2010年 09月 18日
英語を公用語にすることが国際化なのか
今朝の朝日新聞「私の視点」に、大阪大学の成田一さんという方の「英語の社内公用語 思考及ばず、情報格差も」という投稿が載っていました。最近は日本国内など日本人が多いところでの会議などを英語で行うことが、国際化という見地から先進的であるかのようにもてはやされる傾向にあるようですが、それは決して良いことではないという意見が載っていました。
(本文には著作権保護のためにモザイクをかけてあります。)
そうした結果がすでに出ている中で、一部企業が「国際化」の名の下に英語を社内公用語にしようとしているので、おそらく失敗するとは思いますが、それは一企業として責任をとればすむことです。
ところが、文科省の指導下にある全国の大学でも、国際化の名の下に英語を「公用語」として、日本語がまったくできなくても、英語だけですべての大学の授業が履修でき、大学院も卒業できて博士も取れるようにしようという動きが着々と進行しています。主な目的は、アジア各国からの留学生を受け入れて日本の大学・大学院卒の肩書きを与えようということだとは思いますが、文科省は英語だけで大学・大学院を卒業するコースを卒業したら、たとえ日本人であっても「国際化した」卒業生ができるというふうに妄想しているのだと思っている節があります。
そして、現実に国立大学法人を中心として全国の大学で英語の授業が続々と準備されつつあるのです。
しかし、中にいる人間の一人として暴露させていただきますが、今の日本の大学の先生で、「英語で英語以外の授業」ができる方は数えるほどしかいらしゃらないと思います。私も、もちろんできません。(たとえば、英語圏の英米の学生に対して、英語で授業をすることを考えてみてください。)
授業というのは、教科書に書いていることを読んで聞かせれば済むわけではなく、脳でリアルタイムの処理をしながら、論点を構築し論理的に提示する作業を行いながら日本語で発話して行うものです。もちろん、生物学をはじめ、自然科学のおおもとの教科書のほとんどは英語で書かれたものですから、それを英語の論理構成のまま提示することはできるのですが、英語の教科書に書かれている内容を「自分の論理」へとかみ砕き、学生に伝えることをリアルタイムで行うことは、それほど容易なことではありません。(日本語でさえ、容易ではないのです。)
さらに大きな問題は、授業を受ける学生が英語の論理で展開される学問を的確に受け入れる力があるかどうかということと、それができているかどうかを教える我々が的確に把握できるかどうかという二重苦があることです。これは、日本語で講義をする際にも言えることなのですが、それすら十分にできない「教員」が多い大学で、さらに英語でそれができはずだと考えている文科省の方々は、大学の実態をあまりにも知らなさすぎる(あるいは知らないふりをしている)と言わざるを得ません。
というわけで、日本人の「英語コンプレックス」が裏返しになって、英語さえできれば国際化できるのだという「妄想」へと展開した結果が、最近の「英語公用語化」のブームだと感じます。こうしたブームは戦後何度か訪れては消えたものだと思いますので、今回も数年経てば文科省の政策失敗とともに挫折してしまうことは想像できるのですが、その過程で多くの学生と教員が犠牲となってしまうことは避けられるのであれば、ブームに乗ること自体を避けたほうが良いだろうと思い、この文を書いております。
国際化というのは英語を操ることではなく、外国の文化を理解し、異文化の方々とうまくつきあえるようになることだと思います。
学問を含め外国の文化を理解するために、その国の言葉を自由に操れるようになることは悪いことではありませんが、全員が強制的に身につけるべき「公用語」とする必然性はまったくないはずです。さらに、世界には無数の言語があるはずなのに、国際化と称してたった数カ国でしか使われていない「英語」を公用語とするということは、国際化という観点から見ると大いなる矛盾であるということは、子どもにでもわかる論理ではないのでしょうか。
英語を学ぶことは良いことですが、立派な言語を持っている日本の国民全員が英語だけを公用語として学ぶことは決して良いことではないと思います。
経済用語としてもっとも通じやすいものが英語ということであるならば、もっと「功利的」に利用すればすむことではないかと思います。
人間の思考は脳の「作業記憶」における活動だが、作業記憶にはリアルタイムの処理の時間と容量に制約がある。日本人は英語の聴取・理解と発話構成に手間を取られ、論点を分析し対案を提示する「思考」に作業記憶を回せなくなるため、思考に専念できるネーティブ主導の討議になる危険性が高いのだ。論者はこの「企業の勘違い」が、文科省の教育行政の誤りに由来していると推論していいます。きちんとした議論を経ずに文科省が「暴走」した結果行われた「オーラルコミュニケーション偏重の学習指導要領の下で3年間学習した最初の高校生がセンター試験を受験した97年には、成績が偏差値換算で10点急落し、中学生も高校入学時の成績が95年から11年間で7点低下した、との研究報告もある」そうで、英語さえ話せるようになれば国際化が実現できて、学生の「英語力」が上がるというのは文科省の「妄想」に過ぎなかったことが証明されつつあるのが現実だと思います。
「情報共有」の問題も重要だ。母語なら討議内容を深められるが、日本の会社で外国語を公用語にすると、多くの社員の間で「情報が正確に共有できない」恐れがある。「TOEIC」のスコア600~700点前後を昇進・昇格の要件にしている企業も多いが、現実には800点ないと実務的な討議はできないとされる。韓国企業は900点前後だ。450点未満の社員も少なくない事情を考慮しない社長の思いだけが選考して、社内で自由闊達な議論がなくなり、情報の格差・歪曲が起こらないかと気がかりだ。
そうした結果がすでに出ている中で、一部企業が「国際化」の名の下に英語を社内公用語にしようとしているので、おそらく失敗するとは思いますが、それは一企業として責任をとればすむことです。
ところが、文科省の指導下にある全国の大学でも、国際化の名の下に英語を「公用語」として、日本語がまったくできなくても、英語だけですべての大学の授業が履修でき、大学院も卒業できて博士も取れるようにしようという動きが着々と進行しています。主な目的は、アジア各国からの留学生を受け入れて日本の大学・大学院卒の肩書きを与えようということだとは思いますが、文科省は英語だけで大学・大学院を卒業するコースを卒業したら、たとえ日本人であっても「国際化した」卒業生ができるというふうに妄想しているのだと思っている節があります。
そして、現実に国立大学法人を中心として全国の大学で英語の授業が続々と準備されつつあるのです。
しかし、中にいる人間の一人として暴露させていただきますが、今の日本の大学の先生で、「英語で英語以外の授業」ができる方は数えるほどしかいらしゃらないと思います。私も、もちろんできません。(たとえば、英語圏の英米の学生に対して、英語で授業をすることを考えてみてください。)
授業というのは、教科書に書いていることを読んで聞かせれば済むわけではなく、脳でリアルタイムの処理をしながら、論点を構築し論理的に提示する作業を行いながら日本語で発話して行うものです。もちろん、生物学をはじめ、自然科学のおおもとの教科書のほとんどは英語で書かれたものですから、それを英語の論理構成のまま提示することはできるのですが、英語の教科書に書かれている内容を「自分の論理」へとかみ砕き、学生に伝えることをリアルタイムで行うことは、それほど容易なことではありません。(日本語でさえ、容易ではないのです。)
さらに大きな問題は、授業を受ける学生が英語の論理で展開される学問を的確に受け入れる力があるかどうかということと、それができているかどうかを教える我々が的確に把握できるかどうかという二重苦があることです。これは、日本語で講義をする際にも言えることなのですが、それすら十分にできない「教員」が多い大学で、さらに英語でそれができはずだと考えている文科省の方々は、大学の実態をあまりにも知らなさすぎる(あるいは知らないふりをしている)と言わざるを得ません。
というわけで、日本人の「英語コンプレックス」が裏返しになって、英語さえできれば国際化できるのだという「妄想」へと展開した結果が、最近の「英語公用語化」のブームだと感じます。こうしたブームは戦後何度か訪れては消えたものだと思いますので、今回も数年経てば文科省の政策失敗とともに挫折してしまうことは想像できるのですが、その過程で多くの学生と教員が犠牲となってしまうことは避けられるのであれば、ブームに乗ること自体を避けたほうが良いだろうと思い、この文を書いております。
国際化というのは英語を操ることではなく、外国の文化を理解し、異文化の方々とうまくつきあえるようになることだと思います。
学問を含め外国の文化を理解するために、その国の言葉を自由に操れるようになることは悪いことではありませんが、全員が強制的に身につけるべき「公用語」とする必然性はまったくないはずです。さらに、世界には無数の言語があるはずなのに、国際化と称してたった数カ国でしか使われていない「英語」を公用語とするということは、国際化という観点から見ると大いなる矛盾であるということは、子どもにでもわかる論理ではないのでしょうか。
英語を学ぶことは良いことですが、立派な言語を持っている日本の国民全員が英語だけを公用語として学ぶことは決して良いことではないと思います。
経済用語としてもっとも通じやすいものが英語ということであるならば、もっと「功利的」に利用すればすむことではないかと思います。
某外資企業がらみの訴訟案件でも、日本側企業の思考の深化が妨げられ不利益を被るから通訳を入れて会議を英語ではなく日本語で行いたいという悲鳴のような言葉が入っていました。30年近く経済や法律全般の翻訳を行っていても、理解できないものは沢山あります。翻訳ですから調べる時間があるのですが、これが会議で欧米人に畳みかけられると、日本のそれも男なら、分からないといえずについイエスと言ってしまう人、大勢出るでしょうねえ。怖いですよ。
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stochinai at 2010-09-20 09:04
日本人の特性なのか、日本語での会議でもあまり議論にならないことが多いですね。議論の場で沈黙するのは同意なのだというのが国際標準なのですから、まずは議論の場ではともかく主張しあうという人間を育てることこそが「国際化」の大前提で、それができない人間に英語を扱う能力を身につけさせても「無意味」でしょう。
とりあえず、現状でのデリケートな議論は、常にプロの通訳をつけて行うことですね、そうでないとまた「戦争」が始まることになると思います。
とりあえず、現状でのデリケートな議論は、常にプロの通訳をつけて行うことですね、そうでないとまた「戦争」が始まることになると思います。
by stochinai
| 2010-09-18 23:25
| 教育
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