5号館を出て

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素晴らしいAO入試

  講談社現代新書 大塚 英志 (著) 「大学論──いかに教え、いかに学ぶか」を読み終わりました。
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 大学論──いかに教え、いかに学ぶか (講談社現代新書)

 最初のうちは、著者の勤務するのが「まんがをおしえる大学」であり、そこに集まるまんがを描くという才能はそこそこにもっているものの、世間的に言うといわゆる「学力不足」の学生たちの日常と、彼らにどうやってプロとしてやっていけるだけのまんがを描くスキルを教えていくのかという悪戦苦闘記が続き、なんだか「熱血先生奮戦記」みたいな印象を受けたため、おもわずタイトルを見直してしまったほどでしたが、読み進むにつれ、これは我々のようないわゆる「普通の大学」にいる人間が忘れかけた、あるいは忘れてしまった、あるいは最初からなかった「ほんとうの教育」について書かれた本であることがヒシヒシと伝わってくるものでした。

 思わぬ拾いものもありました。おたくの定義です。私の記憶でも「おたく」は「ひきこもり」とはなんの関係もない語源をもっていたはずですが、最近はもうそんなこともどうでもよくなってしまうくらい、家にこもるのが「おたく」というイメージが蔓延していますが、ここに正しい定義があります。
「おたく」は「お宅」で、家に引きこもっているイメージから付けられたともっともらしく論じている人を見たことがあるが、そうではなくて「おたく」の由来はコミケに集まる人々が二人称として「おたく」をよく使ったからだ。
 そうなんです。すっきりしました。

 と、横道にそれてしまいましたが、この本がタイトルどおりの「大学論」になっていると感じ入ったところが、「第一二章 AO入試は下流なのか」です。

 我々の大学でもAO入試が行われていますが、きわめて評判が悪いのです。

 前にここでも書きましたが、国立大学でもAO入試を採用しているところが多いものの、それによって「期待通りの人材」を集めることができなかったとしてとり止めるところも出てきており、入試スタイルとしては最悪の評判がたっています。どうやら私大でも事情は似ているようです。(もっと、ひどい?)
 AOというとレベルの低い学生が入ってくる諸悪の根源のように言われていて、AOを廃止することが一流の私学の証みたいな空気があり、関西圏でも、とうとうどこどこの大学がAOを始めた、みたいな言い方で、さも苦渋の選択をしたように語られる。
 しかし、彼は続けます。
 けれどぼくにとって、AOはたぶん、「まんがを教える大学」にとってはベストの入試だと思う。というよりも、AOはちゃんとやればいい入試になる、とずっと思っていた。
 と、要するにAOがダメなのは、試験をする側が悪いのだというのです。私が前に書いた時には一般的なことしか書けませんでしたが、大塚さんは自分で素晴らしいAOをやって見せてくれています。

 参考 【反省】AO入試廃止の原因を学生に求めるのは無責任です

 大塚さんのところでは、昨年度から「まんが」の領域だけが独立して単独学科になったため、思う存分のAO入試ができたということで、ここは大きなポイントだと思います。AO入試にかける時間だけはそれまでと同じ1日半でしたが、実態が全然違うことになったようです。
 そもそも一日半かけてじっくりと作業をさせ、それを観察し、さらに面接で一対一で話してみる、というAOの入試のフォーマットそのものに問題があるとは思えなかった。問題があるとすればAOの場合、入試のやり方を大学の側がいくらでも手を抜ける、ということだ。
 これを読んで、背筋に冷たいものが流れない人はAO入試をやった経験が無い人だと思います。私は流れました。
さて、今回のAO入試は・・・三〇頁ほどの絵本を一日かけてつくってもらうというものだ。

一日といっても午前中に一時間、午後に四時間の計五時間で絵本を一冊、一人一人が自力で関させる、というのはちょっとハードルが高いかな、とは正直思った。

ところが、午前中の一時間で丸一冊、つくり終えた受験生が出てきてしまった。

なんというか、その子の中で「ものを描くこと」のスイッチが入ってしまった、としか言いようがない。

その一日のうちに自然に三十数名の受験生の作風と本人の顔はしっかりと頭にインプットされてしまった。(AO入試のもうひとつの利点です:stochinai)

作品を回収して改めて思ったのが作品のレベルの高さである。はっきりいって田舎の私大の入試レベルが突然、上がることはない。何が起きたのかといえばつまり、入試の課題のハードルを上げることでかえって、一人一人のレベルが引っ張り出されているのではないか、とぼくたちは話し合った。
 今までの「業績」として過去の作品や落書きノートを持参してもらって行った翌日の面接の場で、興味深いことが発見されます。
落書きノートの絵や画塾で受験用に描いたイラストをはるかに上回るクオリティの絵本を大抵の子が描いていることがわかる。つまり受験生のレベルがUPした、というより、受験生の可能性が思った以上に引き出せたのであり、つまり、その子たちの「伸びしろ」がはっきりと見える。
 ほかの「まんがを教える大学」でもそうらしいのですが、我々も入試では「最初からできる子」を選ぼうとしがちですが、大塚さんは「それではつまらない」と言います。せっかくAOという生身の受験生と向かい合って入試ができるのですから、他の入試と同じ基準で「放っておいてもやっていけるような学生」を選ぶのだったら意味がありません。彼のAO入試に対するスタンスには脱帽しました。

 「この子を育てたらこうなるよね、というイメージが一人一人に沸いてきてしまった」

 つまり、普通の入試が現時点における能力によって選抜を行うものとすれば、AOは未来に伸びるであろう能力を見通して選抜を行うということだというのです。それは、この本の他のところに繰り返し書かれている、彼らがどうやってプロとしてやっていけるレベルのまんが家へと学生たちを育てていっているかという教育とセットになって初めて成立するものだと思います。

 我々は入試で、なるべく手間がかからずに育ってくれる「優秀な子」を選抜しようとするものですが、この本を読むことでその発想自体を改めなければならないと叱られたような気がします。

 まんが家というのは、大学を出ても一握りしかプロになれないという意味では、大学院をでても一握りしかプロになれない研究者と通じるものがあると思います。日本中の研究者を育てる教育をしている大学人のすべての方にも、読んでもらいたい本です。

 「大学論」というタイトルに負けない中身がありますが、「熱いもの」が苦手な人には「ちょっと・・・」と思われるかもしれません。
by stochinai | 2010-04-23 20:42 | 大学・高等教育 | Comments(0)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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