< 2005年 12月 >
- 2005年最後の1日[ 2005-12-31 23:45 ]
- 2日続きの雪[ 2005-12-30 15:09 ]
- 科学研究のクライアント[ 2005-12-29 23:59 ]
- 拙速・巧遅・巧速・拙遅[ 2005-12-28 23:42 ]
- 大学に欠けているもの[ 2005-12-27 22:41 ]
- 大学一年生パイロット授業の反省[ 2005-12-26 23:59 ]
- 訃報[ 2005-12-25 23:59 ]
- 大学の自浄作用[ 2005-12-24 17:23 ]
- ニューヨーク市営交通のストライキ[ 2005-12-23 22:23 ]
- スペースコラボレーションと忘年会[ 2005-12-22 17:30 ]
2005年最後の1日
11月19日にCoSTEPで行った「演習:ブログ・コミュニケーション」の受講生に対して、【ブログではできないこと】というタイトルでエッセイを自分のブログに書いてトラックバックしてくださいという課題を出していましたが、その締切が今日だったことを思い出させてくれるように、今日になって続々とトラックバックが送られてきました。
締切というものが設定されると、締切まではギリギリ提出が遅れてしまうのは良くあることです。私自身にそういう性癖がありますので、「締切は年内です」と言った手前、締切である今日が大晦日であるからと言ってトラックバックが続々と届くことは想定の範囲内でした。
演習ですから、私の希望としては受講生の皆さんにどこか適当な無料ブログサービスサイトに、たとえ使い捨てでも良いのでアカウントを作ってエントリーを書きトラックバックするという、本当の実習をして欲しいと思っておりました。もちろん「私はブログが嫌いです」という受講生もいるでしょうから、メールやファックスでの提出も可としておきました。
その結果、メールでの提出は現在までのところ2名にすぎず、かなりの数の人が新たにブログを開設してくれました。この演習の課題提出のためだけにブログ・サイトを作り、その後は使い捨ててもあるいは適宜使ってみるということになったとしても良いと思います。自分に合うか合わないかを実験してもらったことで、演習の目的は半分くらい達成されています。
CoSTEPに参加すると同時にブログを開設し、コミュニケーション・ツールとしてすでに日常的にブログを使いこなしていらっしゃる方もいますし、私よりもブログ歴の長い受講生もおられます。そういう方には、私の講義はいわば意味のないものですから、レポートとしてのトラックバックも特に必要はないのですが、あらためて頭の中を整理するという意味においても新しくエントリーを書くことは無駄にはならなかったと思います。実は、そういう方からのトラックバックはやはりひと味違って私自身の為になる内容も多く、結果的にこちらが勉強させていただくということになりました。
何を隠そう、偉そうに演習を担当した私が本格的にブログを公開したのは今年の2月のことです。それまでは、コメントもトラックバックもできない形の日々のつぶやきをホームページに書きためていましたが、正直言ってブログという双方向性のメディアを使いこなせるかどうかの自信はなく、最初は手探りで森の中に迷いこんだような気分だったものです。
1年間やってみて第1に感じたことは「ブログの世界には人間が住んでいる」という感覚でした。別に驚くべきことではないのかもしれませんが、かなり肉声に近い発言が多いのがブログ・エントリー(コメント、トラックバック)の特徴の一つなのかもしれません。
そういう訳で、コメントやトラックバックのやりとりの中にも、感情がかなりたっぷりと盛りこまれていることも多く、時にはそれが誤解や憎しみを生む原因となったり、逆に思いやりや共感を受け取るルートにもなることもわかりました。
しばらくやってみて、この「人間くささ」こそがブログの長所でもあり同時に短所にもなるのだと思っていますが、スローでローカル(地域的なものだけではなく、年齢や嗜好や思想などにおいても)やな小~中規模のコミュニケーションの手段として考えると、やはりかなり優れたツールなのではないかと再確認しているところです。
と、これを書いているうちに年が明けてしまいました。2005年中は大変にお世話になりました。
とりあえず、2006年もこのペースでブログ活動を続けて行きたいと思っていますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
締切というものが設定されると、締切まではギリギリ提出が遅れてしまうのは良くあることです。私自身にそういう性癖がありますので、「締切は年内です」と言った手前、締切である今日が大晦日であるからと言ってトラックバックが続々と届くことは想定の範囲内でした。
演習ですから、私の希望としては受講生の皆さんにどこか適当な無料ブログサービスサイトに、たとえ使い捨てでも良いのでアカウントを作ってエントリーを書きトラックバックするという、本当の実習をして欲しいと思っておりました。もちろん「私はブログが嫌いです」という受講生もいるでしょうから、メールやファックスでの提出も可としておきました。
その結果、メールでの提出は現在までのところ2名にすぎず、かなりの数の人が新たにブログを開設してくれました。この演習の課題提出のためだけにブログ・サイトを作り、その後は使い捨ててもあるいは適宜使ってみるということになったとしても良いと思います。自分に合うか合わないかを実験してもらったことで、演習の目的は半分くらい達成されています。
CoSTEPに参加すると同時にブログを開設し、コミュニケーション・ツールとしてすでに日常的にブログを使いこなしていらっしゃる方もいますし、私よりもブログ歴の長い受講生もおられます。そういう方には、私の講義はいわば意味のないものですから、レポートとしてのトラックバックも特に必要はないのですが、あらためて頭の中を整理するという意味においても新しくエントリーを書くことは無駄にはならなかったと思います。実は、そういう方からのトラックバックはやはりひと味違って私自身の為になる内容も多く、結果的にこちらが勉強させていただくということになりました。
何を隠そう、偉そうに演習を担当した私が本格的にブログを公開したのは今年の2月のことです。それまでは、コメントもトラックバックもできない形の日々のつぶやきをホームページに書きためていましたが、正直言ってブログという双方向性のメディアを使いこなせるかどうかの自信はなく、最初は手探りで森の中に迷いこんだような気分だったものです。
1年間やってみて第1に感じたことは「ブログの世界には人間が住んでいる」という感覚でした。別に驚くべきことではないのかもしれませんが、かなり肉声に近い発言が多いのがブログ・エントリー(コメント、トラックバック)の特徴の一つなのかもしれません。
そういう訳で、コメントやトラックバックのやりとりの中にも、感情がかなりたっぷりと盛りこまれていることも多く、時にはそれが誤解や憎しみを生む原因となったり、逆に思いやりや共感を受け取るルートにもなることもわかりました。
しばらくやってみて、この「人間くささ」こそがブログの長所でもあり同時に短所にもなるのだと思っていますが、スローでローカル(地域的なものだけではなく、年齢や嗜好や思想などにおいても)やな小~中規模のコミュニケーションの手段として考えると、やはりかなり優れたツールなのではないかと再確認しているところです。
と、これを書いているうちに年が明けてしまいました。2005年中は大変にお世話になりました。
とりあえず、2006年もこのペースでブログ活動を続けて行きたいと思っていますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
2日続きの雪
札幌では2日続けてそこそこの大雪が降りましたが、ようやく峠は越えたようです。しかし、やはり除雪作業をしなければなりません。午前11時頃、こんな気温の中での作業でした。

全部が全部残っているわけではありませんが、バードテーブルの屋根に積もった雪で、2日の積雪の様子が推測できます。

でも、こっちのほうが大雪の雰囲気がでますね。雪の下には、2メートル半ほどの高さのイチイの樹が埋もれています。

今年も残すところ後一日、どなた様も良いお年をお迎えください。

全部が全部残っているわけではありませんが、バードテーブルの屋根に積もった雪で、2日の積雪の様子が推測できます。

でも、こっちのほうが大雪の雰囲気がでますね。雪の下には、2メートル半ほどの高さのイチイの樹が埋もれています。

今年も残すところ後一日、どなた様も良いお年をお迎えください。
科学研究のクライアント
今朝はそこそこの積雪がありました。温度が低いので、除雪車が家の前に積んでいった雪はかなり硬く重くなっています。こういう時の除雪はなかなかはかどらないため、かなりの時間とエネルギーが要求されます。そういう雪を黙々と運んでいると、いろんなことを考えるものです。除雪は哲学者を作る、な~んてことはありませんが、まあそんな気分にでもならないとなかなかつらい作業なのであります。
で、除雪しながらいろいろと考えていたのですが、ふと「教育や研究はサービス業に分類されるけれども、ではその仕事を受け取るべきクライアントは誰なのだろう」という考えが頭をよぎりました。教育に関しては、それを受ける対象がいるために問題にはなりません。問題は科学の成果を受け取るべき対象としてのクライアントです。
民間企業における技術開発などの研究だと、研究結果が企業の利益追求に直結していますから、これもあまり問題にならないような気がします。問題になるのは、我々のような税金でまかなわれている組織に属する人間が行う研究が誰のために行われるのかというような場合です。
研究者個々人にとってみると、給料や研究費を直接配分しているのは文部科学省ですので、ついつい我々のクライアントは文科省であるかのごとくに思いがちです。さらには競争的研究費の最大のソースも文科省ですので、研究費が必要な研究を支援してくれる文科省が研究のクライアントであるかのごとくに思いがちです。厚生労働省や環境省なども科学研究費を提供していますので、そういうところから研究費をもらった場合にはクライアントはそれぞれの省庁であるかのごとくに思いますが、ほんとうにそうなのでしょうか。
違うと思うのです。政府系の機関から研究費が提供される場合の研究は、間違いなく納税者で代表される「国民」全体の福祉のために行われる立て前になっていますので、そういう場合の研究のクライアントは国民(場合によっては人類全体)なのだと思います。
もちろん、実際に研究費の配分を受ける場合には文科省やそれぞれの省庁の審査を受け、その審査に通らなければ研究費をもらうことはできませんので、そうした省庁の係官に受けるような申請書を書き、研究成果の報告書も当該省庁の気に入るようなものを書くということは現実的な対応だと思います。
しかし、究極的に研究することを求め、その成果を受け取るのはやはり日本国民であり、人類全体なのだと思います。
最近、問題になっている研究データ偽造や、研究費の不正使用などという問題の根底には、このクライアントが誰であるかを勘違いしていることがあるような気がしてなりません。
一見、研究費を配分している省庁の係官をだましさえすれば研究費が手に入り、それらの係員をだますことさえできる研究成果を出しさえすれば、次の研究費も保障されるというシステムが本質のように思えることはあると思います。しかし、やはりそれは間違いあるいは勘違いなのだと思います。間違いや勘違いを続けると、結局最後にはファン・ウソク・スキャンダルのような結末を迎えるでしょう。
究極的ソースとして税金でまかなわれている研究に関してのクライアントは国民あるいは人類であるという感覚を持つこと、これだけでとても難しいと言われる「科学倫理」というものが実はとても簡単なことに思えてこないでしょうか。
倫理なんて、中学生くらいになれば理解できる簡単なことなんですけど、逆に中学生くらいまでに身に付けられないまま大学生くらいになると、とても難しいものなのかもしれません。ましてや、それなしに「現場の研究者」になってしまったりすると、もう取り返しのつかないことになっているかもしれません。
今の日本は、何十年も(科学)倫理教育を怠って来たツケを払う時期にいることは間違いないと思います。というわけで日本では、来年は今年に増してもっともっと科学倫理関係の事件は起こると予言しておきます。
で、除雪しながらいろいろと考えていたのですが、ふと「教育や研究はサービス業に分類されるけれども、ではその仕事を受け取るべきクライアントは誰なのだろう」という考えが頭をよぎりました。教育に関しては、それを受ける対象がいるために問題にはなりません。問題は科学の成果を受け取るべき対象としてのクライアントです。
民間企業における技術開発などの研究だと、研究結果が企業の利益追求に直結していますから、これもあまり問題にならないような気がします。問題になるのは、我々のような税金でまかなわれている組織に属する人間が行う研究が誰のために行われるのかというような場合です。
研究者個々人にとってみると、給料や研究費を直接配分しているのは文部科学省ですので、ついつい我々のクライアントは文科省であるかのごとくに思いがちです。さらには競争的研究費の最大のソースも文科省ですので、研究費が必要な研究を支援してくれる文科省が研究のクライアントであるかのごとくに思いがちです。厚生労働省や環境省なども科学研究費を提供していますので、そういうところから研究費をもらった場合にはクライアントはそれぞれの省庁であるかのごとくに思いますが、ほんとうにそうなのでしょうか。
違うと思うのです。政府系の機関から研究費が提供される場合の研究は、間違いなく納税者で代表される「国民」全体の福祉のために行われる立て前になっていますので、そういう場合の研究のクライアントは国民(場合によっては人類全体)なのだと思います。
もちろん、実際に研究費の配分を受ける場合には文科省やそれぞれの省庁の審査を受け、その審査に通らなければ研究費をもらうことはできませんので、そうした省庁の係官に受けるような申請書を書き、研究成果の報告書も当該省庁の気に入るようなものを書くということは現実的な対応だと思います。
しかし、究極的に研究することを求め、その成果を受け取るのはやはり日本国民であり、人類全体なのだと思います。
最近、問題になっている研究データ偽造や、研究費の不正使用などという問題の根底には、このクライアントが誰であるかを勘違いしていることがあるような気がしてなりません。
一見、研究費を配分している省庁の係官をだましさえすれば研究費が手に入り、それらの係員をだますことさえできる研究成果を出しさえすれば、次の研究費も保障されるというシステムが本質のように思えることはあると思います。しかし、やはりそれは間違いあるいは勘違いなのだと思います。間違いや勘違いを続けると、結局最後にはファン・ウソク・スキャンダルのような結末を迎えるでしょう。
究極的ソースとして税金でまかなわれている研究に関してのクライアントは国民あるいは人類であるという感覚を持つこと、これだけでとても難しいと言われる「科学倫理」というものが実はとても簡単なことに思えてこないでしょうか。
倫理なんて、中学生くらいになれば理解できる簡単なことなんですけど、逆に中学生くらいまでに身に付けられないまま大学生くらいになると、とても難しいものなのかもしれません。ましてや、それなしに「現場の研究者」になってしまったりすると、もう取り返しのつかないことになっているかもしれません。
今の日本は、何十年も(科学)倫理教育を怠って来たツケを払う時期にいることは間違いないと思います。というわけで日本では、来年は今年に増してもっともっと科学倫理関係の事件は起こると予言しておきます。
拙速・巧遅・巧速・拙遅
年内に片づけなければならない仕事が全部終わってくれれば、仕事納めも解放感たっぷりに味わえるのでしょうが、やはり今年も年越しの仕事をたくさん抱えての年越しになりそうです。
でも、まあ考えようによっては来年やってもいいことならば、何も焦って年内にやっつけ仕事で終わらせなくても良いというもまた事実ではないでしょうか。その代わり、時間をかけるのでしたら、少しでも良いものにしなければ意味がありません。
「拙速」を取るか「巧遅」を取るかだとしたら、巧遅の方が格好いいかもしれません。そんな言葉はないと思いますが、最悪の結果である「拙遅」というものもあり得そうです。というか、世の中には意外とこの拙遅というのが多いのかもしれません。
締め切りに追いつめられて出すものは、精神的にも追いつめられていますし、じっくりと時間をかけることもできないために、ミスが多くなるということも良く経験することです。どうせ遅れるのならば、関係者に遅れることを周知した上で少し余裕を持てる時間をもらうことが、そういう時の最良の解法ではないでしょうか。
くだらない言葉遊びをしていたら、もう一つの可能性があることに気がつきました。そうです、「巧速」という最高の状況があり得ます。
しかし、これは意外とあるケースではないかと思いました。エントリーを書く時に、会心のできとまではいかなくとも、そこそこ満足できるものが出来あがる時の執筆時間というものは驚くほど短いという経験は良くあります。逆に、うんうんうなりながらああでもない、こうでもないとひねくり回して書いたものは、後で読み返すと消したくなるような出来のものにしかなっていないことが多いのもまた事実です。
つまり、ブログ・エントリーというものは正式な熟語にはない「巧速」か「拙遅」の世界だという気がします。
拙速と巧遅はどちらが良いとも言えないという禅問答のような概念なのだと思いますが、巧速と拙遅では言うまでもなく優劣がつきます。
ここまできて改めて考えてみると、世の中というものは「拙速と巧遅」ではなく、「巧速と拙遅」の組み合わせでできあがっているのかもしれないと思えてきました。
そう考えてみると、仕事を年越しさせるなどというのは、やはり最悪のパターンということになりますか。
年末に恐ろしいことを思いついてしまったのものです。
お時間もよろしいようで、、、、。
でも、まあ考えようによっては来年やってもいいことならば、何も焦って年内にやっつけ仕事で終わらせなくても良いというもまた事実ではないでしょうか。その代わり、時間をかけるのでしたら、少しでも良いものにしなければ意味がありません。
「拙速」を取るか「巧遅」を取るかだとしたら、巧遅の方が格好いいかもしれません。そんな言葉はないと思いますが、最悪の結果である「拙遅」というものもあり得そうです。というか、世の中には意外とこの拙遅というのが多いのかもしれません。
締め切りに追いつめられて出すものは、精神的にも追いつめられていますし、じっくりと時間をかけることもできないために、ミスが多くなるということも良く経験することです。どうせ遅れるのならば、関係者に遅れることを周知した上で少し余裕を持てる時間をもらうことが、そういう時の最良の解法ではないでしょうか。
くだらない言葉遊びをしていたら、もう一つの可能性があることに気がつきました。そうです、「巧速」という最高の状況があり得ます。
しかし、これは意外とあるケースではないかと思いました。エントリーを書く時に、会心のできとまではいかなくとも、そこそこ満足できるものが出来あがる時の執筆時間というものは驚くほど短いという経験は良くあります。逆に、うんうんうなりながらああでもない、こうでもないとひねくり回して書いたものは、後で読み返すと消したくなるような出来のものにしかなっていないことが多いのもまた事実です。
つまり、ブログ・エントリーというものは正式な熟語にはない「巧速」か「拙遅」の世界だという気がします。
拙速と巧遅はどちらが良いとも言えないという禅問答のような概念なのだと思いますが、巧速と拙遅では言うまでもなく優劣がつきます。
ここまできて改めて考えてみると、世の中というものは「拙速と巧遅」ではなく、「巧速と拙遅」の組み合わせでできあがっているのかもしれないと思えてきました。
そう考えてみると、仕事を年越しさせるなどというのは、やはり最悪のパターンということになりますか。
年末に恐ろしいことを思いついてしまったのものです。
お時間もよろしいようで、、、、。
大学に欠けているもの
明日は、御用納め(もう公務員じゃないから、こう呼ばないのかもしれませんが)だというのに、今日は午後いっぱい会議で缶詰でした。
昨日はぶつぶつ書いてしまったのですが、今日のような会議に出てみると大学にはまだまだたくさんの優秀な人材がいることが再確認できます。
要は、その人材を表に発掘し、能力を十分に発揮できる環境を整えるだけで、大学はかなり変わりそうな気がします。
さすがに最近は、「良い研究者は、良い教育者である」などという何の根拠もないことを言う人こそ少なくなってきましたが、「良い研究者なら、教育くらい簡単にできる」はずだという、これまた根拠のない迷信ははびこっています。
簡単な話なのですが、教育能力と研究能力には強い相関がないことだけは事実だと思います。そうすると、研究者でもある大学の教員には次の9種類の人がいることになります。
教育能力 研究能力
○ ○
○ △
○ ×
△ ○
△ △
△ ×
× ○
× △
× ×
本当は、この中で×が一個でもある人は大学からお引き取り願うのが良いのだと思いますが、教育能力が×でも、研究能力が○や△の人は教育機関ではない研究所などでは高い業績を挙げることができる可能性はあると思います。
また、建前上は大学教員は研究能力が×ではいけないはずなのですが、たとえそれは×でも、教育能力が○や△の人は、高校や専門学校などでは高い能力を発揮する可能性はあると思います。
また△の人に関しては、教育や研究能力を磨く訓練をすることで改善が図れるはずです。○にまではいかないとしても、大多数の教員が○と△の間くらいにまで行ければ状況は良くなるのではないでしょうか。
研究の能力だけで人事を決定してきた、今までの大学のありようは改めなければ、この先生き残れないでしょうから、それはいずれ変わるものと信じています。
となると、今大学に必要なものは、△を○にするための教員のための教育システムと、教員の側に求められる教育を受け止める気持ちということではないかと思います。すでにFDという形で部分的には実施されていると思いますが、大御所と言われる方々に対するFDはほとんど行われていないというのが実情ではないでしょうか。
大まかに見ると、現在大学にいる人材はやはりそこそこのものだと思います。磨けば光るものをみすみすほったらかして、学生も教員も不幸になってしまうということは、以外とちょっとした気持ちの持ちようで解決できるのではないでしょうか。
長い会議の間、いろいろな方のいろいろな話を聞いていて、そんな希望を感じていました。
昨日はぶつぶつ書いてしまったのですが、今日のような会議に出てみると大学にはまだまだたくさんの優秀な人材がいることが再確認できます。
要は、その人材を表に発掘し、能力を十分に発揮できる環境を整えるだけで、大学はかなり変わりそうな気がします。
さすがに最近は、「良い研究者は、良い教育者である」などという何の根拠もないことを言う人こそ少なくなってきましたが、「良い研究者なら、教育くらい簡単にできる」はずだという、これまた根拠のない迷信ははびこっています。
簡単な話なのですが、教育能力と研究能力には強い相関がないことだけは事実だと思います。そうすると、研究者でもある大学の教員には次の9種類の人がいることになります。
教育能力 研究能力
○ ○
○ △
○ ×
△ ○
△ △
△ ×
× ○
× △
× ×
本当は、この中で×が一個でもある人は大学からお引き取り願うのが良いのだと思いますが、教育能力が×でも、研究能力が○や△の人は教育機関ではない研究所などでは高い業績を挙げることができる可能性はあると思います。
また、建前上は大学教員は研究能力が×ではいけないはずなのですが、たとえそれは×でも、教育能力が○や△の人は、高校や専門学校などでは高い能力を発揮する可能性はあると思います。
また△の人に関しては、教育や研究能力を磨く訓練をすることで改善が図れるはずです。○にまではいかないとしても、大多数の教員が○と△の間くらいにまで行ければ状況は良くなるのではないでしょうか。
研究の能力だけで人事を決定してきた、今までの大学のありようは改めなければ、この先生き残れないでしょうから、それはいずれ変わるものと信じています。
となると、今大学に必要なものは、△を○にするための教員のための教育システムと、教員の側に求められる教育を受け止める気持ちということではないかと思います。すでにFDという形で部分的には実施されていると思いますが、大御所と言われる方々に対するFDはほとんど行われていないというのが実情ではないでしょうか。
大まかに見ると、現在大学にいる人材はやはりそこそこのものだと思います。磨けば光るものをみすみすほったらかして、学生も教員も不幸になってしまうということは、以外とちょっとした気持ちの持ちようで解決できるのではないでしょうか。
長い会議の間、いろいろな方のいろいろな話を聞いていて、そんな希望を感じていました。
大学一年生パイロット授業の反省
去年から、大学の1年生の「初習理科」の講義をどうするかということで、実験を兼ねたパイロット授業というものをやっています。実験台になった学生諸君には申し訳ないという気もするのですが、もちろん学生はどうなっても良いということで実験をやっているわけではなく、こちらの意図通りに学習することができるならば十分に教育効果は上がることが期待されるはずであるという授業計画を立てた上でやっていますので、新薬の臨床試験よりは「安全性」が高いはずであると思てながらやっています。
中学・高校理科の学習指導要領が変わり、それに則った教育を受けた学生が入学してくるのが来年2006年ということで、しばらく前から2006年問題という大学教員を震え上がらせていた問題があります。中学高校で、内容が大幅に削減されたの理科教育を受けてきた学生に対して、今までの大学のカリキュラムで教育すると、とんでもないギャップが生じるのでなんとかしなくてなならない、というのが2006年問題の概要です。
それに対する北海道大学の対応として、新しい初習理科教育カリキュラムを作ろうということの実践として、去年から物理・科学・生物・地学のパイロット授業を始めました。
その骨子は、高校までの理科教育は「なかったもの」として考える。つまり、例えば大学生物の1年次教育において、高校までの生物の履修経験を問わないということが、まず第1にあります。次に、大量の初習理科履修者を裁くために大人数教室で、新しい教育技術を駆使して効率的な教育をするということです。
前者に関しては、もはや高校までの理科は、大学教育のための基礎として位置づけることはできないので、たとえ履修してきたとしても、履修してきていない学生と区別しないで教育するということです。後者に関しては、法人化後の大学における人的な教育資源の効率的利用(早くいうと昔非難されたマスプロダクション教育の復活でもあります)が可能かどうかを見極めるというねらいもあります。
実は明日、その時代に逆行するような大人数教育のパイロット授業の結果はどうだったのかということについての中間報告をしなければならないために、泥縄ですがいろいろと反省しているところです。学生アンケートの結果や試験の結果、やる気のバロメーターになるレポートや質問の多寡などについて調べ直していたところ、いろいろとおもしろい結果も発見できました。
誰が考えても、大人数クラスのマスプロ教育など良いものであるわけがなく、実際に学生からの評価もかなり厳しいものです。3人の教員で担当した生物学の大人数のパイロット授業に対する去年の学生アンケート結果は、前期に行われた全学教育574講義中416位と、ほぼ最低の評価しか得られていなかったのですが、ほとんど同じ内容の講義だったにもかかわらず、今年は552講義中300位にまで「大躍進」しています。これは、教える側のスキルの上達もあるのでしょうが、たとえ大人数クラスでも平均的な満足度が得られる可能性を示しているのかもしれません。
ちなみに私が一人で担当した平成15年の生物学3という講義では、270講義中23位という評価を得ていたものが、同じ私が参加して翌年に行った3名の教員による大クラス授業が、574講義中416位というのは、「大人数状態」というものに対していかに学生が不満足感を持つかということを如実に示していると思います。
というわけで、まだまだ簡単に結論を出せる段階ではないのですが、カリキュラムを含めた教育技術の改善と、経済効率が許す限りの少人数教育を目指していくことで、大学教育はまだまだ改良の余地があるのではないかと感じております。
しかし、そのためには教育の改善にかなりの力を注がなければならず、従来の大学研究者の典型的な姿勢と言われる「教育は雑用」という姿勢では、そうした期待に応えることはまったく期待できないということもまた厳粛なる事実です。
理科教育に関して、まったなしの来年が目前に迫っています。
中学・高校理科の学習指導要領が変わり、それに則った教育を受けた学生が入学してくるのが来年2006年ということで、しばらく前から2006年問題という大学教員を震え上がらせていた問題があります。中学高校で、内容が大幅に削減されたの理科教育を受けてきた学生に対して、今までの大学のカリキュラムで教育すると、とんでもないギャップが生じるのでなんとかしなくてなならない、というのが2006年問題の概要です。
それに対する北海道大学の対応として、新しい初習理科教育カリキュラムを作ろうということの実践として、去年から物理・科学・生物・地学のパイロット授業を始めました。
その骨子は、高校までの理科教育は「なかったもの」として考える。つまり、例えば大学生物の1年次教育において、高校までの生物の履修経験を問わないということが、まず第1にあります。次に、大量の初習理科履修者を裁くために大人数教室で、新しい教育技術を駆使して効率的な教育をするということです。
前者に関しては、もはや高校までの理科は、大学教育のための基礎として位置づけることはできないので、たとえ履修してきたとしても、履修してきていない学生と区別しないで教育するということです。後者に関しては、法人化後の大学における人的な教育資源の効率的利用(早くいうと昔非難されたマスプロダクション教育の復活でもあります)が可能かどうかを見極めるというねらいもあります。
実は明日、その時代に逆行するような大人数教育のパイロット授業の結果はどうだったのかということについての中間報告をしなければならないために、泥縄ですがいろいろと反省しているところです。学生アンケートの結果や試験の結果、やる気のバロメーターになるレポートや質問の多寡などについて調べ直していたところ、いろいろとおもしろい結果も発見できました。
誰が考えても、大人数クラスのマスプロ教育など良いものであるわけがなく、実際に学生からの評価もかなり厳しいものです。3人の教員で担当した生物学の大人数のパイロット授業に対する去年の学生アンケート結果は、前期に行われた全学教育574講義中416位と、ほぼ最低の評価しか得られていなかったのですが、ほとんど同じ内容の講義だったにもかかわらず、今年は552講義中300位にまで「大躍進」しています。これは、教える側のスキルの上達もあるのでしょうが、たとえ大人数クラスでも平均的な満足度が得られる可能性を示しているのかもしれません。
ちなみに私が一人で担当した平成15年の生物学3という講義では、270講義中23位という評価を得ていたものが、同じ私が参加して翌年に行った3名の教員による大クラス授業が、574講義中416位というのは、「大人数状態」というものに対していかに学生が不満足感を持つかということを如実に示していると思います。
というわけで、まだまだ簡単に結論を出せる段階ではないのですが、カリキュラムを含めた教育技術の改善と、経済効率が許す限りの少人数教育を目指していくことで、大学教育はまだまだ改良の余地があるのではないかと感じております。
しかし、そのためには教育の改善にかなりの力を注がなければならず、従来の大学研究者の典型的な姿勢と言われる「教育は雑用」という姿勢では、そうした期待に応えることはまったく期待できないということもまた厳粛なる事実です。
理科教育に関して、まったなしの来年が目前に迫っています。
訃報
長い間、病気療養していた方を除くと、訃報というものは心の準備がまったくできていない相手から届くものです。
今日も、トリノ・オリンピック(注)の最終選考会を兼ねる女子フィギュアの大会を見ている時に突然鳴った不安をかき立てるような電話の音から、もっともあり得ない叔母の訃報が知らされました。
私もいい年になっており、近親者にもそろそろ危ないと考えられる方はたくさんいらっしゃいますので、ある意味では心の準備をしていないこともない相手もおります。そんな中、叔母は親族の中でもそれほどの年長者ではありませんし、趣味を満喫しながら元気に暮らしていらっしゃったので、かなり驚きました。
それでもなおかつ、この国には弔事は粛々と進行させることのできる文化があります。駆けつけた我々を必要としないほど見事に今後3日間の行事進行が決められていく様子には、毎度のことながら感心して観察しておりました。
というわけで、今日のつぶやきはエントリー時間をかなり偽装してしまうことになりました。明日からの予定もかなり変更せざるを得ません。ご迷惑をおかけすることになる皆様には予めお許しを願いたいと思います。
注:テレビやラジオで「トリノ・オリンピック」と聞く度に、「鳥のオリンピック」と聞こえます。トリノの発音が悪いのだと思いますが、ニュースで大騒ぎされているとついつい「鳥のオリンピックの代表選手なんかに選ばれなくてもいいじゃん。魚のオリンピックとか、犬のオリンピックとかもありそうだし、猫のオリンピックだって面白そう。でも、本当に出たいのは人のオリンピックだよね。」という悪態をつぶやきたくなります。
今日も、トリノ・オリンピック(注)の最終選考会を兼ねる女子フィギュアの大会を見ている時に突然鳴った不安をかき立てるような電話の音から、もっともあり得ない叔母の訃報が知らされました。
私もいい年になっており、近親者にもそろそろ危ないと考えられる方はたくさんいらっしゃいますので、ある意味では心の準備をしていないこともない相手もおります。そんな中、叔母は親族の中でもそれほどの年長者ではありませんし、趣味を満喫しながら元気に暮らしていらっしゃったので、かなり驚きました。
それでもなおかつ、この国には弔事は粛々と進行させることのできる文化があります。駆けつけた我々を必要としないほど見事に今後3日間の行事進行が決められていく様子には、毎度のことながら感心して観察しておりました。
というわけで、今日のつぶやきはエントリー時間をかなり偽装してしまうことになりました。明日からの予定もかなり変更せざるを得ません。ご迷惑をおかけすることになる皆様には予めお許しを願いたいと思います。
注:テレビやラジオで「トリノ・オリンピック」と聞く度に、「鳥のオリンピック」と聞こえます。トリノの発音が悪いのだと思いますが、ニュースで大騒ぎされているとついつい「鳥のオリンピックの代表選手なんかに選ばれなくてもいいじゃん。魚のオリンピックとか、犬のオリンピックとかもありそうだし、猫のオリンピックだって面白そう。でも、本当に出たいのは人のオリンピックだよね。」という悪態をつぶやきたくなります。
大学の自浄作用
非常に早い話の展開でした。それまで続けてきた強気のコメントにもかかわらず、大学の調査チームの出した中間報告を受けて、わずかその3時間後に渦中の人ファン教授は「ソウル大教授を辞職する。しかし、ヒトクローン胚のES細胞は、われわれ大韓民国の技術だと、国民の皆さんは再び確認することになる」と、ふたたび負け惜しみのような声明を出しながらも敗北を認めたのです(毎日新聞)。
国を挙げて、大量の研究費を注ぎ込んで世界の最先端を走り続けてきた、この数年の成果はほんの数週間ですべてが瓦解してしまったように見えます。
少なくとも基礎科学の研究成果としては、今後は彼の出したすべての研究は「なかったもの」として扱われることになるはずです。
同じ生物学を研究している人間として非常な脱力感を感じますが、それで良かったのだと思います。これが、裁判所や警察の手を借りることなく、大学や科学者自身の手で処理されたということが大事なことだと思うのです。
今回の「事件」を経過を見ていると、始めのうちは韓国というものが科学研究倫理後進国の見本のようなことが次々と発覚してきましたし、その後は国民的にファン教授を守れ運動などが巻き起こり、これはもう国を挙げてダメなのかとしれないと思っているうちに、ソウル大学の調査委員会が迅速に調査を行い結果を発表するあたりから、雲行きが変わってきました。
そうなのです。NatureやScienceという超一流雑誌を舞台にした論文ねつ造というスキャンダルに対して、日本の一流大学である大阪大学や東京大学がとった対応と比べると、今回の韓国における素早い動きはある意味でうらやましいと思いました。
大阪大学で論文データ改ざんによる論文の取り下げ事件が起こったのは今年の5月、東大の教授が絡んだ大々的なデータねつ造疑惑事件が持ち上がったのが今年の9月です。
たしかにいずれのケースも大学内に調査委員会が作られ、中間報告なども出されているような記憶はあるのですが、柳田充弘さんが「デシジョン(決定)の遅さではいまや日本は世界一だとわたくしは思います」と書いておられるように、まだ結論が出されていないのです。
こんな状況を世界が見ているとしたら、日本の方が韓国よりも科学研究倫理に関しては後進国であることが暴露されてしまうのではないかと不安になってきます。
というような暢気なことを言っている場合ではないかもしれません。このまま放置しておくと、日本人の研究者であるというだけで国際的に差別されるようなことも起こるのではないでしょうか。現に、噂ですが最近はNatureやScienceにおいて日本からの投稿はかなり慎重に扱われるようになっている、と聞いたことがあります。
こうしたことがほんとうかどうかということよりも、一刻も早く日本の科学者が自分たちの手で科学の世界における自己管理をして、不正などに対して自浄作用を働かせることができるような体制を作ることが必要なのだと思います。
この件に関しても、文部科学省からの指示を待っているというようなことでは、日本の科学者というものが25兆円にも上る第3期科学技術基本計画などを正しく使う倫理など持ち合わせていない集団だと言われても反論の余地がないと思います。
いっそ、返上した方がいいのではないでしょうか。
国を挙げて、大量の研究費を注ぎ込んで世界の最先端を走り続けてきた、この数年の成果はほんの数週間ですべてが瓦解してしまったように見えます。
少なくとも基礎科学の研究成果としては、今後は彼の出したすべての研究は「なかったもの」として扱われることになるはずです。
同じ生物学を研究している人間として非常な脱力感を感じますが、それで良かったのだと思います。これが、裁判所や警察の手を借りることなく、大学や科学者自身の手で処理されたということが大事なことだと思うのです。
今回の「事件」を経過を見ていると、始めのうちは韓国というものが科学研究倫理後進国の見本のようなことが次々と発覚してきましたし、その後は国民的にファン教授を守れ運動などが巻き起こり、これはもう国を挙げてダメなのかとしれないと思っているうちに、ソウル大学の調査委員会が迅速に調査を行い結果を発表するあたりから、雲行きが変わってきました。
そうなのです。NatureやScienceという超一流雑誌を舞台にした論文ねつ造というスキャンダルに対して、日本の一流大学である大阪大学や東京大学がとった対応と比べると、今回の韓国における素早い動きはある意味でうらやましいと思いました。
大阪大学で論文データ改ざんによる論文の取り下げ事件が起こったのは今年の5月、東大の教授が絡んだ大々的なデータねつ造疑惑事件が持ち上がったのが今年の9月です。
たしかにいずれのケースも大学内に調査委員会が作られ、中間報告なども出されているような記憶はあるのですが、柳田充弘さんが「デシジョン(決定)の遅さではいまや日本は世界一だとわたくしは思います」と書いておられるように、まだ結論が出されていないのです。
こんな状況を世界が見ているとしたら、日本の方が韓国よりも科学研究倫理に関しては後進国であることが暴露されてしまうのではないかと不安になってきます。
外国から見ると日本では何が起こっていて、どういう倫理観でことが定まっていくのかがさぞ分かりにくいでしょう。
というような暢気なことを言っている場合ではないかもしれません。このまま放置しておくと、日本人の研究者であるというだけで国際的に差別されるようなことも起こるのではないでしょうか。現に、噂ですが最近はNatureやScienceにおいて日本からの投稿はかなり慎重に扱われるようになっている、と聞いたことがあります。
こうしたことがほんとうかどうかということよりも、一刻も早く日本の科学者が自分たちの手で科学の世界における自己管理をして、不正などに対して自浄作用を働かせることができるような体制を作ることが必要なのだと思います。
この件に関しても、文部科学省からの指示を待っているというようなことでは、日本の科学者というものが25兆円にも上る第3期科学技術基本計画などを正しく使う倫理など持ち合わせていない集団だと言われても反論の余地がないと思います。
いっそ、返上した方がいいのではないでしょうか。
ニューヨーク市営交通のストライキ
ニューヨークの市営地下鉄およびバスがストライキに突入しました。
アメリカ合衆国という国は、何もかもが素晴らしいわけでもなく、そうかといって何もかもがダメな国でもなく、素晴らしく良いものととんでもなくひどいものが混在している国という印象を持っています。ですから、世界最高のものと世界最低のものが同居していることにも不思議さを感じません。
というわけで私にとってアメリカには、好きな人も嫌いな人も、好きな文化もきらいな文化も、好きな制度も嫌いな制度も混在しているというわけです。
平気で多国を侵略して「民主主義を与える」だなどどと言う感覚には嫌悪感を覚えますので、自分はどちらかというとアメリカの政治的立場は嫌いだと思うことも多いのですが、ストライキの話を聞くといつも感心してしまいます。
25年ほど前にロサンゼルスに留学した時に、唯一の公共交通機関だった市営バスがストライキをしていました。それから2週間ほどストライキが続いたように記憶していますが、UCLA関係者をはじめ市民が極めて冷静に対応していることに驚かされたものです。
それ以来、何度もアメリカからストライキのニュースが聞こえてきましたが、いつも感じるのは市民とメディアの淡々とした対応です。
それに引き換え、ここ20年くらい日本ではストらしいストというのほ行われないようになっています。しばしば予告される航空関係労組のストも、予告通りに実施されたという記憶はほとんどありません。たとえ本当にストライキをやる組合があったとしても、始業時間から1時間とか「あまり迷惑のかからない」ストライキを除くと、ほとんど見聞きしません。労働者の実力行使としての本当にストライキというものが、もうこの国にはなくなってしまったような気がします。
ストライキなどというものは、労働者が団結していなければとうていできるものではありません。日本ではそもそも常勤の雇用者がどんどん減っていますし、常勤の労働者ですら組合への組織率がどんどん低下しています。
そういう中でもしも正規労働者が自分たちの労働条件改善のためのストライキを打とうとしても、非常勤労働者や失業者、さらにはより労働条件の悪い職場に働いている人々からバッシングされてしまうだろうことは想像に難くありません。つまり労働条件の改善要求をしようとすると、雇用者や企業側ではなく、さらに「下層」におかれている人々がその運動を妨害するという動きが出てきてしまうというのが今の日本の「世論」の傾向なのではないかと感じられます。
そんな国に身を置くものとして、アメリカの労働者が実に誇り高くストライキを決行する様子を見るにつけ、なんともうらやましい気持ちになるのです。
もちろん、ニュースでは迷惑している一般市民の声が聞かれますし、経営側(この場合はニューヨーク市長)からは、脅しを含めた非難声明が出るのですが、お互いに正々堂々と交渉をしているという様子が感じられます。
大学も法人化したために、大学の中には国家公務員時代とは異なる労使関係を作らなければならないはずなのですが、労働組合の組織率は限りなく低く、そこで働いている人の多くには労働者としての自覚も雇用者としての自覚のない人も多いのです。そのような状況ですから、組織化されたストライキなどはもちろん起こりうるはずもありません。
本来ならば、知識人の集まる職場なのですから、日本全体のお手本になるような労使関係を作り上げていくことも「大学という企業」に求められることの一つなのではないかと思いますが、残念ながらこの件に関してはまったく期待を持てないところです。しかし、労働者と雇用者の健全な関係を作っていかなければ、セクハラ・アカハラ・パワハラを含めた不幸な職場からの脱皮もおそらく不可能でしょう。なんとかしなければなりません。
#幸い、今日になってストライキを中断して年明けに労使交渉をすることが決まったようで、ニューヨーク市民には落ち着いたクリスマスと新年が迎えられることになりました。
Happy holidays!
追記:
もちろん「市営交通」というのは必ずしも正しくない表現です。正しくは「ニューヨーク市内のバスと地下鉄を運営する都市圏交通公社(MTA)」ということだそうです。
アメリカ合衆国という国は、何もかもが素晴らしいわけでもなく、そうかといって何もかもがダメな国でもなく、素晴らしく良いものととんでもなくひどいものが混在している国という印象を持っています。ですから、世界最高のものと世界最低のものが同居していることにも不思議さを感じません。
というわけで私にとってアメリカには、好きな人も嫌いな人も、好きな文化もきらいな文化も、好きな制度も嫌いな制度も混在しているというわけです。
平気で多国を侵略して「民主主義を与える」だなどどと言う感覚には嫌悪感を覚えますので、自分はどちらかというとアメリカの政治的立場は嫌いだと思うことも多いのですが、ストライキの話を聞くといつも感心してしまいます。
25年ほど前にロサンゼルスに留学した時に、唯一の公共交通機関だった市営バスがストライキをしていました。それから2週間ほどストライキが続いたように記憶していますが、UCLA関係者をはじめ市民が極めて冷静に対応していることに驚かされたものです。
それ以来、何度もアメリカからストライキのニュースが聞こえてきましたが、いつも感じるのは市民とメディアの淡々とした対応です。
それに引き換え、ここ20年くらい日本ではストらしいストというのほ行われないようになっています。しばしば予告される航空関係労組のストも、予告通りに実施されたという記憶はほとんどありません。たとえ本当にストライキをやる組合があったとしても、始業時間から1時間とか「あまり迷惑のかからない」ストライキを除くと、ほとんど見聞きしません。労働者の実力行使としての本当にストライキというものが、もうこの国にはなくなってしまったような気がします。
ストライキなどというものは、労働者が団結していなければとうていできるものではありません。日本ではそもそも常勤の雇用者がどんどん減っていますし、常勤の労働者ですら組合への組織率がどんどん低下しています。
そういう中でもしも正規労働者が自分たちの労働条件改善のためのストライキを打とうとしても、非常勤労働者や失業者、さらにはより労働条件の悪い職場に働いている人々からバッシングされてしまうだろうことは想像に難くありません。つまり労働条件の改善要求をしようとすると、雇用者や企業側ではなく、さらに「下層」におかれている人々がその運動を妨害するという動きが出てきてしまうというのが今の日本の「世論」の傾向なのではないかと感じられます。
そんな国に身を置くものとして、アメリカの労働者が実に誇り高くストライキを決行する様子を見るにつけ、なんともうらやましい気持ちになるのです。
もちろん、ニュースでは迷惑している一般市民の声が聞かれますし、経営側(この場合はニューヨーク市長)からは、脅しを含めた非難声明が出るのですが、お互いに正々堂々と交渉をしているという様子が感じられます。
大学も法人化したために、大学の中には国家公務員時代とは異なる労使関係を作らなければならないはずなのですが、労働組合の組織率は限りなく低く、そこで働いている人の多くには労働者としての自覚も雇用者としての自覚のない人も多いのです。そのような状況ですから、組織化されたストライキなどはもちろん起こりうるはずもありません。
本来ならば、知識人の集まる職場なのですから、日本全体のお手本になるような労使関係を作り上げていくことも「大学という企業」に求められることの一つなのではないかと思いますが、残念ながらこの件に関してはまったく期待を持てないところです。しかし、労働者と雇用者の健全な関係を作っていかなければ、セクハラ・アカハラ・パワハラを含めた不幸な職場からの脱皮もおそらく不可能でしょう。なんとかしなければなりません。
#幸い、今日になってストライキを中断して年明けに労使交渉をすることが決まったようで、ニューヨーク市民には落ち着いたクリスマスと新年が迎えられることになりました。
Happy holidays!
追記:
もちろん「市営交通」というのは必ずしも正しくない表現です。正しくは「ニューヨーク市内のバスと地下鉄を運営する都市圏交通公社(MTA)」ということだそうです。
スペースコラボレーションと忘年会
今日は朝から、21COE連携セミナーということで琉球大学・京都大学・北海道大学が、スペースコラボレーションシステムというものを利用して、各大学の教室を連携してのハイテクセミナーでした。本当は、今週の月曜・火曜と今日の3連続のものでしたが、私は今日だけの参加ですが、師走も押し迫ったところでの一日(正味5時間)の拘束は正直つらいものがありました。

スペースコラボなどというと、衛星回線を利用してのハイテク会議という感じに聞こえるかも知れませんが、インターネットがこれだけ発展してしまった今では、すでに「時代遅れの先端技術」という感は否めないものでした。
今ならおそらく、インターネットを利用することで何百分の1の予算でもっとすごい電子会議ができるようになっていると思います。これが作られた9年前には、すごいシステムには違いなかったのだと思いますが、それほど使われないまま今に至ってしまうと、無理をしてでも使わないと税金の無駄遣いのそしりを免れないことになるのは確実といった代物です。
利用状況を見てみると、そのほとんどが講義のようです。確かに講義なら講師が出張することなく、リアルタイムで双方向性のある講義はできそうですから、そういうことにどんどん活用すると良いのかもしれません。
というわけで、研究室の大掃除も手伝わないうちに夜になってしまいました。今から、世界の歓楽街ススキノに繰り出しての忘年会です。
とりあえず、形だけでも年忘れ、年忘れ、、、、、。

スペースコラボなどというと、衛星回線を利用してのハイテク会議という感じに聞こえるかも知れませんが、インターネットがこれだけ発展してしまった今では、すでに「時代遅れの先端技術」という感は否めないものでした。
今ならおそらく、インターネットを利用することで何百分の1の予算でもっとすごい電子会議ができるようになっていると思います。これが作られた9年前には、すごいシステムには違いなかったのだと思いますが、それほど使われないまま今に至ってしまうと、無理をしてでも使わないと税金の無駄遣いのそしりを免れないことになるのは確実といった代物です。
利用状況を見てみると、そのほとんどが講義のようです。確かに講義なら講師が出張することなく、リアルタイムで双方向性のある講義はできそうですから、そういうことにどんどん活用すると良いのかもしれません。
というわけで、研究室の大掃除も手伝わないうちに夜になってしまいました。今から、世界の歓楽街ススキノに繰り出しての忘年会です。
とりあえず、形だけでも年忘れ、年忘れ、、、、、。
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