2009年 06月 06日
未熟なDNA鑑定で無期懲役判決を出したことに対する科学者の責任
あちこちで話題になっているので、もはや付け足すことはほとんどないのですが、私たちと研究領域が近いところで使われるDNA鑑定が「決め手」のひとつで判決が確定していたこと、さらにそれが新しい鑑定技術の発展でひっくり返されたという最近のニュースに対しては、やはりそれなりに衝撃を受けております。
この事例では、悪名高き日本の警察の「決めつけ捜査」と、「どんな容疑者でも絶対に落とせる」というこれでもかという圧迫取り調べ技術による自白だけではなく、それを科学的にバックアップするものとして登場したDNA鑑定によって最高裁で無期懲役が決定していたということがキーになっています。
それまでも、恣意的な捜査と強引な自白の強要、さらには証拠のねつ造でえん罪を繰り返してきた日本の警察にとっては、「科学捜査」すらも彼らの「直感」を補完するための新しい道具のひとつに過ぎなかったに違いありません。それまでも、平気で非科学的な証拠のねつ造をやっていた彼らには、DNA鑑定の意味を科学的に評価できていなかったことは想像に難くないのですが、そういう警察に利用された科学者の側の問題にため息が出る思いを禁じ得ません。
警察だけではなく、文系出身者の多い検察や裁判所も実は科学にそれほど強くなく、最先端の科学技術を駆使した証拠だと言われてしまうと、ある程度盲目的に信じさせられてしまっていたという傾向もなかったとは言えないでしょう。
DNA鑑定が導入された当初は、信頼性の高い個人を同定する新しい武器として、大いに喧伝されたものでした。さらに、その新しい技術を使って「犯人」が同定される度にニュースになっていたような記憶があります。しかし、実際にその技術を扱っていた科学者にとっては、その技術はそれほど決定的なものではなく、ある程度の精度しかない上に、調べる遺伝子の数が限られていたため数百人から千人に1人くらいは同じ型をもった人がいることは承知のことだったはずです。
冷静に考えると、初期のDNA鑑定技術による個人同定は指紋よりもはるかに劣るものだったわけで、その判定が先端技術というだけの理由で過度に尊重されることの危険性をもっとも良く理解できるのはその技術を使い判定した科学者だったはずです。1000人に1人程度のユニーク性ということは人口10万人くらいのところには同じ型を持った人が100人くらいもいることになります。データベースがありませんがから、そのすべての人について捜査が行われたわけではないのはもちろんで、たまたま警察が「目を付けた」容疑者のDNAを調べた結果が一致したからといっても、それがそれほど過大な意味を持たせることが危険だということはわかっていたはずです。
報道からだけでは細かいことが良くわからなかったのですが、今回の事例では当時の技術では「同じ型」と同定されたものが、現在の新しい技術で調べ直すと細かい違いがたくさん検出されて、型が違うと判断されたということだと思われます。最近の新しい技術を使うと、遺伝子が100%同じ一卵性双生児以外は地球上のすべての人の違いを見分けられるといいます。この技術で調べ直した結果、犯人と容疑者が別人と判定されたので、最高裁判決も覆されざるを得なくなったということです。
そういうことが明らかになった今、当時行われたDNA鑑定はすべてが調べ直されなければならないということを意味していると思います。
警察や検察、裁判所が、自主的に自分たちの行った決定を見直すことはなかなかやらないような気がしますので、そこに携わった科学者から当時の技術の限界を告白するとともに、新しい技術で調べ直すことを求めることが「科学者の良心」というものではないでしょうか。
この事例では、悪名高き日本の警察の「決めつけ捜査」と、「どんな容疑者でも絶対に落とせる」というこれでもかという圧迫取り調べ技術による自白だけではなく、それを科学的にバックアップするものとして登場したDNA鑑定によって最高裁で無期懲役が決定していたということがキーになっています。
それまでも、恣意的な捜査と強引な自白の強要、さらには証拠のねつ造でえん罪を繰り返してきた日本の警察にとっては、「科学捜査」すらも彼らの「直感」を補完するための新しい道具のひとつに過ぎなかったに違いありません。それまでも、平気で非科学的な証拠のねつ造をやっていた彼らには、DNA鑑定の意味を科学的に評価できていなかったことは想像に難くないのですが、そういう警察に利用された科学者の側の問題にため息が出る思いを禁じ得ません。
警察だけではなく、文系出身者の多い検察や裁判所も実は科学にそれほど強くなく、最先端の科学技術を駆使した証拠だと言われてしまうと、ある程度盲目的に信じさせられてしまっていたという傾向もなかったとは言えないでしょう。
DNA鑑定が導入された当初は、信頼性の高い個人を同定する新しい武器として、大いに喧伝されたものでした。さらに、その新しい技術を使って「犯人」が同定される度にニュースになっていたような記憶があります。しかし、実際にその技術を扱っていた科学者にとっては、その技術はそれほど決定的なものではなく、ある程度の精度しかない上に、調べる遺伝子の数が限られていたため数百人から千人に1人くらいは同じ型をもった人がいることは承知のことだったはずです。
冷静に考えると、初期のDNA鑑定技術による個人同定は指紋よりもはるかに劣るものだったわけで、その判定が先端技術というだけの理由で過度に尊重されることの危険性をもっとも良く理解できるのはその技術を使い判定した科学者だったはずです。1000人に1人程度のユニーク性ということは人口10万人くらいのところには同じ型を持った人が100人くらいもいることになります。データベースがありませんがから、そのすべての人について捜査が行われたわけではないのはもちろんで、たまたま警察が「目を付けた」容疑者のDNAを調べた結果が一致したからといっても、それがそれほど過大な意味を持たせることが危険だということはわかっていたはずです。
報道からだけでは細かいことが良くわからなかったのですが、今回の事例では当時の技術では「同じ型」と同定されたものが、現在の新しい技術で調べ直すと細かい違いがたくさん検出されて、型が違うと判断されたということだと思われます。最近の新しい技術を使うと、遺伝子が100%同じ一卵性双生児以外は地球上のすべての人の違いを見分けられるといいます。この技術で調べ直した結果、犯人と容疑者が別人と判定されたので、最高裁判決も覆されざるを得なくなったということです。
そういうことが明らかになった今、当時行われたDNA鑑定はすべてが調べ直されなければならないということを意味していると思います。
警察や検察、裁判所が、自主的に自分たちの行った決定を見直すことはなかなかやらないような気がしますので、そこに携わった科学者から当時の技術の限界を告白するとともに、新しい技術で調べ直すことを求めることが「科学者の良心」というものではないでしょうか。

はじめまして。
まず最初は「他の証拠との矛盾がないかどうか」でもって、再鑑定の対象をスクリーニングすべきだと思います。
僕の考えでは、「科学的データ」の重みが、他の証拠に比べて度を過ぎて大きいのが問題の根なのではないかと思います。どんなに精度が上がっても、試料の混入や取り違えの可能性は減りません。そういう意味では、他の証拠との矛盾がある場合、データのほうの妥当性を検証する必要は常にあるのであり、これは学術での通常の手続きであるとともに、一般に裁判の証拠の取り扱いとしても普通のことなのではないかと思います。
まず最初は「他の証拠との矛盾がないかどうか」でもって、再鑑定の対象をスクリーニングすべきだと思います。
僕の考えでは、「科学的データ」の重みが、他の証拠に比べて度を過ぎて大きいのが問題の根なのではないかと思います。どんなに精度が上がっても、試料の混入や取り違えの可能性は減りません。そういう意味では、他の証拠との矛盾がある場合、データのほうの妥当性を検証する必要は常にあるのであり、これは学術での通常の手続きであるとともに、一般に裁判の証拠の取り扱いとしても普通のことなのではないかと思います。
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現実的対応としては、おっしゃるとおりだと思いますが、私は重罪事件でDNA鑑定が決め手となっているものは、すべてやり直しをやるべきだと考えます。
そして、今回の事例の反省として責任を取るという意味でも、被疑者(被告・受刑者)が否認しているものは、たとえ他の案件に矛盾がないとしても「権利」として、再鑑定を受けさせるのが妥当なのではないでしょうか。
そして、今回の事例の反省として責任を取るという意味でも、被疑者(被告・受刑者)が否認しているものは、たとえ他の案件に矛盾がないとしても「権利」として、再鑑定を受けさせるのが妥当なのではないでしょうか。

>当時の技術では「同じ型」と同定されたものが、現在の新しい技術で調べ直すと細かい違いがたくさん検出されて、型が違うと判断されたということだと思われます。
これは事実ですか?
DNA鑑定の専門家が当時の警察の技術が極めて低かったと言っているという記事をどこかで見たような気がするので、単に当時の鑑定がいい加減だったということだと思っています。警察はそう認めたくないので当時の「方法」のせいにしていると思います。当時の方法でもちゃんと行えば相当な確率で判定できるはずです。
微量な試料をPCRで増幅するわけですから、相当気をつけてやらないとコンタミでも同一と判定されてしますと想像します。
警察の鑑定には大いに問題がありそうですが、この問題で科学者の責任が云々というのは見当はずれでは?
これは事実ですか?
DNA鑑定の専門家が当時の警察の技術が極めて低かったと言っているという記事をどこかで見たような気がするので、単に当時の鑑定がいい加減だったということだと思っています。警察はそう認めたくないので当時の「方法」のせいにしていると思います。当時の方法でもちゃんと行えば相当な確率で判定できるはずです。
微量な試料をPCRで増幅するわけですから、相当気をつけてやらないとコンタミでも同一と判定されてしますと想像します。
警察の鑑定には大いに問題がありそうですが、この問題で科学者の責任が云々というのは見当はずれでは?

確か、今回の決定に至った再鑑定では、当時と同じ技術でも鑑定していて、それを使ってもなお、型が異なる結果になったという報道があったと思います。
ですので、当時の鑑定技術(technology)そのものの精度が低かったことに加えて、警察側の技術(technique)もレベルが低かったという二重の精度の低さがあったということだと思います。
ですので、当時の鑑定技術(technology)そのものの精度が低かったことに加えて、警察側の技術(technique)もレベルが低かったという二重の精度の低さがあったということだと思います。

今もって解決されていない政府見解もなんとかならないのでしょうかね。。。
cf. ttp://shinka3.exblog.jp/1779707
cf. ttp://shinka3.exblog.jp/1779707
元助手さん。この件に関しては、ニュースなどを検索してもなかなか細かい技術的なことが書かれた記述を発見することはできません。それでえ、私の書いたことも推測に基づいている部分がありますので、「これは事実ですか?」と言われても少々とまどいます。ただし、こうした科学鑑定にお墨付きを与えるのが科学者という意味では論旨を変更する必要を感じません。また、科学警察研究所で、DNA鑑定などをしているのは「科学者」です。
http://www.nrips.go.jp/jp/first/section3.html
通りすがりさんのおっしゃるように「旧技術で再現試験をしても型が異なる結果になったという」ことならば、ますます責任は逃れられませんね。
Masaoさんが指摘するように、横田めぐみさんの遺骨をめぐるDNA鑑定では、明らかに「科学者」が好ましくない役割を担ったと言えますね。
http://www.nrips.go.jp/jp/first/section3.html
通りすがりさんのおっしゃるように「旧技術で再現試験をしても型が異なる結果になったという」ことならば、ますます責任は逃れられませんね。
Masaoさんが指摘するように、横田めぐみさんの遺骨をめぐるDNA鑑定では、明らかに「科学者」が好ましくない役割を担ったと言えますね。

>科学警察研究所で、DNA鑑定などをしているのは「科学者」です。
そういう意味ならわかりました。
でも普通は「科学者」というと大学の研究者のような個人の責任で研究をしている人を指すものだと思いましたので。
横田さんの遺骨(とやら)の場合は確かに鑑定時は大学の人ですね。
そういう意味ならわかりました。
でも普通は「科学者」というと大学の研究者のような個人の責任で研究をしている人を指すものだと思いましたので。
横田さんの遺骨(とやら)の場合は確かに鑑定時は大学の人ですね。

アメリカでもいわゆる「科学的証拠」に基づく判定の信憑性について問題が噴出し、見直しを求める声があがっています。特に陪審員制度のアメリカでは「科学的証拠」の比重が極めて高いようです。以前私のブログでも紹介させてもらったのですが、科学捜査をテーマにしたドラマ「CSI」などと違い、実際に行われていることは科学的とはほど遠いというような内容をNPRで聞いたことがあります。こちらで聞けます↓
ttp://www.onpointradio.org/2009/02/dismal-science?autostart=true
ttp://www.onpointradio.org/2009/02/dismal-science?autostart=true

科学コミュニケーションとかいうならこういうことをちゃんと掘り下げてもらわないと困りますよね。研究の宣伝ばかりじゃなくて。

理論的に千に1の確率でクロとされたけど実は間違い、ということが何件も起きるのなら、千に一の確率がそもそも間違いだったのか、実験の精度自体が悪かったのかどちらかで、真犯人と間違って疑われた人が偶然に千に一のタイプだったと考えるよりは自然に感じます(もちろんその可能性もあります)。
横田さんの遺骨を鑑定した人は警察に転職していますし、挙げられた記事の教授は警察の顧問もされているようなので、警察の関係者と見たほうが良いようです。
メディアは警察からの情報を批判精神なくそのまま書きますので私のような意地悪い見方が正しいことが多いと思いますよ。
横田さんの遺骨を鑑定した人は警察に転職していますし、挙げられた記事の教授は警察の顧問もされているようなので、警察の関係者と見たほうが良いようです。
メディアは警察からの情報を批判精神なくそのまま書きますので私のような意地悪い見方が正しいことが多いと思いますよ。


科特研でDNA鑑定をしているのは「技官」であって「科学者」じゃありません。
技官と科学者の必要スキルは似ているけれども、意識と行動原理がまったく違います。
技官は官僚原理に基づき行動しますから、無誤謬の原則が適用されます。つまり後から自分の出した鑑定が間違いとされることは絶対に許されません。
その原理により最近の鑑定ではサンプルを全量消費します。再鑑定不能にしてしまえば間違いが見つかるリスクはないのですから。
追試を忌避する、この点でまったく科学者とはいえない人種なのです。
技官と科学者の必要スキルは似ているけれども、意識と行動原理がまったく違います。
技官は官僚原理に基づき行動しますから、無誤謬の原則が適用されます。つまり後から自分の出した鑑定が間違いとされることは絶対に許されません。
その原理により最近の鑑定ではサンプルを全量消費します。再鑑定不能にしてしまえば間違いが見つかるリスクはないのですから。
追試を忌避する、この点でまったく科学者とはいえない人種なのです。

足利事件では古い技術だったから間違いがあったけれども、現在のDNA鑑定なら確実に個人を同定できるとするのは誤りです。
一般的に現在のDNA鑑定が別人なのに一致する確率が数千兆分の1とかコケ脅ししてますが、ある地域に限定、親族に限定すれば、DNA型の分散が小さく、別人でも一致するのは数万から数千分の1ぐらいの確率になります。
DNA鑑定はものすごく細かく分類した血液型鑑定みたいなもので、「不一致=確実に別人」とは言えても、一致したからといって同一人物とは言えません。せいぜい同一人物としても矛盾がないと言えるぐらいです。
その反面、指紋は有力ですDNA型が完全一致する一卵性双生児やクローンでも指紋は異なります。別個体で指紋が一致した例は現在でもまだ見つかっていません。
一般的に現在のDNA鑑定が別人なのに一致する確率が数千兆分の1とかコケ脅ししてますが、ある地域に限定、親族に限定すれば、DNA型の分散が小さく、別人でも一致するのは数万から数千分の1ぐらいの確率になります。
DNA鑑定はものすごく細かく分類した血液型鑑定みたいなもので、「不一致=確実に別人」とは言えても、一致したからといって同一人物とは言えません。せいぜい同一人物としても矛盾がないと言えるぐらいです。
その反面、指紋は有力ですDNA型が完全一致する一卵性双生児やクローンでも指紋は異なります。別個体で指紋が一致した例は現在でもまだ見つかっていません。

今回の場合で言えば、DNA資料はどのような環境でどのように保管されていたのでしょうか。天邪鬼的な観点から言えば、その点が重要な気がします。この担当の弁護士さんには頭が下がりますが、資料の妥当性が検討されたことがあるのでしょうか。
敢えて言えば、完璧な人などいないし、完璧な法も、完璧な科学も存在しない。その後の対応をどうするかの問題。厳しいい方をすれば、自由主義、民主主義を運営していくためのコストです。警察の取調べに瑕疵があったとしても、認めたことに対する責任はどの程度非難されるべきなのか、その辺の観点も抜け落ちていると感じます。
敢えて言えば、完璧な人などいないし、完璧な法も、完璧な科学も存在しない。その後の対応をどうするかの問題。厳しいい方をすれば、自由主義、民主主義を運営していくためのコストです。警察の取調べに瑕疵があったとしても、認めたことに対する責任はどの程度非難されるべきなのか、その辺の観点も抜け落ちていると感じます。

「東の足利・西の飯塚」とDNAで幼女殺害事件の容疑者が検挙されたそうです。
「西の飯塚」の容疑者は、ずっと無実を主張していましたが死刑判決が確定し、先日死刑になってしまいました。再鑑定して無罪となっても失われた命はもどってはきません。
「死刑制度」というものについて、考えさせられます。
「西の飯塚」の容疑者は、ずっと無実を主張していましたが死刑判決が確定し、先日死刑になってしまいました。再鑑定して無罪となっても失われた命はもどってはきません。
「死刑制度」というものについて、考えさせられます。

問題は、技術が古かった、とかいうハナシではなく、DNA型は血液型と同じで、異なっておれば直ちに無罪の証拠となるが、一致していた場合も「有罪の証拠にはならない」ということではないですか? 和歌山のカレー事件も同じ構造でしょう。ヒ素の型が一致した、というだけ。状況証拠にしか過ぎません。 科学者が裁判批判をまったくやらないことの怖さ。
by stochinai
| 2009-06-06 23:59
| 科学一般
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Comments(17)