2005年 05月 14日
政治に翻弄される科学者 (横田めぐみさん遺骨事件)
北朝鮮に拉致されたまま行方不明になっている横田めぐみさんの「遺骨」をめぐって、日本と北朝鮮だけではなく、自然科学の世界では権威以上のものを持つ科学雑誌Natureと日本政府が交戦状態になっています。
日本と北朝鮮は当事者同士ですが、言うなれば第3者としてその間に登場したNatureと日本政府の間に見解の相違が生じたとすると、日本にとってははなはだ立場が悪くなったと言わざるを得ません。
そもそもの発端は、昨年遅くに北朝鮮から渡された横田めぐみさんの「遺骨」のDNA鑑定結果です。私も昨年の12月9日のエントリーで書いていますが、DNA鑑定をやったのは日本だけ、しかも科学警察研究所ではDNAを抽出できずに判定不能という結果を出しているんにもかかわらず、日本政府は帝京大学の判定結果を採用して、「遺骨は横田めぐみさんのものではない」という判断を公式見解としているようです。当然にも北朝鮮は反論し、結果はねつ造されたものであると1月26日に声明を発表しました。1200℃で焼かれた遺骨にDNAが残っているはずはないという主張です。
そうした議論に対して、Natureの東京特派員であるDavid Cyranoskiが2月3日に記事を書きました(Nature 433, 445 (3 February 2005) )。帝京大学の吉井さんからのコメントもとっており、彼は普通の方法(ただのPCR)ではなく、nested PCRというより感度の高い方法を使ったことと、彼らの使った技術の優秀さを強調したとのことです。ただし、吉井さんが言ったことがちょっと気になります。
"There is no standardization." 標準的手法なんてない。
標準的方法がないうちは、本当の科学とは言えません。彼は彼が使った方法を提示して、誰でもが同じ結果を出せることを保証しなければ、彼の結果は「科学的に証明された」ことにはならないというのが、普通の考え方です。
同じインタビューの中で、吉井さん自身が1200℃で焼いた骨にDNAが残っているのは、自分でもびっくりした、と書かれています。しかも、吉井さんは過去に火葬した骨からのDNA抽出の経験がなかったので、これが結論だとは言えず、いわば硬いスポンジとも言える状態の焼かれた遺骨を素手でさわった誰か他の人のDNAを調べてしまった可能性はあると告白しています。
吉井さんはその時点でサンプルを使い果たしてしまっていて、再実験はできないとのことです。再実験ができない以上、彼の結果を肯定することも否定することもできず、これも科学としては非常にまずい状況だと言えます。
そうこうしているうちに、とんでもないことが起こってしまいました。うかつにも私はこのニュースを見逃していました。とても悔やまれます。(マスコミのせいにしても仕方がないのですが、少なくとも大々的には報道されなかったのではないでしょうか。)
なんと、渦中の吉井さんが「横田さんDNA鑑定で実績」ということで「帝京大の講師から、科学捜査研究所(科捜研)の法医科長」に採用されることになってしまいました。「警察が外部の人材を管理職として招聘(しょうへい)するのは極めて異例」だそうです。
誰が考えても「えーっ」というこの人事は、3月30日国会でも取り上げられています。 第162回国会 外務委員会会議録 第4号(平成17年3月30日(水曜日))に詳しく載っています。
民主党の首藤議員は、よく勉強して追求しているようですが、答えるほうが勉強不足でからまわりに見えます。
首藤議員:警察は柏に巨大な科学警察研究所、科警研を持っていて、にもかかわらず一私学の一講師がやっている研究機関が日本の最高水準というんだったら、それなら科警研は廃止したらいいじゃないですか。
首藤議員:その吉井講師が何と警視庁の科捜研の研究科長になっちゃった。これ、職員ですよ。科学警察の研究所へ出向されるとか、そういうことならともかく、一民間人のおよそ警察的な訓練を受けていない人が警視庁の科学捜査の、捜研の、それの職員になってしまう。それは、多くは今既に言われているように、証人隠しじゃないですか。
首藤議員:こんなことをやっていては日本がやはり世界から認められるわけないですよ。こんなこと、分析結果、私は北朝鮮の今までやったことも言っていることもでたらめだと思いますよ。しかし、相手がでたらめだからといってこちらがでたらめをやっていいということは何もないんですよ。やはりきちっとやっていかなければいけないんだと思うんですよ。
これを見てか、NatureのDavid Cyranoskiが、またまた記事を書きました。Job switch stymies Japan's abduction probe(Nature 434, 685 (7 April 2005))「転職によって拉致を証明することが難しくなった」という、日本政府を批判したニュース記事です。
それによると、日本政府は、「吉井さんは『言ったことと違うことを書かれた』と言っている」と先のNature記事に反論しているとのことです。それならば、吉井さん本人にコメントを出させれば良いものを、今は警視庁の職員になってしまったので公式の見解を私的に出すことはできなくなったのだそうで、オーストラリアのドキュメンタリー番組の取材や、韓国の放送局の取材もいっさい断っていると書いてあります。
首藤議員は、要するにこれは証人の口封じ人事だと言っているようですが、そう言われても仕方がない状況だと、私も思います。
こんなことを続けていては、日本そのものの科学的信用を失ってしまうというのは本当だと思います。特に、国内だけではなく国際的に権威のある科学雑誌の主張を無視するような態度を国がとっていると、我々科学をやっている人間の国際的信用も下がってしまいます。
今回、吉井さんがどういういきさつや個人的事情があって、転職なさったかはわかりませんが、少なくとも科学的論争がある中でその論争に大きな影響を及ぼすような政治的背景が疑われるような人事に巻き込まれてしまうということは、少なくとも科学者としては死刑宣告を受けたのと同じことになってしまいます。
もちろん、吉井さん個人の人生ですから、それに関してとやかくいう権利は我々にはないのですが、少なくともこれで北朝鮮の主張を完全に封じ込めることができなくなってしまったことは間違いないように思われます。
とても残念なことですが、また平和的解決が遠のいたことを感じました。
日本と北朝鮮は当事者同士ですが、言うなれば第3者としてその間に登場したNatureと日本政府の間に見解の相違が生じたとすると、日本にとってははなはだ立場が悪くなったと言わざるを得ません。
そもそもの発端は、昨年遅くに北朝鮮から渡された横田めぐみさんの「遺骨」のDNA鑑定結果です。私も昨年の12月9日のエントリーで書いていますが、DNA鑑定をやったのは日本だけ、しかも科学警察研究所ではDNAを抽出できずに判定不能という結果を出しているんにもかかわらず、日本政府は帝京大学の判定結果を採用して、「遺骨は横田めぐみさんのものではない」という判断を公式見解としているようです。当然にも北朝鮮は反論し、結果はねつ造されたものであると1月26日に声明を発表しました。1200℃で焼かれた遺骨にDNAが残っているはずはないという主張です。
そうした議論に対して、Natureの東京特派員であるDavid Cyranoskiが2月3日に記事を書きました(Nature 433, 445 (3 February 2005) )。帝京大学の吉井さんからのコメントもとっており、彼は普通の方法(ただのPCR)ではなく、nested PCRというより感度の高い方法を使ったことと、彼らの使った技術の優秀さを強調したとのことです。ただし、吉井さんが言ったことがちょっと気になります。
"There is no standardization." 標準的手法なんてない。
標準的方法がないうちは、本当の科学とは言えません。彼は彼が使った方法を提示して、誰でもが同じ結果を出せることを保証しなければ、彼の結果は「科学的に証明された」ことにはならないというのが、普通の考え方です。
同じインタビューの中で、吉井さん自身が1200℃で焼いた骨にDNAが残っているのは、自分でもびっくりした、と書かれています。しかも、吉井さんは過去に火葬した骨からのDNA抽出の経験がなかったので、これが結論だとは言えず、いわば硬いスポンジとも言える状態の焼かれた遺骨を素手でさわった誰か他の人のDNAを調べてしまった可能性はあると告白しています。
吉井さんはその時点でサンプルを使い果たしてしまっていて、再実験はできないとのことです。再実験ができない以上、彼の結果を肯定することも否定することもできず、これも科学としては非常にまずい状況だと言えます。
そうこうしているうちに、とんでもないことが起こってしまいました。うかつにも私はこのニュースを見逃していました。とても悔やまれます。(マスコミのせいにしても仕方がないのですが、少なくとも大々的には報道されなかったのではないでしょうか。)
なんと、渦中の吉井さんが「横田さんDNA鑑定で実績」ということで「帝京大の講師から、科学捜査研究所(科捜研)の法医科長」に採用されることになってしまいました。「警察が外部の人材を管理職として招聘(しょうへい)するのは極めて異例」だそうです。
誰が考えても「えーっ」というこの人事は、3月30日国会でも取り上げられています。 第162回国会 外務委員会会議録 第4号(平成17年3月30日(水曜日))に詳しく載っています。
民主党の首藤議員は、よく勉強して追求しているようですが、答えるほうが勉強不足でからまわりに見えます。
首藤議員:警察は柏に巨大な科学警察研究所、科警研を持っていて、にもかかわらず一私学の一講師がやっている研究機関が日本の最高水準というんだったら、それなら科警研は廃止したらいいじゃないですか。
首藤議員:その吉井講師が何と警視庁の科捜研の研究科長になっちゃった。これ、職員ですよ。科学警察の研究所へ出向されるとか、そういうことならともかく、一民間人のおよそ警察的な訓練を受けていない人が警視庁の科学捜査の、捜研の、それの職員になってしまう。それは、多くは今既に言われているように、証人隠しじゃないですか。
首藤議員:こんなことをやっていては日本がやはり世界から認められるわけないですよ。こんなこと、分析結果、私は北朝鮮の今までやったことも言っていることもでたらめだと思いますよ。しかし、相手がでたらめだからといってこちらがでたらめをやっていいということは何もないんですよ。やはりきちっとやっていかなければいけないんだと思うんですよ。
これを見てか、NatureのDavid Cyranoskiが、またまた記事を書きました。Job switch stymies Japan's abduction probe(Nature 434, 685 (7 April 2005))「転職によって拉致を証明することが難しくなった」という、日本政府を批判したニュース記事です。
それによると、日本政府は、「吉井さんは『言ったことと違うことを書かれた』と言っている」と先のNature記事に反論しているとのことです。それならば、吉井さん本人にコメントを出させれば良いものを、今は警視庁の職員になってしまったので公式の見解を私的に出すことはできなくなったのだそうで、オーストラリアのドキュメンタリー番組の取材や、韓国の放送局の取材もいっさい断っていると書いてあります。
首藤議員は、要するにこれは証人の口封じ人事だと言っているようですが、そう言われても仕方がない状況だと、私も思います。
こんなことを続けていては、日本そのものの科学的信用を失ってしまうというのは本当だと思います。特に、国内だけではなく国際的に権威のある科学雑誌の主張を無視するような態度を国がとっていると、我々科学をやっている人間の国際的信用も下がってしまいます。
今回、吉井さんがどういういきさつや個人的事情があって、転職なさったかはわかりませんが、少なくとも科学的論争がある中でその論争に大きな影響を及ぼすような政治的背景が疑われるような人事に巻き込まれてしまうということは、少なくとも科学者としては死刑宣告を受けたのと同じことになってしまいます。
もちろん、吉井さん個人の人生ですから、それに関してとやかくいう権利は我々にはないのですが、少なくともこれで北朝鮮の主張を完全に封じ込めることができなくなってしまったことは間違いないように思われます。
とても残念なことですが、また平和的解決が遠のいたことを感じました。
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n_q
at 2006-07-02 11:10
このニュース気づきませんでした。(このエントリーも今気づきました)
私の素養は物理系なので、どうもこのような生物医学系の「科学的判定」の再現性のなさ、標準的手法のなさが気になります。(BSE問題も同様)。
政治的に曖昧性を利用している気配が濃厚なのには危惧を感じます。
私の素養は物理系なので、どうもこのような生物医学系の「科学的判定」の再現性のなさ、標準的手法のなさが気になります。(BSE問題も同様)。
政治的に曖昧性を利用している気配が濃厚なのには危惧を感じます。
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stochinai at 2006-07-02 23:58
n_qさん、コメントありがとうございました。今日になって、急にこの記事へのアクセスが増えてきていますが、やはりめぐみさんの「夫」という方の記者会見で「めぐみさんの死亡」が発表されてしまうと、ひょっとするとあの骨は実は、、、と思われる方が増えているということなのかもしれません。
ほとんどDNAが残っていなかった骨を鑑定して「めぐみさんのものではない」ということなど断定できないということは、大学生程度でもわかることなので、この件に関しては日本と北朝鮮の両方の勢力にまさに「政治的に」利用されていると感じます。
ほとんどDNAが残っていなかった骨を鑑定して「めぐみさんのものではない」ということなど断定できないということは、大学生程度でもわかることなので、この件に関しては日本と北朝鮮の両方の勢力にまさに「政治的に」利用されていると感じます。
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ヨシダヒロコ
at 2006-07-03 09:02
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stochinai at 2006-07-03 13:30
ちょっと心配なのは、今頃になって吉井さんに迷惑な取材などが始まらないかということです。マスコミは遠慮会釈なく、自分たちの都合だけで人を傷つけますからね。一年前に取材をしなかったのだから、マスコミには今さら騒ぐ権利はないと思います。
老婆心ながら、どうぞお静かな取材をお願いいたします。
老婆心ながら、どうぞお静かな取材をお願いいたします。
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lanzentraeger
at 2006-07-18 18:58
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stochinaiさん、僕も最近になって、ようやくこの話を知り、ブログに書かせていただきました。また、stochinaiさんのブログ内容を引用させていただきました。
メディアから流れている、事実の片側だけを聞いていると、ほんとに怖い気がしました。それは、マスコミだけではなく、科学技術コミュニケーションなどの職業にとってもそうかもしれません。
ちなみに、私のブログの方からトラックバックをお送りしたんですが、正しく伝わらなかったかもしれません。何か特殊な作業があるのでしょうか?なにぶん、そういう知識に不慣れで…。
メディアから流れている、事実の片側だけを聞いていると、ほんとに怖い気がしました。それは、マスコミだけではなく、科学技術コミュニケーションなどの職業にとってもそうかもしれません。
ちなみに、私のブログの方からトラックバックをお送りしたんですが、正しく伝わらなかったかもしれません。何か特殊な作業があるのでしょうか?なにぶん、そういう知識に不慣れで…。
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stochinai at 2006-07-18 19:36
このエントリーへの引用リンクがないとトラックバックができないことになっているのですが、見てみると引用されていますよね。それではと、こちらからトラックバックを送ってみようとしましたが、そちらもうまくいかないみたいでした。時々、そのようなことが起こるみたいなので、そういう時にはコメント欄にURLを書いてしまうというようなことを、みなさんやっているようです。lanzentraegerさんのエントリーのアドレスはこれですね。
http://d.hatena.ne.jp/lanzentraeger/20060717
http://d.hatena.ne.jp/lanzentraeger/20060717
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stochinai at 2006-07-18 19:37
引用していただいてありがとうございました。おっしゃるとおり、我々が知らされていることというのはかなり制限されているとともに、知らされていることもかなりバイアスがかかっていることもあるようです。そんな状況の中で、少しでも「ほんとうのこと」に近づくために、インターネットは役に立ってくれることもあるようです。
今までのように発信する側と受け取る側が完全に分離しているわけではなく、我々も発信することができるというところが何かを生んでくれるのかもしれません。ともかく、まだまだ未熟なメディアですので、みんなで育てていかなければならないと思います。
lanzentraegerさんも、昔なら決して手に入らなかった情報を発信してくださっています。これからも、よろしくお願いします。
今までのように発信する側と受け取る側が完全に分離しているわけではなく、我々も発信することができるというところが何かを生んでくれるのかもしれません。ともかく、まだまだ未熟なメディアですので、みんなで育てていかなければならないと思います。
lanzentraegerさんも、昔なら決して手に入らなかった情報を発信してくださっています。これからも、よろしくお願いします。
by stochinai
| 2005-05-14 18:57
| 科学一般
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