5号館を出て

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記者ブログ

 マスコミ関係、それも専門家である記者の方のブログが急増中のようです。どういうことなんでしょう。

 ネットは新聞を殺すのかblogという、そのものズバリのタイトルから現場の記者の気持ちが伝わってくるようなブログの今日のエントリーが、記者ブログを始める人、やめる人です。

 最後の大物というわけでもないのでしょうが、北海道新聞の記者で例の道警の裏金問題を追いつめた高田さんという方が、昨年の暮れに札幌から ニュースの現場で考えることというブログを始めたのは、記者仲間の方にも衝撃だったのかもしれません。

 その登場の日に、やはり記者ブログのひとつガ島通信に、注目の記者ブログとして、興奮気味に素早いレスポンスが書かれています。

 高田さんは、開設の辞このブログのことで「真面目な記者であればあるほど、既存メディアへの絶望感を深めていく。報道の現場は最近、そんな感じがますます強まっています」と、実に素直に記者としての現在の心境を語っておられます。

 我々から見ても新聞やマスコミの凋落ぶりは目に余るものがありますので、新聞記者のようなしっかりとしたものを見る目を持っているはずの人ならば、たとえ内部にいたとしてもその状況に甘んじているわけにはいかなくなってきているということだと思います。

 最終的には、私が書評『メディアが市民の敵になる』書評~さようなら読売新聞で書いた山口さんのように、新聞記者を辞めてしまうかもしれませんが、その直前の段階として会社とは独立に記者達がウェブ上で発言し始めたことを歓迎したいと思います。

 たとえ腐っているとはしても、新聞社という組織の中にいることでさまざまの一次情報に接する機会は圧倒的に多いはずです。そのような状況の中、たとえ新聞には書けなくてもブログで発表してくれることがあるなら、新聞には期待できない状況がきても新聞社に金を払い続けて(新聞を取り続けて)やっても良い気がしてきます。

 しかし逆にいうと、新聞に載せられないようなことを発表されるわけですから、新聞社としては困ったり弾圧したりすることもあるかもしれません。しかし、闇から闇に葬られるわけではなく、そうした内部における弾圧すらも発表するブログという窓が開いたとも言えるわけで、記者にとってもある意味での身を守る安全装置として機能する可能性も否定できません。(もちろん、逆のケースも大いに想像されます。)

 一方では年明け早々、ある報道記者のブログが閉鎖に追い込まれるという事件もあったようです。ただし、こちら(「大津波被災と自己責任論」関連リンク集をご覧下さい)は、会社からの圧力ではなくブログ上での論争(混乱)のあげくに、自ら止めてしまったということのようです。

 残念なことに、こちらの方も北海道の某放送局の記者だったようで、報道記者とはいえ、それまでのマスコミとはまったくルールやリテラシーの違うブログの世界で失敗し、撤退を余儀なくされてしまったということなのかもしれません。再起を待ちたいと思います。

 しかしたとえ何があっても、この先ネットは間違いなくジャーナリズムの大きな比率を占めて行くことは止まらないと思います。

 Show must go on 志ある者達の参加によって、今年もウェブの世界はものすごいスピードで回り続けそうです。
# by stochinai | 2005-01-12 21:50 | つぶやき | Comments(0)

ノロウイルス

 「ノロウイルス」とローマ字入力して最初に出たのが「呪う居留守」と出てしまいました。本当にノロウイルスは呪われた恐怖の疫病なのでしょうか。

 広島県の特別養護老人ホームでの老人集団死亡事件の調査の中で、発症した入所者と職員からノロウイルスが検出されて、どうやら集団死亡の原因がそれらしいということになるや、日本中でノロウイルスが検出され大騒ぎになっています。

 北海道では、去年くらいから冬になるとはやる「お腹に来る風邪」というのが、実はノロウイルスによるものであるということが知れ渡っておりまして、冬にはごく普通に見られる軽い症状の感染症であると言われてきました。

 つまり、それは普通の風邪と同じウイルスによる感染症で、下痢や吐き気を訴えて苦しいものではあるけれども、まさか死に至るものだという感覚はまったくと言って良いほどありませんでした。

 確かに老人や乳幼児は、普通の風邪やインフルエンザでも重篤な症状になることがあり、風邪と言ってもバカにしてはいけないと言われてはいましたが、昨日今日のニュースでは、老人がノロウイルスに感染されるとかなりの確率で死んでしまうと思わせるような報道がなされているように聞こえます。

 報道の皆さん、少し冷静になってください。

 もちろん、全国の高齢者施設でノロウイルスが原因と見られる感染性胃腸炎が蔓延しており、あちこちでお年寄りが亡くなっているのは事実かもしれません。

 しかし、まずはノロウイルス感染が今年になっていきなり増加したのかどうかの検討が必要です。上にも書いたように、昔から「お腹に来る風邪」というものがはやることは何度もあったはずで、その頃のものも単に特定されていなかっただけで、実はノロウイルスだったということはないのでしょうか。

 それと、もう一点。ちょっと不謹慎な発言になることを許していただきたいのですが、かなりご高齢のお年寄りは昔から冬になると単なる「風邪」が原因で亡くなられるケースがままあったと思います。

 そう考えると、そうした高齢の方がたくさん入っておられる高齢者施設で、冬になると亡くなられる方がある数増えるのは、大事件ではないかもしれません。

 特定の施設で7人も相次いで亡くなったということは事件かもしれませんが、その原因はノロウイルスであるというよりも、その施設におけるご老人の扱い方のほうにあったと考える方が自然ではないでしょうか。

 もちろん、今年のノロウイルスが昔のものよりも毒性が高くなっており危険であるという可能性は捨て切れませんが、私にはどうも必要以上のフレームアップに見えて仕方がありません。

 この冬は、昨年のようにSARSやトリインフルエンザで事件が起こらないので、その代わりに恐ろしげな名前を持つノロウイルスをターゲットにしてマスコミが騒ごうとしているように思えるのですが、考えすぎでしょうか。
# by stochinai | 2005-01-11 23:09 | 生物学 | Comments(0)

成人式

 成人式という行事がいつから始まったのか知りませんが、20歳の若者が主に和風のおめかしをして七五三のような雰囲気の日になったのはそんなに古いことではないような気がします。

 私が20歳になった頃は、こうした官制の行事に参加する若者は今ほど多くなく、参加する人は比較的まじめで素直な人たちが多かったと思われるので、問題が起こるなどということは想像もできませんでしたし、記憶にもありません。しかし、最近の若者は比較的屈託なく中学校の同窓会のような雰囲気で集まり、時にハメをはずすようなことも起こるようです。

 義務教育の延長のような全員参加で行われる式で、お役所の偉い方の挨拶などを聞かせようとしても、我慢して聞くことのできない「子どもたち」が多いことは容易に想像できます。

 少子化の中で成人式に参加する「子ども」の比率がどんどん上がってきたのと、問題が起こり始めたことが関係しているような気もするのですが、どうでしょうか。

 そう考えると、中学の同窓生が校舎や校長・教頭や先生方のいない状態で再び一カ所に集められるということは、中学校時代は抑圧され続けてきたという意識を持った子どもたちに、絶好のリベンジの機会を与えているということなのかもしれないと思えてきました。

 中学生の時には子どもたちにも肉体的・精神的・知性的にまだまだ力がなく、気持ちとしては反発したいと思っていても、いろんな意味で「学校側」に押さえつけられたまま卒業させられてしまったと思っている子どもたちは、意外と多いと思います。

 中学校を卒業してから、まだ4-5年しか経っていませんから、中学校と同じ顔ぶれの仲間が管理者としての先生方がいない状況で集まったところを想像してみると、むしろ何かが起こることの方があたりまえという気もしてきます。

 主催者側でも、問題を避けるためにくだらない祝辞を最小限に切り上げたり、子どもに迎合するような企画(ディズニー・ショー、ビンゴ・ゲーム、芸能人など)で、騒ぐきっかけを与えないようにしているせいもあって、だんだんと騒ぎも起こらなくなって来ているようですが、子どもの社会で起こる問題に対していつでもこうして対症療法を施して、問題を抑えることだけを繰り返していくのは、必ずしも正しい対応ではないのかもしれません。

 もし、私の考えが正しいとしたら、中学生の段階で子どもたちの不満を解消するようにすべきであって、それを解決せずに押さえ込んでしまうことが成人式の爆発を生んでいる可能性があります。

 そして、ここでまた原因を解決することなく成人式の爆発を押さえ込んでしまったら、次は社会的犯罪の増加という形でゆがみが発現してきてしまうという恐れがあるのではないでしょうか。

 そう考えると、荒れる中学生の出現は小学生時代を不満足に送った子どもたちの抗議であり、小学校時代に問題を抱える子どもたちの存在も幼児の時代の養育の失敗のツケなのかもしれません。

 さらに考えると、幼児がうまく育てられていないことの原因の一部は、その親たちがきちんと成熟していないことにあるのかもしれません。親をきちんと成熟させることができなかったのは、彼らを育てた前の時代の親と社会の責任でしょう。こうして我々の社会は、戦後の60年を失敗してきてしまったということなのかもしれません。

 極端に単純化しすぎてしまってはいることは認めますが、まったくの妄想と切り捨ててしまえないものを含んだ話だとは思います。
# by stochinai | 2005-01-11 00:24 | 教育 | Comments(0)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


by stochinai