5号館を出て

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ブログでなければできないこと

 寝屋川で小学校の先生が殺された事件が、もう遠い昔のことのようになってしまい、ニュースは連日、人の生命の重さと比べると、どうでもいいようなライブドアとフジテレビのマネー・ゲームの報道ばかりになってしまっている今日この頃ですが、毎日のように起こる新しいニュースに流されている我々の目を覚まさせてくれるような「出来事」がブログの世界で起こっていることを教えてもらいました。

 フラスコさんのエントリー「俺は逃げます。死にたくないから。」と、winter-cosmosさんの「『仰げば尊し』です。」で取り上げられているのですが、ばろっくさんのエントリー「もう、うんざり。」に、寝屋川で殺された先生の元教え子の人がコメントを寄せておられます。

 「はじめまして 昭和61年度 池田第二小学校卒業生の・・・・・」から始まるそのコメントは衝撃的です。なくなった先生と元生徒だったこの方の会話が胸を打ちます。「先生は(俺らがテレビに出るなんて人の不幸が有る時位や俺は嫌いやな~**は人の不幸でテレビに出て嬉しいか?) その言葉を、思い出した時涙が止まりませんでした」と書いてあります。そして、彼は続けます。「この中に先生をやってる方がいらしたら、お願いがございます どうか巣立って行った生徒さんたちが、何年先かに、大人になって、先生の下で、集ったら、(先生のお陰でここまで来れました有難う御座います)と先生の前でお礼が言えるように長生きして下さい 恩師にお礼も言えないこんな悔しい思いは誰にも味わって欲しくないです」とのコメントには、胸が締め付けられました。

 そうなのです。小学校の先生は、子ども達が小学校の間だけ居ればいいというものではないのです。子ども達は自分たちが大きくなって、先生と対等に話ができるようになるまで小学校の先生を必要としているのです。その頃になって先生と一杯飲みながら、ようやく小学校時代の先生の存在の偉大さありがたさを知ることになるのです。「その時まで、先生生きていてくれよ」と言われて泣かない先生はいらっしゃらないでしょう。

 最短でも、子ども達が成長して「先生、死なないでくれよ」と言えるようになるまで、小学校の先生の仕事は続くのです。どこぞの大臣のように、1年2年の結果だけを見て、先生達の力を疑ってしまうと言うような発言をしている人間には、この長い時間をかけて熟成されていく本当の「教育」というものの姿を見ることは決してできないのではないかと思います。

 ただ生きているだけで、何十年後まで生きているだけで教育になるというような壮大な物語を実証するようなこのブログにおけるやりとりを、文科省の大臣や官僚にも是非読んでもらいたいものだと思います。それでもなお、彼らが小学校からの教育について新しいイメージを持つことができないのなら、この国ではすでに「教育」という言葉は死んでしまったことを確認するしかないと思います。彼らにあるのは教育という名の「訓練」でしかないでしょう。

 それと、もうひとつ。たとえ、公務員と言えども命を大切にすることは、最優先の課題だと思います。寝屋川の先生の死を美化する風潮を鋭く突いたガ島通信さんの「そして先生は『神』になった」はとても大切なエントリーだと思うのです。しかし、この国の総理大臣は暴力をふるうキチガイ男から逃げた警察官を「警官が犯人から逃げるとは何事か!」と激怒したらしいです。

 おかしな国です。総理は命を捨てて、犯人を逮捕せよという。そして、先生は命をかけて子どもを守れという声もあるようです。一方で、命をかけて守られるべき子ども達は、「先生、死なないで」と言っています。

 どっちが正しいか、なんてことはそれこそ子どもに聞いてもわかることです。

 命を大切にしてと素直に言える子ども達が、教育を受けることで国のために命を捨てることもいとわなくなることが、正しい教育なのでしょうか。そして、それが普通の国あるいは正しい国あるいは良い国の姿なのでしょうか。私は子ども達の判断を支持したいと思います。
Commented by ハムレット at 2005-03-16 23:37 x
はじめまして。

例えば、先日の愛知県での乳児殺害事件のような状況が有ったとします。親は子どもを必死になって庇うでしょう。下手をすれば死にます。親が死ねば、子どもは悲しみの底に沈むでしょう。庇いきれずに子どもが犠牲になれば、親は十字架を背負うでしょう。運がよければ二人とも助かりますが。難しいですね。同じような状況は動物の世界でもあると思います。

stochinai さん>命を大切にしてと素直に言える子ども達が、教育を受けることで国のために命を捨てることもいとわなくなることが、正しい教育なのでしょうか。

しかし結局、何が正しいのでしょうか。命はなぜ大切なんでしょう。そして死とは、生とはなんなのでしょうか。今回の論議をリンクから一連の BLOG で見ていて、その辺の考察が抜け落ちているような気がします。今の教育は現実的だけを見据えて、人生の影をどこかに置いて来たような気がするのですが?結局今回の加害者は私達がその置いてけぼりにしてきた影の部分に支配されて、悲劇を起してしまったわけですし。

Commented by riverparade at 2005-03-17 00:28 x
>小学校の先生は、子ども達が小学校の間だけ居ればいいというものではないのです。子ども達は自分たちが大きくなって、先生と対等に話ができるようになるまで小学校の先生を必要としているのです。

大学の先生も同じです。
長生きしてくださいね。

生死の問題はいつでも大いに議論されるべき問題と思います。
正しい答え、というのがあるのかどうかもわからないですけど、見つけるまではみんながそれぞれの立場で真剣に考え続けていくことが大切なんじゃないでしょうか。
Commented by えぬ at 2005-03-17 02:23 x
はじめまして。エントリーの後半を読んでいて、気になった点があったのコメントを残します。

>この国の総理大臣は暴力をふるうキチガイ男から逃げた警察官を「警官が犯人から逃げるとは何事か!」と激怒したらしいです。
 おかしな国です。総理は命を捨てて、犯人を逮捕せよという。

「命を捨てて」とは言いませんが、警察官は命を捨てる覚悟を持って犯人を逮捕しなくてはならないと思います。警察官の腰には銃があり、警棒があります。そして、犯人を逮捕するための訓練を受けています。確かに警察官も地方公務員です。ですが、彼らは人の命を守るべき側の人間のはずです。警察官が報道陣とはいえ民間人よりも素早く逃げるのは、まったく「おかしな話」だとわたしは思います。

先生に子供を守る義務があるかどうかは、私にはよくわかりません。ですが、警察官には市民を守る義務があると思います。その意味で先生と警察官を並べて話をしているのは、変だなぁとおもったわけです。以上です。長々とスイマセン。えぬ。
Commented by stochinai at 2005-03-17 12:18
 悩めるハムレットさん、コメントありがとうございました。

>命はなぜ大切なんでしょう。そして死とは、生とはなんなのでしょうか。

 私もこうした大きな問題に対して「ハイ、これです」と答えることはできません。ただ、私は生物学を専門にしているものですので、生物学的に生とは何か、死とは何か、なぜ生き物は生きなければならないのか、ということを考えることは多いです。そうした中から、ひとつのエッセイを書いてみたものがあります。もし良かったら読んでみてください。

http://www.hokudai.ac.jp/bureau/populi/edition13/P04_P05.htm
Commented by stochinai at 2005-03-17 12:23
 riverparadeさん、いつもどうもです。道路ですれ違ったりすることありますか?私、いつもマウンテンバイクですけど。

 確かに「考え続けていくこと」だけが、たった一つの答といえるのかも知れません。答が見つからないからと、考えるのを止めてはダメですよね。答はないかも知れないけど、考え続けること。今の学生の多くが、もっとも嫌いな作業なんですけど、生き続けるためには考え続けないとダメなんでしょうね。
Commented by stochinai at 2005-03-17 13:22
 えぬさん、コメントありがとうございました。何か言われるだろうなあ、と思っていたところに突っ込んでいただきました(^^;)。
 私もあのテレビのニュースを何回か見たのですが、薬物でラリっているような犯人が突然暴れ出したので、報道陣と一緒に警察官も逃げ出したのを見て、なんとなくほのぼのとしたものを感じました。もちろん、あそこで「普通の市民」に危害が及びそうな状況があったのならば、逃げるのは問題だと思いますが、取りあえず「民間人よりも素早く」逃げた姿を見て、思わず笑ってしまいました。
(続く)
Commented by stochinai at 2005-03-17 13:24
(続き)
 で「警察官は命を捨てる覚悟を持って犯人を逮捕」のところですが、現場の警察官の多くはそういう覚悟を持っていると思います。特に、暴力団事務所やオウム真理教のアジトに突っ込む時などは、間違いなく覚悟しているはずです。自衛隊員と同じく、そういうことを期待されている職業であることも間違いないと思います。そこは、えぬさんのおっしゃる通りだと私も思います。
 しかし一方で私は、殺される覚悟を持った警察官や軍人はおそらく相手を殺すこともいとわない覚悟をしているような気がしてならないのです。それは、あまり良いことには思われません。そういう意味で、私は大砲を撃たない自衛隊員や暴漢に追われて逃げる警察官に安心感と親近感を覚えるのです。彼らにも家族や友人がいるでしょうから、やっぱり死んでもらいたくはないと思うのです。
 使命とかよりも、感情のお話でした。また、ご批判をよろしくお願いします。
Commented by riverparade at 2005-03-17 17:46 x
>道路ですれ違ったりすることありますか?私、いつもマウンテンバイクですけど。

ありますよ~。
というか、実は同じプロジェクト?に関係してたりしてます。
時々、宴会等でご一緒してたり、してなかったり・・・

何もかもを善悪、正誤のふたつにひとつ!どちらかに決めろ!という感じで判断したくはないのですが、もし、どちらかに決めなければならないときに、「なぜ」そちらを選ぶのか。そのことをいつも考えるようでありたいなと思います。

人の命が大切な理由を見つけられない人には、きっと他人の命の大切さもわからないでしょう。






Commented by riverparade at 2005-03-17 17:48 x
ごめんなさい。
最後の一文、ちょっと間違えました。

自分の命が大切な理由を見つけられない人には、きっと他人の命の大切さもわからないでしょう・・・

でした。
Commented by ばろっく at 2005-03-17 21:54 x
トラックバックありがとうございました。

件のコメントを読んで、生徒には「命を大切にしなさい」と話すのに、自分自身の命は軽く考えていたように感じました。でもそれではいけませんね。「命の大切さを教える」というのは、ここ最近の教育課程でも重要視されている項目でありながら、すっかり見落としていたような思いです。

riverparade氏のコメントとかぶりますが、自分の命を大切にできない人間が、他人に命の大切さを教えられようはずがありません。

ただ、文科省からは教員がホウキなどで不審者と戦っていたりする挿絵のある侵入者対応マニュアルが配られ、教育委員会からは話題の「さすまた」の使い方DVDを見せられたりしているのが現実です。

義務かどうかは別にして、実際に子どもたちに危険が迫ったら体を張らないと仕方なかろうとも思います。

なんとも複雑な気分です。

それはそうと、「教育は百年の計」とは、私自身のBlogでも度々使う言葉ですが、その一つの形にこんな風に出会うとは思ってもみませんでした。Blogって、面白いモノですね。
Commented by stochinai at 2005-03-17 22:30
 riverparadeさん
>というか、実は同じプロジェクト?に関係してたりしてます。
 そうだったんですか、、、、。
 じゃあいろいろとお世話になってるばかりではなく、ご迷惑もかけてますね。すみません。
 これ以上、詮索はいたしませんので、これからもよろしくお願いいたします。
Commented by stochinai at 2005-03-17 22:37
 ばろっくさん。いつも、勉強させていただいています。
 私は自分の命が惜しくて仕方がないものですから、どうやったらそれを守れるかと考えて、他人の命を大事にすることしかないという結論に達しただけです。
 逆に、自分の命なんかどうでも良いと思っている人には、どうして人を殺してはいけないかということを説明することはとても難しい気がします。
 自分の命がなぜ大切かを、小さい時から考えるようにさせていくことが大切なことだと思います。
 まとまりませんが、、、、。
Commented by ぢゅにあ at 2005-03-18 14:39 x
7才の娘はパパに年をとってほしくない、と突然泣き出しました。
老けたパパはきらいかしら?と能天気な母は思ったのですが、
答えは意外にも「人間は年をとったら死ぬから。」
死に対する恐怖、命の大切さを彼女なりに理解しはじめたようです。
Commented by stochinai at 2005-03-18 14:57
 自分たちがコントロールできないものに対する恐怖心を持つことは、とても大切なことだと思います。見えない神や自然に対して適切な恐れをもっていると、人は他人やものに対して謙虚に振る舞うことができます。
 そうしたことが自然にできる人を作ることこそが、教育のひとつの目的だと思います、ぢゅにあさんのところでは家庭教育がうまくいっているようですね。
Commented by ハムレット at 2005-03-18 23:22 x
stochinaiさん>そうした中から、ひとつのエッセイを書いてみたものがあります。もし良かったら読んでみてください。

エッセー、拝見させていただきました。ありがとうございます。私は今はSEですが、学生時代は生物専攻で、学生実験でウシガエルをばらした事もありました。確かに、生命が次の世代の為に、資源を譲るというのはその通りですね。昔、中国の孝養思想というのは、人間は本能として、子どもをいたわるが、その逆は無い、だから理性を以って、子⇔親のバランスを保つためのものだと言う説を読んだがあります。心をもつと、そうした可能性もでてくるのですが、どのように考えれば良いのでしょうね。
Commented by ぢゅにあ at 2005-03-19 09:12 x
いえ、いえ家庭教育はこれからが正念場だと思ってます。
いつも言葉足らずだなあ、と思うのですが
娘の言動から、死に対する恐怖や命の存在について親の努力というより
子供(かなり小さい頃から)は本能的に身につけるものなのだな、と思ったわけです。
つまりは、よっぽど劣悪な環境にでも育っているのでなければ
芽生えていたはずのこうした感覚が、成長とともに失われていくことが
問題なのではないかと。
ご存知かもしれませんが、あるニュースで、小学生の18%程(あいまいです。)は人は死んだら生き返ると信じているそうで、驚くことに中学生ではその率が若干高くなってるとのことですした。
まあ、中学生くらいならひやかし回答もあるかな、と
半信半疑ではあるのですが、それにしてもリセットできると本当に信じている子供がいるなら、かなり恐ろしい。
by stochinai | 2005-03-16 20:43 | つぶやき | Comments(16)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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