように簡単なケースだったのではないでしょうか。

 特に、2回目の連絡「次は妹だ」というメールが、同じ少女の携帯を使って発せられ、しかもおおよその場所まで特定されていました。そのニュースを聞いた時に、私は犯人が逮捕されたがっていると思ったほどです。

 場所を移動しない犯人が、敢えて証拠を残すような形で、何度も連絡してくる。警察としては、当然連絡の可能性を考えて待ちかまえていたはずですし、場合によってはリアルタイムで犯人の追跡をしていたかもしれないと思っています。

 さらには、犯人は同様の幼女をいたずらした事件で逮捕歴が2回もある人間でした。当然のことながら警察は、前科者しかも特殊な犯罪歴を持っていて、この地域に住む人間のチェックもしていたはずです。

 初犯の場合は難しいと思いますが、今回は本当に絵に描いたような再犯で、しかも異様なほどに警察に対する警戒がありませんでした。警察をバカにしての行動でなければ、やはり逮捕されたくて取ったとしか思われない行動を繰り返していたように思われます。

 他の犯罪の場合と違い、幼女に対する犯罪は精神異常が背景にあることが考えられ、再犯の可能性もきわめて高いことが予想されます。

 そうだとするならば、犯行が起こってから犯人を逮捕したのでは、(もちろん逮捕できないよりはマシでしょうが)ちょっと遅すぎると言えないでしょうか。

 少なくとも変態的犯罪の前科を持っている人間は、定期的に監視するくらいのことをやっても良いと思われます。

 もちろん人権的な問題がありますので、その人の社会復帰を妨げるほど過剰になってはいけないと思いますが、再度の犯罪を防止することは犯人のためにもなることですし、もちろん犠牲者を作らないという意味では検討に価するのではないかと思います。

 警察もいろいろと忙しいのはわかりますが、道警の裏金事件に代表されるように警察の信頼も地に落ちて来ていますので、今度は警察の側から市民の信頼を得るような、素晴らしいアクションが起こされることが期待されています。

 犯人を捕まえるより、犯罪を防止する警察になって欲しいものです。
by stochinai | 2004-12-30 00:00 | つぶやき | Comments(0)
 いよいよ歳も押し迫ってきました。

 遅れに遅れたのですが、年明けまで持ち越すこともできないので、書評を書きました。インターネット新聞JANJANに載る前に、こちらで発表します。

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『食べものと農業はおカネだけでは測れない』書評

 農業の危機を我々のいのちの危機と認識しよう

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 力作である。日本における食糧政策の歴史と、我々が置かれている食べ物を巡る状況が良く整理されている。読み終わってみると、自ずと我々のとるべき道が見えてくる。ただし、政府や巨大資本も同じ意見を持つかどうかは保証の限りではない。

 タイトルを見るだけで、おおよその内容が推測できる本ではあるが、9ページという比較的長めのプロローグがとても良く書かれていて、ある意味でこの本のすべてがその中に凝縮されている。そのため、プロローグを読むことで、敢えてこの本を買って読まなくても良いと思う人と、本を手に入れてより詳しくその解析と提案を読んでみたいと思う人に分かれるのではないかと思った。

 私は後者であった。

 本というものは、普通は書店へ出かけて手に取り、装丁を鑑賞し、前書きと後書きを中心にパラパラと拾い読みした後に、購入するかどうかを決める。しかし、今はネット時代。わざわざ書店に赴かなくても気に入った本を見つけることができれば、購入したいという人も多いと思う。

 そこでちょっと思ったのだが、こういうプロローグは全文をネットで公開してみてはどうだろう。それを読むだけで満足して買わないと言う人もいるだろうが、そういう人は書店でこの本を手にしても買わないだろう。逆に、ネット上でそのプロローグに出会い、購入してくれる人も多いのではないだろうか。すでに詳しい目次は公開されているのだが、目次では著者の文体などは伝わってこないので、購入の決め手にはなりにくいだろう。商売を離れても、著者の主張が世界に公開される意義も大きい。

 農業研究者である著者は「人間は他の生き物(のいのちの産物)を食べることによって、自らのいのちを継続してきた」という生物学的視点を見失わない。ヒトの命の危険に直結する高病原性トリインフルエンザ、BSE(狂牛病)、O-157、抗生物質耐性菌問題などが次々と起こっている現状を、科学技術による食べものの人工改造によって、食べもの自体が危険なものになるという人類未曾有の「食の危機・第三ステージ」に入ったと、著者は警告する。

 そうした状況を引き起こしたのが、農産物の商品化、グローバリゼーション、大規模農業などであり、それをを推進してきた日本のそして世界の農業政策の歴史を振り返り、絶望する前にその状態から脱するために我々にもできることがまだあることも教えてくれる。

 その解決策として、現代市民社会を農村市民社会へと再構築するという提案を、我々は受け入れることができるだろうか。さらには、それを受け入れる政府を、そして世界を作ることができるのだろうか。問いかけの意味は重い。
by stochinai | 2004-12-29 00:00 | つぶやき | Comments(0)
 昨日の今日に、新潟ではまた比較的大きな地震があったようです。魚沼市で震度5弱 新潟中越地震の余震。雪も降っているようですし、ようやく今日から再開された上越新幹線も2時間ほど停止したとのこと、本当にお気の毒でなりません。

 ついつい長年の癖で、今日は「御用納め」と言ってしまいそうになるのですが、公務員ではなくなったので、今日は「仕事納め」です。

 大学内でも、そのことをあまり気にしていらっしゃらない方が多いみたいで、私は気を付けて「教員」と名乗るようにしているのですが、まだまだ自分のことを「教官」と呼ぶ方も多い周辺です。

 何か今年つぶやき忘れたことがあったような気がするのですが、授業料のことだったかもしれません。

 国立大授業料、1万5千円目安に値上げへ調整というニュースはちょっと前に流れましたが、大学内で話題になるふうもありません。国立大学の授業料値上げを文科省が押しつけを読んでもわかるのですが、授業料は別に値上げすることを強制されているわけではないのです。

 文科省としては、皆さんは法人化したのですから、授業料を上げるのも自由、上げないのも自由、さらには下げたっていいんですよ、とおっしゃっているようです。ただし、文科省が標準と定める授業料の値上げをしようがしまいが、来年度から大学へ配分する運営交付金は値上げ分相当を減額するとのことです。

 なるほど、それはうまい手です。しかし、一般社会では通用しない論理ではあります。たとえば、サラリーマンもやっている兼業農家で給料を下げるので、作っている作物を値上げして、その穴埋めをしなさいと言っているのと同じです。作物の値段は消費者の欲求との兼ね合いで決まりますから、自分の都合で値上げすると却って売り上げが落ちる可能性があるのです。

 国立大学の授業料はどうでしょう。これだけ強気で隔年くらいに上げ続けているということは、まだまだ値段を上げても売れると見ているということですね。ほんとうでしょうか。

 それはさておき、我が北海道大学は大学院生も含めると1万5000人以上の学生がおりますので、その数に標準値上げ分の授業料をかけ合わせると2億円以上です。別に授業料を値上げしなくてもいいんですけど、それだと2億円の配分が減りますよ、と言われて「それでもいい」と言えるかどうかを試されているのだと思います。

 もちろん、もっと値上げしても良いのです。文科省としては10%くらいは高くしてもいいと言っているようですので、例えば5万円値上げしてみましょう。そうすると、北大では7-8億円の増収になります。受験生が減るでしょうか。質の高い教育をする自信と名声があるならば、減らないと思います。それがないならば、やはりできない相談です。

 理想はさておき、このような状況に置かれて横並びを美徳とする日本人が取るべき行動はただひとつだと思います。全国の国立大学が横並びで、一斉に授業料を値上げする可能性がもっとも高いことが予想されます。

 しかし、これが法人化して最初に独自性が試されるチャンスだととらえるならば、安易に横並びにすべきではありません。

 値上げをしないか、値上げ幅を圧縮するか、あるいは標準額以上に大幅値上げをするか。いずれにしても、文科省とは独自に自分たちの高等教育に対する姿勢を示す良い機会だと思うのですが、首脳部はどう動くでしょう。

 そうでした。大学の中枢におられる方々は、そんなことを考えることより、次の学長選挙のことで大忙しなんですよね。
by stochinai | 2004-12-28 00:00 | つぶやき | Comments(0)

大地震

 今年は(日本で)地震が多いのかな、とか思っていたら、とてつもない巨大地震がインドネシアのスマトラ島沖で勃発してしまいました。死者1万4千人超とのことです。

 マグニチュード9というエネルギーは、想像することすらできませんが、遥かアフリカまで津波が押し寄せ、ソマリアやケニアでも死者がでているという話を聞くと、なんとなく恐ろしさはわかります。

 遠いところの地震による津波被害というと、我々の年代ならすぐにチリ地震津波というものを思い出します。

 チリ地震津波についてというページを見てみると、1960年に起こったチリ沿岸の地震は、モーメントマグニチュードが9.5と今回よりも大きいことがわかりますし、そのページにある図をみるとスマトラとアフリカが意外と近いことと、太平洋を軽々と越えてに日本に大被害を及ぼしたそのすごさが想像できます。

 ちょうど、年末年始の旅行シーズンですから、津波が襲った日本人お気に入りのリゾート地(タイのプーケット島、ピピ島、カオラック島周辺)やモルディブ、スリランカなどには、たくさんの日本人ツアー客もいたようです。

 日本だと、小さな地震でも数分以内に津波情報が出されますが、今回の地域ではそのようなことはなかったに違いありません。

 それより何より、明るくなってビーチに出ていたらたとえ警報が放送されたとしても見聞きすることもできなかったでしょう。

 こんな時こそ、日本の海外協力が必要とされるのではないでしょうか。

 まず、イラクのサマワにいる自衛隊を全員、被災地へ派遣してはどうでしょう。少なくとも、サマワにいるより役にも立つし感謝もされると思います。

 つぎに、日本の地震ごの緊急警報システムを世界中に技術提供しましょう。

 ODAでも何でもいいですが、あるいはリーズナブルな値段ならお金を取っても良いでしょうが、日本にいる我々だけが地震と津波の警報システムに守られているというは、世界平和から見るとなんとも落ち着かないものを感じます。

 アメリカが動き出さないと日本は動けないのでしょうか。

 サマワから兵を引くことができないというのなら、次の派遣部隊を前倒しして被災地へ派遣してください。世界平和への貢献というのは、そういうことだと思います。
by stochinai | 2004-12-27 00:00 | つぶやき | Comments(0)

臨時革命政府樹立

 久しぶりに勇ましい言葉を聞いた気がします。読売オンラインの記事ですがウクライナ野党陣営、臨時革命政府樹立を宣言だそうです。

 ただし、他のメディアがあまりこのニュースに対して追随してこないところを見ると、ひょっとして読売の勇み足なのかもしれません。読売でも、午後2時前にこのニュースを出してから以降のニュースでは、臨時革命政府という言葉は使っていないようです。

 しかし、いずれにせよ今回の大統領選挙を巡って、選挙で「破れた」とされる野党側の市民が直接行動に出たことは間違いなく、現時点で軍事的な衝突は起こっていないものの、政権の引き渡しを要求してデモ隊が大統領府や政府機関を包囲している模様です。

 朝日コムはキエフ騒然 ウクライナ野党勢力、大統領府を包囲で、毎日でもウクライナ:抗議集会に警察署員 政権弱体化あらわにと書いていて、警察署員や放送局が続々と民衆側の支持にまわっていることが伝わってきます。武器を持っている警察や軍隊が、支持を失いつつある旧政府側から離れてくれるならば、うまくいくでしょう。

 この先、軍隊が出てくるようなことになると最悪の事態も予想されないわけではありませんが、なんとかこれが無血革命の成功に向かって欲しいものです。

 あちこち見てみると、産経ウェブに載っている共同通信の記事配布では野党、臨時政権樹立を宣言 ウクライナ分裂の危機 とありますが、その中にある野党救国委員会の布告の中には、「ウクライナの『国民による権力の復活』(臨時政権樹立)を宣言する」と書いてあるので、「臨時革命政府」というのは日本のマスコミが勝手に作った宣伝文句だという気もしてきました。

 グーグルニュースによると、現時点で最新のニュースは河北新報の中枢施設の封鎖開始 ウクライナ野党勢力で、その中では「衝突などの混乱は起きていない」と書かれています。

 いずれにせよ、不正選挙の結果を国民の力でひっくり返すことができるのならば、間違いなく市民革命と呼べるものだと思います。何とか流血なしに成功して欲しいものです。

 ロシアのプーチン大統領は、早々に「新大統領」を承認してしまったというニュースが出ていたと思いますが、昨日のニュースではアメリカのパウエル国務長官が「この結果を認められない」との声明を発表したことが伝えられています。

 うちの政府関係者は、例によって慎重に様子をうかがっているようですが、参院イラク復興支援特別委員会では、首相がイラク派遣を延長する考えを事実上表明した、というところが国際問題に対する政府の動きです。

 アメリカが、市民を支持する姿勢を見せているので、そちら寄りの声明が出てくる可能性は高いと思いますが、まわりの様子を見ながらではなく、スピーディに世界のリーダーシップを取るようなフットワークの良い外交を期待したいものです。
by stochinai | 2004-12-26 17:21 | つぶやき | Comments(0)

ボランティア非常勤講師

 情けない話があります。ボランティアに頼る元国立大学というblog記事です。「とある国立大の非常勤講師をしている」方が、元同級生の教授に「講師料も交通費も出せないけどやってくれるか?」と非常勤講師の「継続」を依頼されたというのです。

 書いている方は、元同級生というよしみもあるのでしょう。「どうせその大学図書館にはちょくちょく行く」のでOKだと答えたのだそうです。しかし、引き受けては見たものの、いろいろと考えたことが書いてあります。私もいろいろと考えさせられました。

 まず、非常勤講師が必要な現状というものを考えると、大学がきちんとした講義をできるメンバーをそろえていないと言うことを意味することになります。国立大学の時から、どこの大学でも非常勤講師を必要としていましたから、完全な講義をできる組織にしなかったということは、設置責任者である国の責任が問われると思います。

 しかし、完全な講義をする責任を完遂できないので非常勤講師を雇ってそれを補うということなら、責任を果たしていることになりますから、それはそれでちゃんとした責任の取り方だったと思われます。

 私の勤務する大学でも、たくさんの非常勤講師がいて、そのすべてにそれなりの金銭的給与が支払われていました。学内でも、全学教育を除くと学部間においても有料の非常勤講師制度がありました。私も医学部の非常勤講師などをやった経験がありますが、初年度は時給が5~6000円だったものが、数年後には3000円程度になり、最後の数年は完全に無給のボランティア制度になってしまっており、とうとう制度そのものが維持できなくなったのか、もう頼まれなくなってしまいました。頼まれる方としても、講師料も交通費も出せないけどお願いしますと言われた場合、よほどのことがないと応じる気分にならないものです。金が欲しいと言うより、尊重されていないという感情的な嫌悪感が大きいように思いました。

 そのような経緯で無くなってきた学内非常勤の次は、予算がないという理由で学外非常勤を削減することが全国の元国立大学・現国立大学法人で起こっていると聞きます。いきなり、全廃することなどとてもできないところでも、徐々に人数を減らすとともに給与も減らされているようです。北海道大学でも、来年度から非常勤講師給与が一律(いままでは、年齢や学歴・職歴などに応じてランクがありました)5500円にダウンされることになっています。

 こうなってくると、要するに非常勤講師をなくするという方向に動いていると見ることができると思いますが、もともと大学の講義を補うために必要とされていた非常勤講師が必要なくなるということは、大学の常勤メンバーが充実してきたか、あるいは教育の質を落とすことに決めたということでしょう。大学の教員数が増えているという話は聞きませんので、大学では教育の質を落としてもやむを得ないと決断したということだと思います。

 そういうことを踏まえた上で上の話を考えてみると、このボランティア非常勤講師を頼んだ方は、お金はないけれども教育の質を落としたくないと考えたのだと思います。頼まれた方は、元同級生の頼みだし、どうせ時々その大学の図書館を利用させてもらうんだし、そのついでに簡単な講義くらいやってやってもいいかということなのだと思います。

 二人とも善意をやり取りしているし、結果的に学生達も利益を被ることになるので、八方幸せでめでたしめでたしなのか、というと決してそうはならないと思います。

 たとえ善意の無償奉仕と言えども、それによって多くの人の雇用の機会を奪っていることになります。全国でたくさんのボランティア非常勤講師が出現すると、大量の失業者が生まれることになります。特に、教育分野に職を求めようという若者にとって、学歴とキャリアのつなぎとしての非常勤講師という職種は非常に重要な役割を持っていたことを考えると、それらの人々に壊滅的なダメージを与えることになるでしょう。

 非常勤講師というものひとつをとっても、これだけいろいろな問題があるのです。単純に予算がないので、もっとも切りやすいところを切るなどということを続けていると、気がついてみると日本の高等教育はその地盤からガタガタになってしまうと思います。(もうすでに十分ダメになっているので後は同じ、という議論はここではしないことにします。)

 法人化された国立大学は、予算だけで国からコントロールされるようになりましたが、このやり方は責任は各大学が持ち、文科省が予算を楯にして責任を各大学に問うというシステムになったことを意味しています。このことにより、いままで以上に文科省が大学に強い指導を出来るようになりました。非常勤講師の削減はその典型的な例の一つで、恐ろしいほどに歩調をそろえて全国の大学が一斉に削減へと走り出しています。

 文科省としては笑いが止まらないでしょうね。
by stochinai | 2004-12-26 00:00 | 教育 | Comments(4)

論文ねつ造

 すでに昨日の夕刊に載っていたようですが、理研の研究者による「論文ねつ造事件」が発覚しました。共同通信の記事は「研究者2人がデータ改ざん 理研、実験の写真を加工」となっていますが、今回問題となった問題の論文は6人の共著論文で、2003年に出版されています。

 しかも、同様なデータ改竄によってねつ造された論文は1998年から3本も出されたことになっています。いちおう理研による報道発表が出されていますので、それをもとに考えてみたいと思います。

 まず、今回の事件が内部告発によって発覚したことがわかります。「平成16年8月4日、内部研究者より、研究論文の不正発表疑惑について指摘があった」と書かれています。告発できるくらい近くにいた人というのは、同じ研究グループの中にいたのかもしれません。調査委員会を作って検討した結果 、2003年論文、1999年論文(理研が元記事を削除しているため、論文書誌データを削除しました:2010/5/29)および1998年に発表された他の1篇の研究論文にデータねつ造があったとされています。(最後の1件は、可能性が高いとされており、断定はされていません。)

 理研として恥ずかしいのは、1年前に問題の2003年論文が出たに記者会見をしていることです。「**********」(理化学研究所及び科学技術振興機構の共同発表)という新聞記事が出ているはずですが、今回の発表と同時にその記事を取り下げると発表しています。

 理研としては、今回の問題を科学研究者のモラルの問題だけに矮小化したいのだと思います。もちろん、不正を働いた科学者がもっとも悪いことは事実ですが、高等教育を受けた科学研究者が不正を働くということは、ある意味で「確信犯」ですから、なぜそのような行動に出たのかを考えると、現在の科学研究および科学研究者の置かれた状況が見えてくると思います。そうした状況を作っている、日本の科学政策の問題点が明らかになってきます。

 理研といえば間違いなく日本の科学研究をリードしている先端研究所であり、研究者にとってはふんだんな研究費とたくさんの研究支援者を使って思った通りの研究ができる夢のような場所であり、各地の大学院で博士を取った若者にとっては比較的高額な給料をもらって博士研究員を続け、場合によってはそこで業績をあげることでステップアップを図ることのできるチャンスが得られる場所です。

 しかし、裏返すと研究費に応じたあるいはそれ以上の「社会的にインパクトのある研究」を要求されるシビアな職場でもあります。今回の事件にも出てくる「新聞に載るような研究」が強く求められる場ということもできるでしょう。

 新聞に載るような研究をすることが、新たな研究費獲得や自分の昇格(あるいは昇級?)に直接響いてくるというようなことがあるかどうかははっきりしませんが、なんとなく関係があるのではないか、という暗黙の了解はあるのだと思います。今回「事件」を起こした主な2人の肩書きが、副主任研究員と5年時限で採用されていた独立主幹研究員であるということは、決してたまたまそうだったのだとは思えません。

 副主任研究員は、主任研究員あるいはどこかの大学の教授になりたかったのかも知れません。時限の研究員は、もう1回の5年契約の更改を控えていたのかも知れませんし、どこかの大学か研究所に応募したかったということもあるでしょう。いずれにしても、研究者の評価およびその人の将来が「新聞に載るような研究発表」によって大きく左右される現実があるとするならば、今回のような事件はこれからも起こり続けると確信します。

 こうした問題の原因の一つに、研究における歪んだ「競争」のあり方があるのだと思います。日本では、最近になって急に大学や研究社会周辺に「競争」というシステムが導入されて来ましたが、競争をする前提となる「フェアな精神」というものは幼い子どもの頃から時間をかけて教え込まれなければ身に付かないものでしょう。

 競争自身が間違っていることだとは思いませんが、競争をする人間がフェアに戦うとはどういうことかを理解しておらず、競争させて選抜させる側(行政など)がしっかりとした判断力を持っていない場合には、往々にして現実の日本で起こっているように評価基準が素人であるマスコミに取り上げられるかどうかなどということが大きな力を持ってしまうことが起こるのだと思います。

 そうなると、どんな方法を使ってでも新聞に載るような研究論文および発表をすることが、勝利への手段だと勘違いされるようなことが起こりうると思います。そして、ポスドクの非常勤研究員、昇格を望む常勤の研究員、政府から評価されたい研究所そのもの、などなどが全員同じ土俵の上で踊りを踊り始めることになります。

 たとえ、最初の一歩が嘘だったとしても踊りは始まることがあり得るのです。特に、科学研究などという恐ろしくプライベートな行為の上に成り立っている作業では、ほんのちょっとした悪魔の囁きに一瞬だけ負けただけで、周りの全員が踊りを始めてしまったら、翌朝夢から覚めたとしても動き始めた状況を止めることなど出来なくなってしまうのでしょう。

 今回の事件で「処分」された人たちは、ひょっとするとこれでようやく楽になれるとホッとしているのかもしれません。

 最大の犯人は政治なのだということを、どのくらいの人が理解してくれるか、今の私は大いに懐疑的です。
by stochinai | 2004-12-25 00:00 | 生物学 | Comments(1)
 昨日のタイトルがクリスマスで、今日がクリスマス・イブというのも変ですが、イブの夜の今日は東京におります。

 さっきJR山手線に乗っていたら、うしろでちょっとお局さん風のOLが、若い男に話していました。「今日は若い娘(こ)達、みんな早く帰ったでしょう。見栄張ってんのよ。イブに仕事しているなんて、人に言えないの、わ・か・る。」。

 そうなんですか。恐いですね。イブの夜に仕事しているのは、恥ずかしいことなんですか。ふ~ん。見栄張って、早く帰るなんて。ふ~ん。そういうの、あるんですか。ありそうですね。

 でも、JRで話しているあんた達は、どうなっているのですか。見栄張らなくてもいいんですか。早く帰った人たちは、見栄張っているわけではなくて、あなたたち以外はみんな予定があっただけじゃないんですか、、、。

 こんなことも言われています。イブの夜に、女の子二人で食事や飲みに出てもそんなにへんじゃないけど、男二人で食事や飲みに出てたらもう完全にダメだと。なにがダメなんでしょうか。

 まあ、確かに年末に出張というのもあまり威張れた話ではありませんが、キリスト教とでもない我々が、クリスマス・イブの夜に何をしていようと問題にされる理由はないんじゃないでしょうか。

 今日はまだ普通の勤務日ですから、出張も残業もそんなに変じゃないと思いますが、違うでしょうか。
by stochinai | 2004-12-24 00:00 | つぶやき | Comments(0)

クリスマス

 郵便局では、今日までに来年の年賀状を出すことを推奨しています。

 つまり、今日までに投函すると元日の配達を保証してくれるということです。

 私は、例によってまだ全然書いておりません。と言っても、虚礼廃止派で年賀状という習慣に反対しようとしているわけでは、もちろんありません。数は多くありませんが、いちおう毎年出すことは出しております。1年に1回くらい近況報告はしておきたいという方に向けて出しているというところでしょうか。

 昔は、外国の人を中心にクリスマスカードも数通出していたこともありますが、さすがにそちらは最近途絶えてしまいました。メールでやりとりしていたこともありますが、文化の違いを乗り越えてクリスマスの慣習を継続するだけのパワーがなかったというところが正直なところです。

 今日は休日だったので、午前中から見るともなくBSでABCニュースを見ていると、変なニュースをやっていました。

 アメリカでキリスト教(原理主義者?)の熱心な信者が、今の時期にクリスマスという言葉を使わずに(クリスマス)セールをやっている店などを非難しているというのです。

 彼らの主張は、今の季節にお祭りセールをするならば、それはクリスマスに関係しているはずなので、キリストの名前を出さずに便乗商法をするいことは許せない。そういうことを続けるならば、不買運動をするというような話のようです。選択肢は、キリストの名前を出すか、セールをやめるか、だそうです。

 なんだか、キリストという名前の著作権や登録商標を主張する権利論争のようにも思えましたが、「キリストの名前なしに、クリスマスのお祝いをすることは許せない」という(自称)キリスト教徒の傲慢に、イラク戦争をリードしたキリスト教原理主義者達の、悪乗りした暴走がとうとうここまで来たようにも思えました。

 アメリカにはキリスト教徒以外の宗教を信じる人もたくさんいるので、クリスマスシーズンの休暇や商戦をあえてキリストの名前を出さずに「シーズン」という曖昧な言い方をすることが良くあります。いわゆるクリスマスカードにも「Season's greetings」とだけ書いたものが多くあるのはそういう意味だと思っていました。

 日本でいうならば、神社の許可を得ずにお正月や七五三を祝うのはやめろとか、戦争に反対する人間は靖国神社に近づくなとか、そういった類の主張に近いと思います。

 キリスト教徒にもいろいろな宗派があるので、こんなバカなことを言っているのは特定の宗派なのだと思いますが、「いつからキリストはあんたたちの所有物になったの?」という嫌みのひとつも言ってやりたくなるような話であると同時に、こんな主張がニュースで大々的に取り上げられるような大騒ぎになるということを見ても、アメリカという国でキリスト教がゆがんだ発展(あるいは反動)をしつつあることが感じられます。

 「自由の国アメリカ」は、すでに死んでしまっていることを思わせるエピソードだと思いました。
by stochinai | 2004-12-23 00:00 | つぶやき | Comments(0)

ふと咲けば山茶花の散りはじめかな        平井照敏


by stochinai