2011年 05月 07日
CoSTEP開校式 白川英樹講演会
今日はCoSTEPの開校式です。開講記念に2000年にノーベル化学賞を受賞された白川英樹さんの特別講演があるというので聴かせていただきました。
白川さんを見たのは初めてでしたが、「大科学者」にありがちな傲慢さがみじんもない非常に庶民的な方だと感じられました。逆に、その分「ノーベル賞学者」というオーラや近寄りがたい迫力といったものもなかったということもまた事実ですが、白川さんの話を聞いていて、彼がそうした民衆から遊離した孤高のアカデミズムというものを否定する立場に立っていることを知り、改めて腑に落ちた気にさせられました。
白川さんのお話自体は、それほど目新しい内容はなかったのですが、ノーベル賞を受賞された「大化学者」であるにもかかわらず、その話が出たのはおそらく1分か2分くらいで、特にそのことを話したいという気持ちはまったくないと感じられたことにも好感が持てました。私の偏見だと思うのですが、ノーベル賞を取られた方にしばしば見られる「行け行けどんどん」風のバブルな雰囲気がないとても誠実な人だと感じられました。
逆に、白川さんは科学者としての自分が社会に対してうまくコミュニケーションできてこなかったことを反省しておられ、科学者の側から情報発信することによって社会貢献をしたいと真剣に考えられておられるようで、自分自身が科学技術コミュニケーターあるいはインタープリターになろうという決意を持っておられるようでした。
その思いを実践するために、大学を退職されてから「科学ジャーナリスト塾」に講師としてではなく、一塾生として参加されたという話をうかがって、この方は「信ずるに足る方だ」という思いを強くしました。
もちろん誠実さだけでは、この虚々実々で魑魅魍魎の跋扈する現実社会の中で勝ち抜いていくことは難しいのですが、やたらと政争や経済学理論ばかりが偉そうに肩で風を切っている昨今の風潮の中で、白川さんのような一直線に実直な姿勢にこちらの目を覚まさせてくれる冷水のような効果を感じたといったらわかっていただけるでしょうか。
質疑応答の中で出てきた、大学がやるべき大切なことのひとつは文系の学生には自然科学のような理系の「教養」を与え、理系の学生には法律や社会学や文学や芸術などの文系の「教養」を与えることだという言葉は、今の時代ではなかなか受け入れられないだろうとは思いますが、私も強く共感したところです。理系の大学などはみんな6年生にしてしまって、最初の4年は「教養教育」だけでいいと思うというような発言もありました。これは学生にも、将来学生を受け入れる企業にも評判が悪い考えだと思いますし、実現もかなり難しいとは思うのですが、それを実行する大学がいくつかはあっても良いのではないかと思いました。
科学コミュニケーションというものは、基本的には小さな規模でしか実現できないものだと思います。逆にいうと科学コミュニケーターがとてつもなくたくさん必要になるわけで、白川さんははっきりとはおっしゃらなかったような気もしますが、「大学を出た人間がすべて科学コミュニケーターになれば、世の中はうまく回るようになる」ということを主張したかったのかもしれません。
大学進学率が50%を越えた我が国ですので、大学を出た人の5人に1人でも科学コミュニケーション能力を身につけた教養人になってくれれば、日本が変わるかもしれないという考えは荒唐無稽なものではないと思います。
そうであるならば、我々が考えるべきは大学の「一般教育」における科学コミュニケーションリテラシーのカリキュラムであり、さらには高校・中学・小学校教育におけるそれなのかもしれないという気がしてきます。一億、総コミュニケーターの時代を目指せということになるのかもしれません。
そうなると、「科学技術コミュニケーター」という特殊な存在は必要なくなってしまいますが、ある意味でそれこそが我々の求めるべき目標だという気もしてきます。
(写真は、市内棒園芸店で見かけた原種に近いと思われるチューリップです。こうやって開くのが原種的な形質なのだそうです。)
白川さんのお話自体は、それほど目新しい内容はなかったのですが、ノーベル賞を受賞された「大化学者」であるにもかかわらず、その話が出たのはおそらく1分か2分くらいで、特にそのことを話したいという気持ちはまったくないと感じられたことにも好感が持てました。私の偏見だと思うのですが、ノーベル賞を取られた方にしばしば見られる「行け行けどんどん」風のバブルな雰囲気がないとても誠実な人だと感じられました。
逆に、白川さんは科学者としての自分が社会に対してうまくコミュニケーションできてこなかったことを反省しておられ、科学者の側から情報発信することによって社会貢献をしたいと真剣に考えられておられるようで、自分自身が科学技術コミュニケーターあるいはインタープリターになろうという決意を持っておられるようでした。
その思いを実践するために、大学を退職されてから「科学ジャーナリスト塾」に講師としてではなく、一塾生として参加されたという話をうかがって、この方は「信ずるに足る方だ」という思いを強くしました。
もちろん誠実さだけでは、この虚々実々で魑魅魍魎の跋扈する現実社会の中で勝ち抜いていくことは難しいのですが、やたらと政争や経済学理論ばかりが偉そうに肩で風を切っている昨今の風潮の中で、白川さんのような一直線に実直な姿勢にこちらの目を覚まさせてくれる冷水のような効果を感じたといったらわかっていただけるでしょうか。
質疑応答の中で出てきた、大学がやるべき大切なことのひとつは文系の学生には自然科学のような理系の「教養」を与え、理系の学生には法律や社会学や文学や芸術などの文系の「教養」を与えることだという言葉は、今の時代ではなかなか受け入れられないだろうとは思いますが、私も強く共感したところです。理系の大学などはみんな6年生にしてしまって、最初の4年は「教養教育」だけでいいと思うというような発言もありました。これは学生にも、将来学生を受け入れる企業にも評判が悪い考えだと思いますし、実現もかなり難しいとは思うのですが、それを実行する大学がいくつかはあっても良いのではないかと思いました。
科学コミュニケーションというものは、基本的には小さな規模でしか実現できないものだと思います。逆にいうと科学コミュニケーターがとてつもなくたくさん必要になるわけで、白川さんははっきりとはおっしゃらなかったような気もしますが、「大学を出た人間がすべて科学コミュニケーターになれば、世の中はうまく回るようになる」ということを主張したかったのかもしれません。
大学進学率が50%を越えた我が国ですので、大学を出た人の5人に1人でも科学コミュニケーション能力を身につけた教養人になってくれれば、日本が変わるかもしれないという考えは荒唐無稽なものではないと思います。
そうであるならば、我々が考えるべきは大学の「一般教育」における科学コミュニケーションリテラシーのカリキュラムであり、さらには高校・中学・小学校教育におけるそれなのかもしれないという気がしてきます。一億、総コミュニケーターの時代を目指せということになるのかもしれません。
(写真は、市内棒園芸店で見かけた原種に近いと思われるチューリップです。こうやって開くのが原種的な形質なのだそうです。)
by stochinai
| 2011-05-07 23:33
| 教育
|
Comments(0)