2010年 11月 25日
榎木英介著: 博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか?
献本御礼

博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか? (DISCOVERサイエンス)
実は私は榎木さんが東大理学部の大学院生の(あるいは学生だった?)頃から存じ上げており、当時まだそれほど一般的でもなかったウェブを使って、アフリカツメガエルを使った発生学研究を発信し続けていたことを今でも鮮明に覚えています。
ウェブサイトの名前は「たまごの部屋」だったような気がしますが、調べてみると今でもここに保存されているようですね。本業の「アフリカツメガエルを学ぼう!」以外にも、後輩達のために「大学・大学院入試情報」や、今でいうところのキャリアパスのひとつとして「国家1種公務員の生物受験情報」など、一貫してどうやって大学院を生き延び、その後につなげていくかということを、自分だけではなく仲間達と一緒に考えようとしていた印象が強い方でした。
そうした行動の底を流れていたのが単なる科学至上主義ではない「正義感」であることは、現在の榎木さんを見ていてもわかりますが、この「過去の書庫」にもある、研究問題メーリングリスト(research ML)や研究問題ブログなどでの活動が、NPO法人サイエンス・コミュニケーションの設立、そしてその理事としての活動へとつながっていったことをご存じの方も多いのではないでしょうか。今は理事も勇退されて、今年は新しい組織サイエンス・サポート・アソシエーションを立ち上げるなど、一貫してNGO活動で走り続けておられる方というのが私の印象です。
そうした活動と並行しての彼の研究生活は、順風満帆だったとは言い難かったのかもしれません。アフリカツメガエルの発生研究で博士号を取るには至らず、博士(後期)過程を中退することになったあたりの詳しい事情はよく知りませんが、紆余曲折を経て神戸大学の医学部に学士入学したことを知った時にはちょっとびっくりしたものです。
そして、病理医として十二分に忙しい生活をしているにもかかわらず、学生時代から続けてきた若い科学者達をサポートする活動を今でも率先して人一倍精力的に続けておられるそのエネルギーの源泉は、自分がやりたくでもできなかった「理学の基礎研究」を続けている若い学者および学者の卵達が、彼らの望みどおりに科学者になって欲しいという「怨念」のようなものなのではないかと感じることもあります。
彼の心の奥にあるものはさておき、彼が今の日本で若い科学者達のサポーターの第一人者であることを認める人が多いと思いますし、私もそう思っています。その彼が満を持して日本のポスドク問題について書いたのがこの本です。
博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか? (DISCOVERサイエンス)
決して明るく楽しい本ではありませんが、少なくともこれから大学院に入って科学者を目指そうという学生ならば知っておかなければならない、日本の大学院の歴史と現状が第1章と第2章にしっかりと記録されております。校正の時に削ったという120ページがもしもこの第1章、第2章に関わるものだとしたら、どこかで公開していただきたいくらい貴重なデータが満載です。もちろん、私はよく知っていることばかりですが、こうしたことすらよく知らない大学の先生や、政治家の方々が日本の科学者教育やその政策決定に大きな力を持っていることの恐ろしさは、当事者である学生・院生・ポスドクの皆さんがしっかりと認識しておく必要があります。つまり、このあたりに書いてあるようなことすらしらないボスの研究室は「危険」なのです。
第3章、第4章では榎木さんが一所懸命博士・ポスドクを売り込んでいますが、今の社会状況の中では決してうまいセールストークになっていないのが残念なところです。榎木さんは極めて誠実に、真っ正面から博士の有用性と必要性を説いておられますが、今の社会の大多数が抱いている通念をひっくり返すほどの説得力が感じられないのは、博士・ポスドク問題が人々の意識を変えるだけで片付くようなものではなく、この社会の構造を変えなければならないほど根深いところから発していることに一因がありそうに思えます。
この本を最後まで読んでみて感じるのは、博士・ポスドク問題についてはもはや語るべきものが残っていないほど語り尽くされているにもかかわらず、解決策が出てこないというところにこそ問題があるということです。
状況が動き始めるのは、おそらく国立大学の一部が整理・再編され始める数年後でしょう。
そう考えると、現状はすでにある博士・ポスドク問題を解決するというようなのんきな段階ではなく、さらにひどくなる前の段階にあると考えるべきなのかもしれません。
榎木さんの力作を前にして、この本が日本の博士への鎮魂歌のように思えるのが残念でなりません。

実は私は榎木さんが東大理学部の大学院生の(あるいは学生だった?)頃から存じ上げており、当時まだそれほど一般的でもなかったウェブを使って、アフリカツメガエルを使った発生学研究を発信し続けていたことを今でも鮮明に覚えています。
ウェブサイトの名前は「たまごの部屋」だったような気がしますが、調べてみると今でもここに保存されているようですね。本業の「アフリカツメガエルを学ぼう!」以外にも、後輩達のために「大学・大学院入試情報」や、今でいうところのキャリアパスのひとつとして「国家1種公務員の生物受験情報」など、一貫してどうやって大学院を生き延び、その後につなげていくかということを、自分だけではなく仲間達と一緒に考えようとしていた印象が強い方でした。
そうした行動の底を流れていたのが単なる科学至上主義ではない「正義感」であることは、現在の榎木さんを見ていてもわかりますが、この「過去の書庫」にもある、研究問題メーリングリスト(research ML)や研究問題ブログなどでの活動が、NPO法人サイエンス・コミュニケーションの設立、そしてその理事としての活動へとつながっていったことをご存じの方も多いのではないでしょうか。今は理事も勇退されて、今年は新しい組織サイエンス・サポート・アソシエーションを立ち上げるなど、一貫してNGO活動で走り続けておられる方というのが私の印象です。
そうした活動と並行しての彼の研究生活は、順風満帆だったとは言い難かったのかもしれません。アフリカツメガエルの発生研究で博士号を取るには至らず、博士(後期)過程を中退することになったあたりの詳しい事情はよく知りませんが、紆余曲折を経て神戸大学の医学部に学士入学したことを知った時にはちょっとびっくりしたものです。
そして、病理医として十二分に忙しい生活をしているにもかかわらず、学生時代から続けてきた若い科学者達をサポートする活動を今でも率先して人一倍精力的に続けておられるそのエネルギーの源泉は、自分がやりたくでもできなかった「理学の基礎研究」を続けている若い学者および学者の卵達が、彼らの望みどおりに科学者になって欲しいという「怨念」のようなものなのではないかと感じることもあります。
彼の心の奥にあるものはさておき、彼が今の日本で若い科学者達のサポーターの第一人者であることを認める人が多いと思いますし、私もそう思っています。その彼が満を持して日本のポスドク問題について書いたのがこの本です。
博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか? (DISCOVERサイエンス)
決して明るく楽しい本ではありませんが、少なくともこれから大学院に入って科学者を目指そうという学生ならば知っておかなければならない、日本の大学院の歴史と現状が第1章と第2章にしっかりと記録されております。校正の時に削ったという120ページがもしもこの第1章、第2章に関わるものだとしたら、どこかで公開していただきたいくらい貴重なデータが満載です。もちろん、私はよく知っていることばかりですが、こうしたことすらよく知らない大学の先生や、政治家の方々が日本の科学者教育やその政策決定に大きな力を持っていることの恐ろしさは、当事者である学生・院生・ポスドクの皆さんがしっかりと認識しておく必要があります。つまり、このあたりに書いてあるようなことすらしらないボスの研究室は「危険」なのです。
第3章、第4章では榎木さんが一所懸命博士・ポスドクを売り込んでいますが、今の社会状況の中では決してうまいセールストークになっていないのが残念なところです。榎木さんは極めて誠実に、真っ正面から博士の有用性と必要性を説いておられますが、今の社会の大多数が抱いている通念をひっくり返すほどの説得力が感じられないのは、博士・ポスドク問題が人々の意識を変えるだけで片付くようなものではなく、この社会の構造を変えなければならないほど根深いところから発していることに一因がありそうに思えます。
この本を最後まで読んでみて感じるのは、博士・ポスドク問題についてはもはや語るべきものが残っていないほど語り尽くされているにもかかわらず、解決策が出てこないというところにこそ問題があるということです。
状況が動き始めるのは、おそらく国立大学の一部が整理・再編され始める数年後でしょう。
そう考えると、現状はすでにある博士・ポスドク問題を解決するというようなのんきな段階ではなく、さらにひどくなる前の段階にあると考えるべきなのかもしれません。
榎木さんの力作を前にして、この本が日本の博士への鎮魂歌のように思えるのが残念でなりません。
お久しぶりです。榎本さんの本は私も発売と同時に急いで読みましたが、とてもよく書けていて、周りにも勧めています。さて、この先生のブログを読んで気になったことは、今の博士の状況に対して解決策がないとおっしゃいますが、本気で誰かが解決をしようと取り組んでいたのか、その点がとても気になりました。大問題だと、意見を言う人が多いのに比較して、問題を解決しようと実際に行動した人は、それが力になり得ないほどとても少なかったのではないでしょうか。もし本当に多くの皆さんが努力して力つきたというのなら、誰がどれだけ活動してどう力つきたのか、知りたいと思いました。私には誰も何もしなかったかのように思えてしまうのです。先生のご存じの範囲でどんな活動があって、どういう結果になったのか、お教えいただけたら幸甚です。
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榎木さんをはじめ、「本気で」解決しようとほうぼうへ解決策を提言した人はたくさんいらっしゃると思います。ある意味では「たくさん」ですが、日本の政治を動かせるかどうかというような意味では「とても少ない」数だったと思います。
しかし、ただ意見をいうことだって、それぞれの方にとっては「本気の取り組み」であると言える場合もあるのではないでしょうか。榎木さんのように、NPO法人を作って自分の生活を削ってまでやるようなことだけが「本気でやる実際の取り組み」だとしたら、そこまでやった人はおっしゃるように「力になりえないほどとても少なかった」のだということは認めます。
(続く)
しかし、ただ意見をいうことだって、それぞれの方にとっては「本気の取り組み」であると言える場合もあるのではないでしょうか。榎木さんのように、NPO法人を作って自分の生活を削ってまでやるようなことだけが「本気でやる実際の取り組み」だとしたら、そこまでやった人はおっしゃるように「力になりえないほどとても少なかった」のだということは認めます。
(続く)
(続き)
それはなぜかというと博士・ポスドク問題は日本人の大多数にとって直接関係のある問題ではないし、もっとも近いところにいる大学の人間にとっては、ある意味で「利害相反」を覚悟しなければならないことだからです。そんな状況の中で、特に大学では自分に不利な行動までをする人間が少なく、言わば「誰も何もしなかった」状態にあったのは事実だと思います。例えば、ちょっと前の国立大学の法人化に反対して集会に参加した大学教員は、私の所属する大学でも1%くらいのものでした。博士・ポスドク問題に対して意見を言う程度であったとしても「行動」する大学関係者も1%くらいだと感じています。
しかし一方では、先日の就活反対デモでは実際の当事者達が(たとえ数十人といえども)民主主義に基づく直接行動に出ています。博士・ポスドクでそのような動きがあったでしょうか。
こうした中で、ある意味では当事者ですらない榎木さんがあれほど精力的に活動されていることに対しては畏敬の念すら覚えますが、動かない大多数の日本国民に対して我々は何をできるでしょうか。そういう意味での無力感を、たしかに私は持っております。
それはなぜかというと博士・ポスドク問題は日本人の大多数にとって直接関係のある問題ではないし、もっとも近いところにいる大学の人間にとっては、ある意味で「利害相反」を覚悟しなければならないことだからです。そんな状況の中で、特に大学では自分に不利な行動までをする人間が少なく、言わば「誰も何もしなかった」状態にあったのは事実だと思います。例えば、ちょっと前の国立大学の法人化に反対して集会に参加した大学教員は、私の所属する大学でも1%くらいのものでした。博士・ポスドク問題に対して意見を言う程度であったとしても「行動」する大学関係者も1%くらいだと感じています。
しかし一方では、先日の就活反対デモでは実際の当事者達が(たとえ数十人といえども)民主主義に基づく直接行動に出ています。博士・ポスドクでそのような動きがあったでしょうか。
こうした中で、ある意味では当事者ですらない榎木さんがあれほど精力的に活動されていることに対しては畏敬の念すら覚えますが、動かない大多数の日本国民に対して我々は何をできるでしょうか。そういう意味での無力感を、たしかに私は持っております。
by stochinai
| 2010-11-25 19:54
| ポスドク・博士
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