5号館を出て

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筑紫哲也と茨木のり子

 去年の10月末に出た週刊朝日MOOK「筑紫哲也」をようやく最近読み終わりました。たくさんの人の寄稿やインタビューそれに筑紫哲也自身の書いたものや話したことインタビューなどの寄せ集めで、続けて読むにはあまりにも雑多な内容で、しばらく放り出してはまた寝る前にちょっと読み、というようなことを繰り返していたのですが、とりあえず全部読みました。

 内容に関しては、特に感想というほどのこともないのですが、なぜ日本のマスコミがあんなに偉いのか(偉そうにしているのか)ということの理由がわかったような気がしたのが「収穫」と言えるかもしれません。この本を読んで感じたというか、最後の方に載っている日記「残日録(抄)」の中にちょっと出てきた文章でなんとなく納得できた気がしたのですが、要するに戦後の日本は官僚が動かしてきたということの他に、日本という国に政治というものがあったとするならば、自民党の政治家はその政策をほとんどすべてを大手マスコミから借りたアイディアを丸呑みにする形でなんとか乗り切ってきたのではないかということです。

 あくまでも、これはなんの証拠もなく私がひとりで納得したことなのですが、あらゆる政治家に指図をするような大手マスコミの記事と日本を政治家の自由にさせまいという意思すら感じられる検察・司法の官僚組織に動きをみていると、この二つの存在こそが日本の政治の黒幕であり、政治家はその間で踊らせれている傀儡にすぎないという印象もあながち的はずれなことではないのかもしれないと思えてきました。

 というわけで、この「日記」の部分を読むだけでもこの本を入手する価値があると思ったのですが、残念ながらAmazonでは、すでに品切れです。

筑紫哲也 (週刊朝日MOOK) 中古のみ

 幸いなことに、検索してみると、まだ入手できるネット書店はいくつかあるようです。

 そして、この本で得た収穫の2つめが、茨木のり子の詩「自分の感受性くらい」に出会ったことです。以前にも出会ったことがあったかのもしれませんが、今回は心に響きました。

自分の感受性くらい
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ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ


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「自分の感受性くらい」(昭和52)所収
 この詩集はもちろんアマゾンで手に入ります。

 自分の感受性くらい

 詩集などというと、私は今までにリルケと中原中也と金井美恵子のものくらいしか買った記憶がありませんが、この詩を繰り返し味わうためだけにでも買う価値があると感じさせられてしまいました。もちろん茨木のり子という名前だけは知らないわけではありませんでしたが、調べてみるとネットにも興味深いリンクが見つかります。

 たとえば、彼女の詩の中でもっとも有名だと言われているのが「わたしが一番きれいだったとき」という作品で、その「反戦的」な内容から多くの教科書で取り上げられているということなのですが、その詩を題材にしたいかにもNHKらしい番組がYouTubeに載っています。



 これを見ると、彼女よりも少し年下だった筑紫哲也は彼女の詩の中に自分の生きた時代を見つけた気分だったのかもしれないと想像したりもします。

 茨木のり子の詩を使ったもうひとつの収穫がYouTubeで見つかります。彼女の1999年の詩集「倚りかからず」の中に採録された「水の星」という詩が、彼女がすでにが亡くなった後に月探査機かぐやが撮影した「地球の出」の映像を背景に朗読されたものです。朗読は吉岡秀隆。



 こんなふうに、知識を広げていくことができるのがネット時代の醍醐味ですね。
by stochinai | 2010-03-22 22:18 | つぶやき | Comments(0)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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