5号館を出て

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宗教の力

 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が亡くなられました。

 世界中から死を悼む信者の方々の姿が報道されてきています。カトリックに限らず、同じような状況が起こって、キリスト教の各派、イスラム教やユダヤ教などなど各国の宗教関係者の姿が報道されるたびに、日本にはこういう形での大規模な宗教は存在していないと感じます。

 日本でも時として、問題を起こすオカルト的な小さな「宗教集団」が類似の行動パターンを示すことが報道されることがありますが、巨大な宗教宗派がここまでどっぷりと宗教を中心とした生活をしている様子を目撃することはほとんどありませんし、報道されることもないと思います。

 比較的大きなカルト集団だった、かつてのオウム真理教を考えてもその規模はあまりにも小さく、日本で最大規模の政治力を持っていると考えられる創価学会にしても、国をまとめ上げるほど大きくはなれません。

 人によっては日本は天皇を中心とした神道国家であると思っていらっしゃるかもしれませんが、我々の日常生活はとても神を中心にして行われているとは思えませんし、昭和天皇が亡くなられた時でさえ、いま世界各国のカトリック信者によって示されているような、肉親を失ったような悲しみに打ちひしがれた多数の国民(特に若い人)が出現した記憶はまったくありません。

 もちろん、私は宗教を中心として国家を作ることが良いことだとは思っていませんし、数々の戦争と悲劇のもとになっている、いわば諸悪の根元であるとさえ思っています。

 しかし、たかがひとつの宗教の最高権力者にすぎないたった一人の人間の死に対して、あれほど素直に帰依している姿というものが現実に存在し、それが場合によってはその人のために死をもいとわない行動を生み出すということは、人間というものを考えるときに、深刻に受け止めなければならないことだと思います。

 第二次世界大戦中に日本は神道を国教と定め、天皇を国教と国政の最高権力者として国の制度を定めていたと聞きますが、神道が真に国民全体に受け入れられていたのだとしたら、アメリカの占領や政教分離といった法的な措置があったとしても、人々は簡単に宗教を捨て去ることはなかっただろうと思います。それは、この科学・技術万能の時代におけるイスラム教・キリスト教・ユダヤ教を見ていると強く感じることです。

 つまり、日本にはもともと国政よりも上位にくるような「宗教」などというものはなかったのではないでしょうか。国家神道はいわば法律のようなものだったにすぎず、人々の心の中まで深く入り込んで、生活と一体化することはなかったのだと思います。

 宗教が欲しいとかいらないとか、そんなことではなく、彼と我のこの違いはいったい何なんだろうと、やっぱり考えてしまいます。なぜ我々は宗教を持っていないのか、あるいは、なぜ日本には国をまとめるような宗教が育たないのか、ということは真剣に考えてみてもよいことだろうと思います。

 別に日本独特の宗教が支配的になる必要はなく、キリスト教やイスラム教、もちろん現実としてかなりポピュラーになっている仏教が、日本全体をひとつにまとめるくらいの力を持つということもあり得るシナリオの一つだと思います。しかし、我々の生活と宗教行事を比べてみると、季節の行事は神道のものが多く、結婚式は神道とキリスト教、葬儀は仏教などと個々の家庭においてすらこれらの他宗教状態が混在していることは、例外的なことではないと思います。

 つまり、我々はこれらの行事を特定の宗教に帰依することなく利用しているだけということになります。

 これは、いわば不謹慎な態度だと思いますが、かなり多くに人にとってその不謹慎さこそが、心を自由にしておいてくれる日本の住みやすさにつながっているような気もします。

 逆に、そのいい加減さが日本をダメにしていると考えている人もいて、そういう人の中に、日本と日本人のアイデンティティを持つために、しっかりとした国体と国家宗教が必要だというふうに考えているのかもしれません。

 私個人としては、宗教に支配されない今の日本は住みやすいのですが、今回のようなニュースに接するたびに、どうして日本が無宗教な国なんだろうと考えてしまうのです。
Commented by ハムレット at 2005-04-04 03:31 x
こんばんわ。

興味深いご意見ですね。私も思うところがあるので、トラバさせていただきます。
Commented by stochinai at 2005-04-04 13:37
 ハムレットさん、TBありがとうございました。
 法王の死去に関して私が思ったことなどは薄っぺらですが、ハムレットさんのエントリーには考えさせられることが多いです。
 これからも、よろしくお願いします。
Commented by ぢゅにあ at 2005-04-05 00:08 x
New York TimesのWeek in Reviewの一面にヤンキーズスタジアムでロっクスターのような歓迎を受けた法王の写真がありました。
この写真を見て思ったのですが、法王の存在というのはこの28年間、一宗教の指導者以上の意味があったようです。彼のカリスマ性、揺ぎない信念に多くの人が心のよりどころを求めたのでしょう。ある意味、美空ひばりが多くの日本人に惜しまれて亡くなったような、父が長島の引退式で号泣したような感覚に近いのでは、と思います。
日本人は無宗教なのではなく、無自覚な宗教感というか、うまく言えないのですがあると思います。自分の幸せは「お陰さま」であり、「バチあたり」なことはしない、など見えないものに対して畏怖の念を抱き、謙虚であろうとする日本人の意識そのものがすでに宗教的です。
Commented by stochinai at 2005-04-05 22:40
 そうでしたね。アメリカでは彼はビートルズみたいな、ジョン・ポール2世と呼ばれるスーパースターでしたね。
 アメリカからだと、まだ日本には八百万の神があらゆるものに宿っているのが見えるのかもしれませんね。我々にはもう見えなくなって、そうしたものに対する畏怖の感情に由来する謙虚さが失われているようにも思われるのですが、そうでもないんでしょうか。
 前に学会で沖縄に行って、あ~この島にはまだ神様がいると感じた時、本土の神はもう死んだと感じた私です。
Commented by ハムレット at 2005-04-06 00:37 x
トラックバックありがとうございました。普段トラックバックされることのない、静かな BLOG ですので、正直うれしいです。こちらこそ今後ともよろしくお願いいたします。
by stochinai | 2005-04-03 23:59 | つぶやき | Comments(5)

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