2009年 03月 31日
コミュニケーションと情報操作の間
なんとかとなんとかの間というタイトルが多くなってきているような、今日この頃です(苦笑)。
さて、一昨日のエントリー「政権交代が最重要課題なのか」のコメント欄で行われている、「通りすがり」さんと「ある」さんのやりとりを興味深く読ませていただきました。
私も陰謀論が好きで、陰謀を行う前提になる情報操作という言葉にも思わず反応してしまう体質(笑)です。
ただ、情報操作というものは、情報伝達手段が一部の特定の組織や機関に独占されていた時代ならともかく、今の時代にはかなり難しくなっているのではないかとも思っており、小沢一郎さんの秘書の逮捕およびそれをめぐる一連の報道や、今回の千葉県の知事選挙において情報操作が行われ、その結果我々国民が踊らされてしまっているのかというと、全体として見ればたとえ踊っている部分が大きく見えたとしても、ネットを代表とする分散型で中小規模のコミュニケーションが行われているところでは、必ずしも情報操作は成功していないことを感じています。
そもそも人がコミュニケーションしようという時には目的があって、自分の見聞きしたものや考えていることを相手に伝えたり、相手の見聞きしたものや考えていることを知ろうとすることがその中心ではないでしょうか。その時に、フェアな人ならばできるだけ自分の主観が入らないように冷静に相手とやりとりしようとするとは思いますが、その情報はどうしても自分あるいは相手という生身の人間を介することによるフィルターがかかるものです。そうであるにもかかわらず、私達は「こんなすごいことを見た、聞いた」とか、「これは間違いなくこういうことだ」という自分の感動を相手に伝えようとするものではないでしょうか。
コミュニケーションの中に、そうした情熱がこもっていればいるほど、相手にも印象強く伝わるものだと思います。
しかし、この様子を第3者が外から冷静に眺めていたならば、情報を送り出す側がそれを歪めるようなバイアスをかけていることを感じとってしまうかもしれません。その状況の中では、結果的に情報は歪められ正しく伝わらないということも起こりえます。
しかし、これは過ちであったとしても、情報操作とは言わないと思います。
その過ちを指摘された時に、自分の見聞きしたものを冷静にとらえ直したり、自分の考えを柔軟に変えることができる人であるならば、多少の時間はかかっても、情報は正しい方向へと修正されるので、あまり大きな問題にはなりません。
では、情報を操作しようと思う人が、このコミュニケーション・システムの中に入り込んだらどうなるでしょう。
おそらく、最初の情報提供の段階から巧妙に嘘や偽りを忍び込ませるでしょう。もちろん、結論としてもっている自分の意見を正当化するために、事実や現象をねつ造するためです。スキルとしてのコミュニケーション能力は芸術的・演劇的要素が大きく、中味はさておきそれをうまく伝えることのできる人がコミュニケーションの達人となります。さらに。言葉以外に映像や音楽といった人の感性を直接強く刺激するメディアを使うとより効果的に情報を伝えることができます。芸能人や各界の著名人などという存在もそうしたメディアのひとつであり、そうしたもを使って提供される情報が意図的に歪められていたとしたら、それは情報操作と呼ばれるに値することなのかもしれません。
しかし、それは今の時代に許されたコマーシャルという手段にすぎないと見ることもできます。
現在、コマーシャルを情報操作とまでいう人は少ないのではないでしょうか。なぜならば、コマーシャルにだまされる人の数が少ないからです。この操作される人の数が多いか少ないかというところは、ある現象を情報操作なのかそうではないのかを見分ける指標になりそうです。
とすると、選挙などといったたくさんの人の生活を大きく変えるようなシーンで同じようなことが行われた場合にはそれは情報操作といえるのでしょうか。
ここのところはかなり難しい判断を迫られるような気がします。選挙民が簡単に操作されてしまったのだとしたら、それはコマーシャルに簡単にだまされるような賢くない存在ということを認めることになってしまいます。コマーシャルにだまされて被害を受けるのは選挙民自身なのだから、それは自己責任だという言い方も成り立つかもしれません。
逆に、この記事を書いている私を含め、誰もが自分の言いたいことを相手に伝えるために、自分の議論を有利に運ぶために、データとして使う情報の取捨選択を始め、多かれ少なかれ情報を「操作」してしまうことは避けられないことだとも感じます。
昔のように、情報を伝達するメディアが一部に占有されていた時代だったならば、情報操作も簡単に出来たかもしれません。しかし、個人では数人に対して直接伝達する手段しか持たなかった昔に比べると、今では我々のように何も持たない存在でも発達したインターネットによって、サイズは小さいといえども誰でもがあっというまに、数十人、数百人、数千人に自分の持っている情報や考えを伝えることができるのです。
こんな小さなブログでさえ、毎日1500人から3000人というとてつもないたくさんの方のアクセスを受ける時代には、情報操作というものもかなりやりにくくなっているのではないかというのが私の実感です。
もちろん、まだまだ簡単に操作される多数の人々がいるのは事実だと思いますが、我々がこのメディアを有効に活用して、中小規模のメディアが網の目にようにめぐらされた新しい情報網を有効に使うことによって、簡単に操作されない「人の海」を作っていけるのではないかと期待しています。
というわけで、情報操作のたくらみは、今の時代ならば打ち破ることができるのではないでしょうかというのが、今日の結論です。もちろん、そのためにはたくさんの人の不断の活動が保証されることが大前提となるのですが。
さて、一昨日のエントリー「政権交代が最重要課題なのか」のコメント欄で行われている、「通りすがり」さんと「ある」さんのやりとりを興味深く読ませていただきました。
私も陰謀論が好きで、陰謀を行う前提になる情報操作という言葉にも思わず反応してしまう体質(笑)です。
ただ、情報操作というものは、情報伝達手段が一部の特定の組織や機関に独占されていた時代ならともかく、今の時代にはかなり難しくなっているのではないかとも思っており、小沢一郎さんの秘書の逮捕およびそれをめぐる一連の報道や、今回の千葉県の知事選挙において情報操作が行われ、その結果我々国民が踊らされてしまっているのかというと、全体として見ればたとえ踊っている部分が大きく見えたとしても、ネットを代表とする分散型で中小規模のコミュニケーションが行われているところでは、必ずしも情報操作は成功していないことを感じています。
そもそも人がコミュニケーションしようという時には目的があって、自分の見聞きしたものや考えていることを相手に伝えたり、相手の見聞きしたものや考えていることを知ろうとすることがその中心ではないでしょうか。その時に、フェアな人ならばできるだけ自分の主観が入らないように冷静に相手とやりとりしようとするとは思いますが、その情報はどうしても自分あるいは相手という生身の人間を介することによるフィルターがかかるものです。そうであるにもかかわらず、私達は「こんなすごいことを見た、聞いた」とか、「これは間違いなくこういうことだ」という自分の感動を相手に伝えようとするものではないでしょうか。
コミュニケーションの中に、そうした情熱がこもっていればいるほど、相手にも印象強く伝わるものだと思います。
しかし、この様子を第3者が外から冷静に眺めていたならば、情報を送り出す側がそれを歪めるようなバイアスをかけていることを感じとってしまうかもしれません。その状況の中では、結果的に情報は歪められ正しく伝わらないということも起こりえます。
しかし、これは過ちであったとしても、情報操作とは言わないと思います。
その過ちを指摘された時に、自分の見聞きしたものを冷静にとらえ直したり、自分の考えを柔軟に変えることができる人であるならば、多少の時間はかかっても、情報は正しい方向へと修正されるので、あまり大きな問題にはなりません。
では、情報を操作しようと思う人が、このコミュニケーション・システムの中に入り込んだらどうなるでしょう。
おそらく、最初の情報提供の段階から巧妙に嘘や偽りを忍び込ませるでしょう。もちろん、結論としてもっている自分の意見を正当化するために、事実や現象をねつ造するためです。スキルとしてのコミュニケーション能力は芸術的・演劇的要素が大きく、中味はさておきそれをうまく伝えることのできる人がコミュニケーションの達人となります。さらに。言葉以外に映像や音楽といった人の感性を直接強く刺激するメディアを使うとより効果的に情報を伝えることができます。芸能人や各界の著名人などという存在もそうしたメディアのひとつであり、そうしたもを使って提供される情報が意図的に歪められていたとしたら、それは情報操作と呼ばれるに値することなのかもしれません。
しかし、それは今の時代に許されたコマーシャルという手段にすぎないと見ることもできます。
現在、コマーシャルを情報操作とまでいう人は少ないのではないでしょうか。なぜならば、コマーシャルにだまされる人の数が少ないからです。この操作される人の数が多いか少ないかというところは、ある現象を情報操作なのかそうではないのかを見分ける指標になりそうです。
とすると、選挙などといったたくさんの人の生活を大きく変えるようなシーンで同じようなことが行われた場合にはそれは情報操作といえるのでしょうか。
ここのところはかなり難しい判断を迫られるような気がします。選挙民が簡単に操作されてしまったのだとしたら、それはコマーシャルに簡単にだまされるような賢くない存在ということを認めることになってしまいます。コマーシャルにだまされて被害を受けるのは選挙民自身なのだから、それは自己責任だという言い方も成り立つかもしれません。
逆に、この記事を書いている私を含め、誰もが自分の言いたいことを相手に伝えるために、自分の議論を有利に運ぶために、データとして使う情報の取捨選択を始め、多かれ少なかれ情報を「操作」してしまうことは避けられないことだとも感じます。
昔のように、情報を伝達するメディアが一部に占有されていた時代だったならば、情報操作も簡単に出来たかもしれません。しかし、個人では数人に対して直接伝達する手段しか持たなかった昔に比べると、今では我々のように何も持たない存在でも発達したインターネットによって、サイズは小さいといえども誰でもがあっというまに、数十人、数百人、数千人に自分の持っている情報や考えを伝えることができるのです。
こんな小さなブログでさえ、毎日1500人から3000人というとてつもないたくさんの方のアクセスを受ける時代には、情報操作というものもかなりやりにくくなっているのではないかというのが私の実感です。
もちろん、まだまだ簡単に操作される多数の人々がいるのは事実だと思いますが、我々がこのメディアを有効に活用して、中小規模のメディアが網の目にようにめぐらされた新しい情報網を有効に使うことによって、簡単に操作されない「人の海」を作っていけるのではないかと期待しています。
というわけで、情報操作のたくらみは、今の時代ならば打ち破ることができるのではないでしょうかというのが、今日の結論です。もちろん、そのためにはたくさんの人の不断の活動が保証されることが大前提となるのですが。

興味深く読みました。
> 情報操作のたくらみは、今の時代ならば打ち破ることができる
> のではないでしょうか
これには同意します。またそうあって欲しいですね。
先生のおっしゃるように、情報を自分で得る努力をし、自分で判断することが必要でしょうね。
> 情報操作のたくらみは、今の時代ならば打ち破ることができる
> のではないでしょうか
これには同意します。またそうあって欲しいですね。
先生のおっしゃるように、情報を自分で得る努力をし、自分で判断することが必要でしょうね。
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by stochinai
| 2009-03-31 20:58
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