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 北海道大学の図書館報 「楡蔭」に書いた雑文が印刷されてきました。まだ、オンラインでは読めないようなので、こちらに転載しておきます。

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インターネット時代の学術情報と研究者そして図書館

はじめに
 北海道大学図書館が運用しているHUSCAPという名の「機関リポジトリ」が全国の大学・研究機関の先頭を走っていることをご存じだろうか。ほとんどすべての学術情報がインターネットを通じて流通する時代になり、図書館のあり方も大きく変わろうとしている。学術雑誌へのアクセスも投稿も、すべてが机の上に置かれたコンピューターからできてしまう日常を過ごしていると、時として図書館の存在を忘れてしまいがちになる。しかし、一歩大学を出て学外のネットワークから同じ学術雑誌にアクセスしようとしても、北大図書館のライセンスなしには論文も読めないことがわかる。インターネット時代の今、大学図書館を有効に使えるかどうかが、研究機関の未来を左右する大きな鍵となる。

学術情報今昔
 大学を構成する主要なメンバーは、学生と教員と事務職員である。学生は教育を受けるために大学に来るが、ほとんどすべての教員は学生の教育に携わる一方でテーマを持って研究もしている。ただし、研究という同じ言葉でくくられていても、文系と理系とではその中身は大きく違うし、同じ理系でもさらに細かな違いがあるので、自分の所属するところ以外の研究者の実態は実のところよく知らない。ただし、いずれの分野でも研究のために学術情報の操作を必要とすることに違いはないだろうし、その情報の集散ハブが図書館であり続けてきたことも、また歴史的事実であろう。
 文系の研究でも基本的には同じなのだと思うが、理系の研究分野においては日進月歩で進展する研究をフォローするために、新しく出版される学術論文に目を通し続ける必要がある。分野にもよるのだろうが、私個人のことを振り返れば、週刊・月刊・隔月刊・旬刊などのペースで発刊される関連論文をチェックするために、かつては週一回くらいのペースで図書館に通っていた記憶がある。インターネットによるアクセスが発達した現在、自分のオフィスにあるコンピューターから、さらにたくさんの雑誌をいつでも気軽にチェックすることができるようになり、実際に図書館に行く必要はほとんどなくなった。では、図書館はいらなくなったのだろうか。

見えない図書館
 ほとんどの学術雑誌では、新刊が発行されるとその目次情報をメールで送ってくるTOC (Table of Contents)サービスを無料で行っている。メールで送られてくる論文タイトルのひとつひとつにはURLアドレスが付いていて、それをクリックするだけで原著論文にアクセスできるしくみになっている。原著論文は、ホームページ形式(html)で見ることもできるし、印刷論文と同じ形式で表示されるpdfファイルをダウンロードしてハードディスクに保存して利用することもできる。私の場合は、興味ある論文をまず表示の早いhtmlで確認し、重要だと思われるものは、pdfファイルをダウンロードする。
普段、大学の中でこうしたサービスを利用していると、このサービスが図書館と関係していることは実感しにくいのだが、自宅からこのサービスを利用しようとしてアクセスが拒否されるという経験をした時に、学術情報がタダではないことを強く実感した。一部の雑誌や論文を除いて、学術論文の全文アクセスは基本的に有料である。大学から学術雑誌サイトにアクセスして全文が読める時には、ほとんどの場合、ページの上のほうに小さく北大図書館に対するライセンスの表示があるはずで、我々が特別なログインもせずに原著論文を読むことができるのは、北大内のネットワーク(.hokudai.ac.jp)からアクセスしていることで、図書館が契約したライセンスの利用が許可されているからなのだ。つまり、我々は見えない北海道大学図書館を通じて学術情報にアクセスしていることになる。

シリアルズ・クライシス
 楡蔭123 (Jul. 2006) の大平先生による巻頭言「学術コンテンツ整備の現況について」に書かれているように、平成17年度に電子ジャーナルおよび学術文献データベースに対し、北大全体で約4億7600万円が支出されているとのことである。近年、そのほとんどが電子ジャーナル化された学術雑誌の経営は寡占化が進むとともに、値段はうなぎ登りで上昇を続けており、経済的に余裕のない研究者・研究機関が学術雑誌にアクセスすることが困難になるシリアルズ・クライシス(「雑誌の危機」)と呼ばれる状況が起こっている。こうした状況に対応して、北大では、それまで部局ごとに行われていた雑誌の購入を、図書館を中心に全学共通経費化した。こうすることで、北大全体としての重複購読などの無駄を合理化できただけではなく、今までは水産学部や獣医学部でしか購読していないために、わざわざ出かけていったり、コピーサービスを依頼したりということをしなければならなかった雑誌が、自分のコンピューターからいつでもアクセスできるようになるという、(少なくとも私にとっては)夢のような利便性も得られるようになった。
 しかし、これは北大のような比較的大きな総合大学だからこそ可能になったことで、小さな大学や研究機関ではひたすらに購読雑誌が減っていると聞いている。こうしたところでは、まさにシリアルズ・クライシスは研究継続の存亡の危機なのである。

なぜ有名雑誌は強気なのか
 なぜ有力学術雑誌の値段が上がり続けるのかというと、値段を上げても出版社の収入が減らないからである。その背景には、研究者が有名雑誌を求める研究環境がある。
 自然科学・社会科学系の学術雑誌には、ある民間データベース会社の引用文献分析による「インパクト・ファクター」という数値がつけられ、この「業界」における影響力の強さを示す指標のひとつとなっている。ある年のインパクト・ファクターは、その年の前年と前々年の2年間における当該雑誌の掲載論文の被引用度を示すため、研究者が多く流行になっている分野の雑誌のインパクト・ファクターが高くなる。しかし、ちょっと考えればわかるように、同じ研究分野のある時点における「雑誌の影響力」の差を知るためにしか使えないはずのこの数値が、研究費や研究職の獲得に際して研究者個人や研究機関の評価のために利用されるという根本的に誤った使われ方が一般化していることが、このシリアルズ・クライシスの原因のひとつであることは間違いないだろう。ある雑誌に掲載されることが、研究者や研究機関の命運にかかわるということであれば、関係者が経済効果の高い雑誌に投稿するために、購読したいと思う気持ちは理解できる。

研究の成果は誰のものか
 そもそも、科学の営みは人類の共有財産である。そこまで哲学的にならずとも、我々の研究活動のほとんどは税金を財源とする公共の予算のサポートにより行われているという事実がある。その成果のひとつの発信形式である研究論文が、非常に高額な対価を払って購読しなければ読むことのできない雑誌に発表されているということは、スポンサーである納税者に対する背信行為とも言えよう。
 こうした科学業績発表の商業主義化に抗して、一方では雑誌の無料公開を目指すオープン・アクセスやフリー・ジャーナルという動きが出てきている。オンラインでのアクセスを前提とする限り、印刷費などは不要になるので最小限のコストでいわゆる学術雑誌形式の「出版物」を作ることができる。さらに、スポンサーを募ったり、出版することで個人的メリットを享受することが期待される著者から費用を徴収したりするシステムを採用することで、完全無料のフリー・アクセスが実現される。このような形式でもっとも成功しているもののひとつがPLoS (Public Library of Science) という生物医学系の「雑誌」群である。PLoSに掲載された全論文は完全に無料で公開されている。また、旧来の雑誌の中にも著者が特別料金を払うことで、その論文についてはオンラインで無料公開するというシステムをとるものが増えつつある。

機関リポジトリとHUSCAP
 そうは言っても、相変わらず主要な雑誌の多くは高額な購読料を取り続けているという現実は変わらず、シリアルズ・クライシスはまだ「今ここにある危機」である。科学論文は著者達の科学的営みによって得られた成果を出版したものであり、その著作権が出版社にのみ帰属し、その販売によって得られる収入のすべてが出版社にはいるのみならず、図版や文章の利用権すら著者に与えられないという従来のやり方に疑念は多い。そのような中で、論文の内容及び図版を著者の所属する機関(大学や研究所)のウェブサイトに限ってのみ公開を認める雑誌が増えてきている。この場合、雑誌として出版される論文の最終形態の著作権は出版社が所有するものの、そのもととなる最終版の論文原稿は著者にも著作権があり、それを自由に公開することを認めるということらしい。こうした機関ごとに、論文・著作をウェブ配信するサーバ・システムを機関リポジトリという。しかし、たとえインターネット上にバーチャルに構築するものとはいえ、機関リポジトリを実際に運用するためには、人・予算・環境が必要である。日本では国立情報学研究所のサポートを受けつつ、千葉大学、早稲田大学、北海道大学が先駆けとして機関リポジトリを構築、運用している。

機関リポジトリの問題点と将来
 機関リポジトリの出発点は、大手出版社に支配されている学術情報流通を研究者・研究機関自身の手に取り戻そうということで、このアイディア自体に反対する人はあまりいないものの、実際に運用を始めてみるとなかなかスムーズに動かないというのが現実である。その原因はいろいろあると思われるが、最大の理由は登録の煩わしさであり、もう一つは登録する論文が雑誌に印刷された最終形態のものではなく、印刷する直前の「著者最終稿」であることである。
前者については、ただでさえ忙しい研究者が、たとえ有料とはいえすでにインターネットでアクセスが可能になっている論文を、無料アクセスできるようにするためにわざわざもうひとつ登録するという「無償のサービス」作業に意欲がわかないという気持ちはわからないでもない。しかし、最近の調査によると無料でアクセスできる状態になっている論文は、そうでないものよりも引用されるチャンスが大幅に上がるという調査があるので、これは単なる奉仕とは異なり研究者にもメリットが期待できるものであることが理解されるだろう。
一方、学問分野によっては、印刷された論文(例えば、分類学の記載論文)を決定稿として、それ以外のバージョンの存在を嫌うケースがある。この場合はすぐには対応が難しいかもしれないが、学界として新しい時代の学術情報のあり方への新しい対応を迫られる時代が来ていると考え、積極的に対応を計るべきではなかろうか。

歴史遺産としての紀要
 世界的規模で流通している学術雑誌のほかに、最近では減りつつあるものの大学紀要という学術出版の形式がある。研究の国際的評価が重要視されるようになってきて、自然科学系では風前の灯火ともいえる状況に追い込まれている大学の紀要であるが、かつては日本の科学の国際的評価が低かったことや、研究業界の国内主義などの理由から、発表の後に歴史的と評価されることになる世界的に重要な論文が紀要に掲載されることがしばしばあった。例えば、私がかつて所属していた理学部動物学教室にも紀要があって、大学院生が単著で論文を投稿するなど、ひとりで論文を仕上げる機会を実践できる貴重な研究者養成の場としても機能していた。その「北大理学部紀要(動物学)」を研究成果の発表の場として積極的に利用したひとりが、社会性ハチ学の権威として世界的に有名な故坂上昭一である。北大広報誌リテラポプリ(2005年冬号、Vol.21)に掲載された坂上の弟子のひとりである現理学部教授・片倉晴雄の文章を引用する。
 こうした成果の公表に大きな役割を果たしたのが当時の北大理学部紀要(動物学)(現在は休刊中)をはじめとする大学紀要だった。実際、上記「昆虫の社会」 に引用された25編のうちの9編は北大理学部紀要に発表されている。当時年2回発行されていた紀要を、ページ制限なしに研究成果を発表できる場として坂上は大いに活用したのだった。なにかというとジャーナルのインパクトファクターを気にする現代の風潮を聞いたら坂上は嗤い飛ばすに違いない。評価を決めるのは雑誌の格ではなくて論文自体の内容だ、といいきれるだけの実績が彼にはあった。
 このように世界的にも貴重な学術情報が蓄積されている紀要を、北大の宝として登録していくこともHUSCAPの重要な役割となるだろう。さらに、HUSCAPの中で、非常にアクセスの多いことが示された教育資料の保存・公開も機関リポジトリの役割として注目すべきものだろう。

おわりに ~ 機関リポジトリと図書館の未来
 機関リポジトリが動き出した図書館を見ていると、図書館の未来が見えてくるような気がする。今までの大学図書館の主な役割は、世界から学術情報を集め蓄積し、学内における研究・教育活動に資することだった。一方、機関リポジトリで行っていることは、北大からの学術・教育情報の発信である。研究者はともすれば一匹狼として活動することが多いので、特定の大学や研究機関に強い帰属意識を持たないことも多い。しかし、大学という存在は単なる個人研究者の寄せ集めではなく、全体としてある種のまとまりを持った存在である。HUSCAPという形で、北海道大学における過去と現在の学術情報・教育資料が、縦横に解析可能なデータベースとしてまとめあげられることで、今まで想像することすらできなかった北海道大学の研究・教育活動の全容が可視化されてくるのを見るのは感動的ですらある。北海道大学の研究・教育の過去と現在そして未来を記録・蓄積し続け、リアルタイムで公開していくことのできるHUSCAPは、北海道大学の資産として、顔として、さらに大学と世界をつなぐゲートウェイとしてますます発展していくだろう。そして、それこそが未来の図書館の重要な機能のひとつなのだと思う。
by stochinai | 2006-11-30 21:01 | 大学・高等教育 | Comments(4)
 昨日のエントリーには、たくさんのコメントとトラックバックをいただき、たいへんにありがとうございました。

 こうして、ネットを使うとお金や権威の力をかりなくても、とても良い意見を集めたり、建設的な議論ができるのに、政府はどうしても**会議とか***委員会とかを主催したがるのは、やはり意図したような結論へと持っていくことが簡単だからなのでしょうか。タウンミーティングだと「やらせ」は新聞ネタになりますけれども、教育再生会議が「やらせ」だというところまで新聞やマスメディアでとりあげるというようなことは、あまりないような気がします。でも、こちらから見るとまったく同じ臭いがするのは、下司の勘繰りというものでしょうか。

 それはさておき、昨日のエントリーでたくさんの人から、教員の評価は必要だし、良いことではないか、というご意見をいただきました。

 コメント欄でも書きましたけれども、私も教員を評価してはいけないなどとは思っておりません。むしろ、がんばっておられる良い先生を積極的に評価していただきたいとすら思っております。

 では、なぜ子どもや保護者(大学だと学生)による評価に対して否定的なコメントをしたのかというと、非専門家による「評価」というものが往々にして、好き嫌いや理解できるできないという、感情的なところで結論を下されてしまうことが多いことと、もうひとつはそうして得られた「評価結果」が一人歩きをはじめて、別の目的にも利用されてしまうことを恐れたからなのです。

 あともうひとつ評価につきまとう「客観性」という魔物にも触れておかなければなりません。評価というものが難しいとは誰しも認めることですが、それに客観性を持たせるためにしばしば行われるのが「数値化」ということです。これは科学とも関連があることなのですが、数値化には「数値化できるものしか数値化できない」という落とし穴があります。

 あたりまえのことのように聞こえるかもしれませんが、世の中には数値化できるものとできないものがあり、たとえば「教員の能力」などというもののうちで数値化できることなどは、能力全体のうちのほんの一部だということに注意しなければなりません。

 しかし、それにもかかわらず数値化できるものは、ある種の客観性もありますし、それよりなにより数値というものは一次元に並べて比較することが簡単ですので、ついつい広く使われてしまうことになります。

 研究者の世界ならば、論文数とかその論文のインパクトファクターとか、学位をとった弟子の数とか、指導している大学院生の数とか、数になりやすいものが比較の対象になって、研究者あるいは教育者の質として比較されてしまうことになります。

 小中高校の先生だと、受験でどこの学校に何人入れたとか、クラスでいじめられた子どもが何人いるとか、出席停止になった子どもが何人いるとか、自殺した子どもが何人いるとか、そんな数値になりやすいものだけが比較に対象になってしまうことをとても恐れます。

 今日は大学の話はやめておきますが、小中高校の先生の教え子の何人が受験に受かったというのはほんとうに先生の能力を反映しているのでしょうか。最初から能力の高い子どもを選別して、そうではない子を教えることを拒否した先生のクラスからはたくさんの合格者が出るのではないでしょうか。それは、先生の能力だけを反映しているでしょうか。子ども達の能力のほうが大きいのではないでしょうか。

 あるいは、同じような子ども達を預かった二つのクラスで、片方は真面目にあらゆる教科を教えました。もう一つのクラスでは、受験科目以外の学習時間をすべて、受験科目に振り当ててガリガリと詰め込み勉強をさせました。さて、この場合どちらのクラスの子どもがたくさん合格するでしょうか。そして、その場合単位を偽装してズルをしたクラスの先生の評価が高くなるというようなことはないでしょうか。

 あるいは、とても大変な児童がたまたま何人もいるクラスを担当した先生はどうでしょう。その子たちのために時間外の自分の時間をたくさん使って、土日もなくなるほど彼らの相手をしてやった結果、その子たちは普通の子ども達と同じようにクラスで振る舞えるようになり、普通に公立の中学に進学したとしたら、その先生にはなんらかの数値的評価が与えられるでしょうか。不登校児やいじめを出さなかったという意味で×の評価は避けられたとしてもプラスの評価はもらえないのではないでしょうか。

 でも、私にはどの場合も数値をもらえなかった先生も、とても良い先生のように思えてならないのです。わかりやすい評価をするということは、おそらく「客観的な数値評価」が導入される可能性が高いと思います。特に、教育の専門家ではない人が評価にかかわると、「私は良くわからないから数値で出せるところだけで評価しましょう」ということになるのではないかと、とても心配なのです。

 もちろん人間が生きている限り、競争や評価は避けて通ることのできないもので、それを否定するつもりはまったくないのですが、評価するのなら数値で比べられないものもしっかりと評価することのできる「専門家」にやってもらいたいと思います。そして、たとえ専門家といえども神様ではありませんから、間違うこともあるでしょう。そういう時のために、評価する人を監視するあるいはさらに評価する人も用意して欲しいのです。

 そうした体制がととのったならば、いま現場で苦しみ、悩み、がんばっておられるたくさんの素晴らしい先生方も、喜んで自分を評価してもらいたいと思うことでしょう。

 評価というのは、人をおとしめるために行うのではなく、素晴らしいひとを褒めるために行っていただきたいと思います。

 わかっていただけるでしょうか。
by stochinai | 2006-11-29 23:33 | 教育 | Comments(10)
 私の愛読ページのひとつになっている「世相」さんのサイトの今日のエントリー「そんなこと 出来るの?」で、衝撃的な文章に出会ってしまいました。

 元記事も探してみたのですが、見つからなかったので申し訳ないのですが孫引きさせていただきます。
毎日新聞(11/27)から
政府の教育再生会議(野依良治座長)が来年1月にまとめる中間報告の原案が27日、明らかになった。教員の指導力を適切に把握するため、保護者も評価に加わり、指導力不足の教員の研修や配置換えを徹底すること柱になっているようだ。
 ・・・・・
教員評価に関し、政府の規制改革・民間解放推進会議は昨年12月の答申で「児童・生徒・保護者による教員評価」の導入を提唱。学校運営協議会制度でも教員の任用に保護者の意見を反映させる制度が実施されている。再生会議はこうした枠組みを念頭に、
 ・・・・・
 私がショックを受けたのは、「『児童・生徒・保護者による教員評価』の導入」というところです。

 私達、大学教員も最近は学生による教員評価を受けています。大学による評価以外に、私は個人的にも学生に評価してもらうことを、ずっと前からやってきました。そして、その結果確信していることは、学生という存在が彼らと利害相反することのある教員を冷静に評価することなどできないということです。もちろん、中には非常に建設的でためになるコメントや批判があるのも事実ですので、それを授業・講義の改善に役立てようというときには、大変に参考になります。

 しかし、学生に教員の評価をさせてみると良くわかるのですが、講義をさぼりがちで成績が悪い学生が教員に対して極めて悪い評価をする傾向が強いのです。逆に、熱心に講義に参加して結果的に成績の良い学生は教員を高く評価する傾向があります。匿名でコメントをもらっても、その学生が講義にしっかりと参加しているか、そうではないかというのは意外とわかるものです。

 それでもなお、この評価やアンケートが教員の反省材料として使われているうちは、有益なものだと思います。しかし、いったんそれが教員そのものの「評価」に使われて、待遇や将来までをも左右しかねない力を持つようになったらどうでしょう。利害関係をもった、場合によっては被害者意識を持つことになった学生が下した教員の評価が、教員の待遇(それも褒める方ではなく、処分する方)に利用される可能性を考えてみると、よくわかると思います。

#もしも、大学で教員の講義にほんとうに問題があるのだとしたら、教員評価アンケートなどに「こんな先生は辞めさせてほしい」などと書くのではなく、学生自らが直接、教員と交渉すべきではないでしょうか。教室全員が同じ意見でまとまるくらい問題がある教員なら、そうすべきだと思います。大学生にもなったらそれくらいできないと困ります。

 さて大学生でもこうなのですから、いわんや児童・生徒(小中高生)に、教員の評価をさせるなどということは、冗談以外の何ものでもないことがおわかりになるのではないでしょうか。同じように保護者も教員とは時として利害が対立する存在ですので、同じ傾向の評価が出てくる可能性が高いと思います。成績のよい子の親は、教員を高く評価し、悪い子の親は、酷評する傾向が予想されます。

 ほんとうに教員を評価したいというのなら、教員と同じくらいの専門的教育を受けた人間を教室に派遣してください。大学の講義も、そんなにダメだというのなら、講義の内容を理解できるくらいの専門的知識を持った教育経験のあるプロを教室に送り込んでください。いつでも、受けて立ちます。

 世相さんが結論でおっしゃっているように、「私は親がまともな保護者になれるまでは(恐らく見通しは100年も200年も先かも知れない)教師の評価などさせない方が良い、と考える。なぜなら、今そのようなことを親にさせれば、学校は、教育界は、もっと荒んだものになることがはっきりしているからだ」に、強く賛成です。

 いじめをする子どもを登校禁止にする、などというワイドショーで良く見聞きする思いつきにすぎない意見を丸飲みしたような「緊急提言」する教育再生会議というのは、いったいどういう会議なのでしょうか。ここでも指摘されているように、今のいじめの実体を知っている人からみると、そんなことをしたら「学級閉鎖モードのところもでてくるでしょうね」ということになるのです。しかも、その再生会議で出校停止を言っているのは、生徒達の心を理解していると思われていたヤンキー先生こと義家さんだというのですから、この会議自体が壮大な冗談であることがわかります。

 つまり、この教育再生会議は日本の教育に引導を渡すための教育絶命会議ということなのでしょう。

【追記】2006年11月29日13時49分朝日コム
 思いつきで動いている再生会議のようですが、逆に考えるとワイドショーなどを参考にしたり、ブログなどをあさっている可能性も感じられます。どんどん書いたほうが良いかもしれません。

「出席停止」見送り 教育再生会議、いじめ問題緊急提言
 安倍首相直属の教育再生会議(野依良治座長)は29日、首相官邸で総会を開き、いじめ問題で8項目の緊急提言をまとめて発表した。
 ・・・・・
 当初は「出席停止」処分の積極的な適用を盛り込むことも検討されたが、委員から「教育には愛情が必要だ」といった慎重意見が出たことや、1948年に「懲戒の手段として授業を受けさせないという処置は許されない」との当時の法務庁長官の見解があることなどから、見送られた。

by stochinai | 2006-11-28 22:51 | 教育 | Comments(24)

学長選挙

 北海道大学では、現学長の任期満了に伴い、次期学長の選考が始まりました。

 北海道大学の学長は、いつの頃からか(知っているのですが)「総長」というやくざの代表と同じ呼び方をされるようになりました。この呼び方に、法的根拠はないということなので、自称ということです。Wikipediaを引用します。
大学(短期大学を含む)では、法制度上、学長(がくちょう)という。学長は、各大学によって総長(そうちょう、東京大学、京都大学などの旧帝大)、塾長(じゅくちょう、慶應義塾大学および学習塾でもこの名称が用いられることもある。)などの独自名で呼ばれることがある。
 というわけで、我々が投票できる「総長選挙」が始まりました。2年前の選挙の時にも同じことを書いている(進歩がないですね)ので、くどくど書きませんがあくまでも、総長選考会議(名簿はこちら)の方々が選考をする際の参考にするための「意向聴取」のための投票を、慣例として「選挙」と呼んでいるだけで、そこで選ばれた人が自動的に学長になるわけではありません。

 とは言え、そこで選ばれた人を選考委員会が選ばないということになれば、それはそれで(とてもおもしろいのですが)大きな問題になるでしょうから、よほどのことがない限り、意向投票が事実上の選挙になると言えるでしょう。

 今回は、その意向投票に向けて6人の候補者が立候補しました。前回は、当時の学長の続投が確実視される中、事実上の無投票当選だったので、まったく盛り上がらなかったことを考えると、今回は盛り上がっている、と言えるのかもしれません。

 6名の内訳は、先端生命科学研究院院長、理事・副学長が2名、博物館長、医学研究科長・医学部長、副理事・創成科学共同研究機構副機構長です。

 それぞれの立候補者に、20名以上の推薦者が必要なので、ご本人の経歴・業績や所見以外に、推薦者名簿を見るとおもしろい傾向が見て取れるものです。所見や推薦文などは、どれもこれも似たり寄ったりで、結婚式での新郎新婦ぼめみたいなものなので、さほど読んでも大きな違いを見つけることは難しいと思います。

 普段から、このブログを読んでおられる方は、私はこのような選挙とは無縁の存在だろうと思っておられると思います。私も、そのように思っておりました。ところが、どこでどう話がこんがらかったか、あるいは手違いがあったようで、なんと私が某候補者の推薦者になることを依頼されたのです。私などが推薦者になると、こういう選挙には不利になると思うのですが、それでも良いということのようですし、その方はもともと存じ上げている方で、候補者の中ではもっとも北海道の自然を感じさせてくれる方だったので、その場でお引き受けさせていただくことに決めました。

 今の大学は、文科省の強い管理下にありますので、学長が誰になってもそれほど型破りの大学経営ができるとは思いませんが、北海道大学は他の国立大学とは違う地域「北海道」を意識した大学であり続けるべきだと思います。私が推薦する人は、ひょっとしたらそういうことができる人になってくれるかもしれません。

 もしも、私の推薦する方が学長になってくれたならば、少なくとも私が直接にメールを出したりすることも可能になるのが、今から楽しみです(笑)。何せ、推薦者ですからね。彼が学長になった暁には、私が新学長に対して「獅子身中の虫」となって、チクチクとつぶやく小言を送り続ける役割を果たしていきたいと思っております。(期待を裏切られたら、ここで暴露することにします。^^;)

 北大の隅っこから学長が出現したら、痛快ですよね。
by stochinai | 2006-11-27 21:34 | 大学・高等教育 | Comments(15)
 今日「情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士」さんのところで、早稲田大学総合研究大学院大学教授で進化生物学者の長谷川眞理子さんが信濃毎日新聞に寄稿した記事が紹介されていました。

 「今日の視角 国民をばかにするな」では、政府主催のタウンミーティングの中で教育問題がテーマになった時に、文科省が組織ぐるみでやらせにかかわっていたことが発覚したことに対して、「私はこの話を聞いて呆(あき)れるとともに、心底、怒りを感じている」と、率直な感想を述べておられます。

 早稲田大学といえば、研究費不正使用問題で大学が文科省やJSTなどから厳しく指導を受けただけではなく、教授の辞職や、研究費の配分停止措置などによって、大学にいる科学者全体が世間の非難の目にさらされたことは、それほど古い話ではありません。

 その件に関して、「研究費の不正使用、データのねつ造など、科学者の倫理が問われる問題がいくつか発覚し、科学者の信用が大きく傷つけられた。いずれも、科学者としてやってはならない悪事」と認める一方で、研究費を配分している文科省のやり方にも問題があるのではないかという意味のことを書いておられます。
 たとえば、現在の研究費の使い方の規則が、研究の実情にあっていない、研究費獲得のための過当競争が、安易な論文多作を促す、などの一般的状況が、指摘されている。そして、科学者の倫理に関する指針が、政府からも、学者の団体である日本学術会議からも出された。それは、科学者の不正の問題の根が、単に特定の個人の悪行のみならず、科学という営み全体のあり方にもあると考えられたからだ。
 この文章の中に、はっきり書いてあるわけではありりませんが、「科学という営み全体のあり方」と書いてあるときに、科学研究費(特に大学)の大きな部分の配分を一手に握っている文科省の研究費管理のやり方にも問題があるのだと言っていることを読みとる必要があります。

 それを心にとめた上で、最後のパラグラフを読むと長谷川さんのおっしゃりたいことがわかると気がします。
 それと同様に、今回の「やらせ」問題も、文科省の特定の官僚が起こした不祥事というだけでなく、文科省という組織全体に、このような稚拙なやらせを起こさせる何かがあるのではないだろうか。日本の教育、科学、技術、文化すべての政策にかかわる人々がどんな「文化」を持っているのかと考えると、寒々とした思いを禁じ得ない。
 つまり、こうした「やらせ」を平然と行うような「文化」を持った組織が、我々の研究だけではなく、文化、教育、技術やスポーツなどのすべてに関する権限と予算を握っていることが、研究費不正使用、文化振興費不正取得、いじめ、単位偽装、原発事故隠し、スポーツ振興予算の不正使用、サッカーくじの大赤字、などなどを生む土壌を作っているのではないか、という疑念だと思います。

 この点に関しては、私も長谷川さんのご意見に賛同いたします。

 いろいろな問題が起こるたびに、現場が責められるのですが、実はおおもとの文科省に大手術をしない限り、何も解決しないのではないかと思っている人はたくさんいるのではないでしょうか。

 このことは、第3者機関を創設して、予算配分の権限を文科省から切り離してみると、はっきりすると思います。そういうことを政治改革と呼ぶのではないでしょうか。

 そういう目で見ると、今、騒いでいる教育基本法を変えて文科省の権限を強化するということは、状況を悪くするということになるでしょうね。(まあ、政府自民党・公明党にとっては、ここで言っている「状況が悪くなる」ことが、「状況が良くなること」に思えるのでしょうから、これは彼らにはまったく響かない意見なのですが、、、、。)
by stochinai | 2006-11-26 23:27 | 科学一般 | Comments(6)

雪の朝

 この冬初めての本格的な積雪になりました。おかげで、昨夜と今朝の自転車はかなり大変でした。東区は特に雪が多かったのか、気温があまり上がらなかったのか、今日もあまり融けませんでした。おかけで、久々に今日は地下鉄駅で自転車を乗り捨てて、大学へと向かいましたが、大学付近はほとんど雪がありませんでした。

 今朝、我が家の前から、南の方を眺めるとこんな感じでした。
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 北はこんなふうです。
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 バックヤードの堆肥は冬越し準備完了です。
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 暖かい家のなかから、たわし猫が人相悪く外を眺めておりました。
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 猫はいいですね。
by stochinai | 2006-11-25 23:49 | 札幌・北海道 | Comments(4)
 私がメインに使っているブラウザはfirefoxです。いろいろと使いやすく設定できるところが気に入っています。ただし、今でもIEでなければ「正常に」表示されないサイトもあるので、IEもインストールしていますが、利用頻度は95:5くらいです。

 firefoxにはテーマを設定することができます。今までその機能は使ったことがなかったのですが、今日の GOING MY WAY さんのエントリー、「Firefox をクリスマスムードにするテーマ Tinseltown」で、Tinseltownというアドオンを使ってテーマを変えてみると、こんなふうになってしまうことを知り、早速やってみました。
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 雰囲気を出すために、アクセスしているサイトはnorthpole.comというNPOのクリスマスサイトです。英語なのがちょっと残念ですが、子どもさんに見せたら大喜びすることは請け合いのサイトです。

 そんなサイトにアクセスしている時には、ブラウザもクリスマス・ムードが良いのではないでしょうか。

 テーマは他にもいろいろと選べますので、これを機会にあなたもブラウザをfirefoxにしてみてはどうでしょう。

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by stochinai | 2006-11-24 18:41 | コンピューター・ネット | Comments(2)

スウィング・ガールの死

 昨日の昼頃、山形の県立高校で2年生の女子生徒が、教師らの制止を振り切り、校舎と体育館をつなぐ渡り廊下の屋根から飛び降りて、自殺するという衝撃的な事件が起こりました。

 しかも、そこは山形県高畠町の県立高畠高校。あの映画「スウィング・ガールズ」の舞台になった高校と言うだけではなく、この女子生徒もクラリネット担当のスウィング・ガールだったというのです。ライブドア・ニュースを引用します。
 同校は移転前の旧校舎が、2004年公開の映画「スウィングガールズ」(矢口史靖監督)の撮影に使われたことで知られる。映画は女優・上野樹里さん主演で、女子高生が「即席吹奏楽部」を結成し、ジャズの魅力にひきこまれる青春物語。生徒も吹奏楽部でクラリネットを担当する“スウィングガール”だった。

 生徒はこの日も普段通り登校し、同部の朝練習に参加。1時間目の「生物1」の授業も出席していたが、2時間目から姿が見えなくなっていた。2時間目後の休み時間に、吹奏楽部の顧問教諭が音楽室で会うと「忘れ物を取りに来た」と話したという。
 朝練習への参加とか、生物の授業とか、練習場である音楽室に忘れ物を取りに来たというエピソードが、彼女の心を描き出す映画のシーンのように、生々しく想起させられるのがつらいです。

 飛び降りた場所に残されていた携帯電話に、「複数の生徒の名前を挙げて、『言葉によるいじめを受けていた』という趣旨の書き込みが残っていた」という報道もあり、今回の件もいじめ関連の自殺連鎖のリストに付け加えられることになりました。

 映画「スウィング・ガールズ」を見た時、これが若者だなあと思ったものですが、そこには描き切れなかった苦しさもまた若者が持っているものなのだと思います。

 我々は、次々と起こる自殺を社会としてとどめることができていないという現実は認めなければなりません。

 屋根の上に上がってしまった彼女を止めようとしても、やはりそれは遅すぎたのだと思います。同じような意味で、朝日新聞の朝刊一面に毎朝載っている「いじめられている君へ」という呼びかけのコラムも、もはや遅すぎるのではないかという気もします。日本の社会全体として、もはや何もかもが遅すぎるところまできてしまった我々に、子どもたちの行動を止めることなどできないのかもしれません。

 遅すぎるところまで来てしまったことを前提に、それでもなおやるべきことを考えなければならないところに追いつめられていることを、私たちは自覚しなければならないのだと思います。

 なくなられたひとりのスウィング・ガールのご冥福を、心から祈ります(合掌)。
by stochinai | 2006-11-23 23:45 | つぶやき | Comments(12)

HUSCAP収穫祭

 北海道大学の図書館がやっている、HUSCAPという機関リポジトリプロジェクトをご存じでしょうか。

 つい、1週間ほどまえに「このたび、北海道大学学術成果コレクション(HUSCAP)の収録文献数が10,000編となりました」という発表がありました。ほんの2年ほどの活動で、その収集および公開文献数が10000を越えるというのは、すごいことだと思います。これも、ひとえにHUSCAPに情熱を傾けている図書館の皆さまのおかげであると、お礼とお祝いを申し上げたいと思います。

 さて、そのHUSCAPですが、文献収集だけにとどまらず、なんと地ビール(自ビール)であるHUSCAPビールの精算までやっているのです。HUSCAP beer 2006の仕込みの様子がこちらにあります。仕込まれたビールはわずかに100本の限定品なのですが、なんと幸運なことに私の研究室にも1ダース分けていただくことができました。

 というわけで、今日はラボのメンバーと鍋を囲みながらHUSCAPビールの収穫祭となりました。外はこの冬初めての本格的な雪が降っておりますが、楽しく暖かいひとときを過ごさせていただきました。

 ここで、お礼の意味も込めてHUSCAPビール2006をご紹介させていただきます。中味は1種類なのですが、ラベルが4種類あります。まずは、集合写真です。
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 右から順番に詳しくお見せしましょう。
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 まずはハスカップちゃんです。最初は機関リポジトリの最後の2文字をとって「トリ」ということで選ばれたという悲しい出生の秘密を持っているハスカップちゃんですが、今や押しも押されもせぬ不動のアイドルの地位を獲得しています。
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 つぎは、言わずもがなのポプラ並木です。どのラベルにも書いてありますが、HUSCAPビールはハスカップでビールを造ったわけではなく、普通の大麦ビールにHUSCAP果汁をてんかして作ったものです。
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 3番目は、北大・ポプラ並木と言えば、次はもちろんクラーク先生です。
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 そして最後は季節にちなんだクリスマスです。みなさん、メリークリスマス(って、ちょっと早いですね)。

 さて、このHUSCAPビールですが、味については賛否両論です。概して、女性の方々には好意的に受け入れられているようですが、私のような飲兵衛親父にはちょっとオシャレすぎて考え込んでしまうというところがなきにしもあらずというものでした。

 でも、年に一度の収穫祭に図書館の皆さんの日頃のご尽力を思いながら、ちょっと変わったビールで一年を振り返るというのも、また楽しからずやです。

 図書館およびHUSCAP園芸部のみなさん、ほんとうにありがとうございました。来年も、よろしくお願いいたします。

【追記】
 HUSCAPビールできあがりましたという記事にも、トラックバックを送ります。
by stochinai | 2006-11-22 23:59 | 大学・高等教育 | Comments(0)
 今日はいつもの倍近いアクセスがきているのですが、その理由は2週間ほど前のエントリー「正直者が馬鹿を見る」です。

 どういうことなのでしょう。

 最近は、「踊る新聞屋ー。」さんからトラックバックがあっただけなのですが、そちらからおいでくださる方が多いということなのでしょうか。

 アクセスが多いのはうれしいのですが、いつもとまどってしまいます。

 情報をご存じの方がいらっしゃったら、お知らせいただけると幸いです。
by stochinai | 2006-11-21 22:22 | コンピューター・ネット | Comments(7)

風わたり泥も乾きて春の草             嵐雪


by stochinai