2005年 06月 11日
小学生向け理科実験塾続々:小学校に理科実験を復活させよう
朝日新聞夕刊の第一面に土曜フォーカスという特集でデカデカと出ている記事です。
理科離れとか、新指導要領とか、週休2日制とか、保護者にとっては公立の小学校では十分な教育をしてくれていないのではないかという不安もあって、こういう塾がはやる事情は良くわかります。一般的に言って、小学生の時に遊びのように理科の実験をさせてもらえたら、子供の多くはうれしいでしょうし、場合によっては科学に目覚めるということもあると思います。
しかし、ある塾では週一回で年間の授業量が27万円ということです。この金額をどう見るかということですが、決して安くはないと思いますし、塾の定員もあって希望者が全員入れる状態ではないということです。
私が子供の頃にも塾というものはありましたし、それはお金持ちの子供だけが行くものだという雰囲気がありました。さらに、塾に行っている子供がそんなに楽しそうではなかったような気もして、うらやましいと思ったことはありませんでした。
でも、もしあの頃理科実験室のような塾があったら、理科好きの私としてはうらやましいと思ったに違いありません。私は貧乏な家に育ったので、望んでも行けない状況にあったと思います。
もちろん、理科実験塾に行かなかったからといって、将来科学者を目指すことができなくなるというものではありませんし、逆に無理に行かせられて理科嫌いになる子もいるかもしれません。
ですから、必ずしも子供全員をこのように充実した理科実験塾へ通わせるべきだなどとは全然思わないのですが、子供達に最低限与えるべき理科の実験は是非とも全員が受ける小学校教育の中で復活してもらいたいと思います。
義務教育の中で貧富の差なく受けることができる理科実験を復活させるに当たって、私たちができることがあったらできるだけの協力は惜しまないつもりです。大学にはそのようなサービス部門をもうける義務すら感じます。
ただし、そういう話の最後にはちょっとよけいなことを付け加えさせていただかなければならないのも今の大学の実情です。このような、いわゆる「社会サービス」を立ち上げる時に、今の大学では金銭的にも構造的にもほとんど保障をすることなく、お金もかけず人の手当をすることもなく、現員の教員にボランティアを要求する傾向があります。
それが、教員のやる気をそぐだけではなく、結果として「サービス」が形だけに終わってしまう無意味なアリバイ作りに終わることがしばしば起こっています。
新しいことをやろうとするのなら、大学がいままでやってきた機能が多少低下することを覚悟すること、それができないのならしっかりとお金をかけること、たくさんの人を手当てすることを覚悟しなけらばならないということを、大学経営陣には心してもらいたいと思います。そうなってくれると、我々も心おきなく協力できます。よろしくお願いします。
理科離れとか、新指導要領とか、週休2日制とか、保護者にとっては公立の小学校では十分な教育をしてくれていないのではないかという不安もあって、こういう塾がはやる事情は良くわかります。一般的に言って、小学生の時に遊びのように理科の実験をさせてもらえたら、子供の多くはうれしいでしょうし、場合によっては科学に目覚めるということもあると思います。
しかし、ある塾では週一回で年間の授業量が27万円ということです。この金額をどう見るかということですが、決して安くはないと思いますし、塾の定員もあって希望者が全員入れる状態ではないということです。
私が子供の頃にも塾というものはありましたし、それはお金持ちの子供だけが行くものだという雰囲気がありました。さらに、塾に行っている子供がそんなに楽しそうではなかったような気もして、うらやましいと思ったことはありませんでした。
でも、もしあの頃理科実験室のような塾があったら、理科好きの私としてはうらやましいと思ったに違いありません。私は貧乏な家に育ったので、望んでも行けない状況にあったと思います。
もちろん、理科実験塾に行かなかったからといって、将来科学者を目指すことができなくなるというものではありませんし、逆に無理に行かせられて理科嫌いになる子もいるかもしれません。
ですから、必ずしも子供全員をこのように充実した理科実験塾へ通わせるべきだなどとは全然思わないのですが、子供達に最低限与えるべき理科の実験は是非とも全員が受ける小学校教育の中で復活してもらいたいと思います。
義務教育の中で貧富の差なく受けることができる理科実験を復活させるに当たって、私たちができることがあったらできるだけの協力は惜しまないつもりです。大学にはそのようなサービス部門をもうける義務すら感じます。
ただし、そういう話の最後にはちょっとよけいなことを付け加えさせていただかなければならないのも今の大学の実情です。このような、いわゆる「社会サービス」を立ち上げる時に、今の大学では金銭的にも構造的にもほとんど保障をすることなく、お金もかけず人の手当をすることもなく、現員の教員にボランティアを要求する傾向があります。
それが、教員のやる気をそぐだけではなく、結果として「サービス」が形だけに終わってしまう無意味なアリバイ作りに終わることがしばしば起こっています。
新しいことをやろうとするのなら、大学がいままでやってきた機能が多少低下することを覚悟すること、それができないのならしっかりとお金をかけること、たくさんの人を手当てすることを覚悟しなけらばならないということを、大学経営陣には心してもらいたいと思います。そうなってくれると、我々も心おきなく協力できます。よろしくお願いします。
高校生で”ふきこぼれ”た人っているじゃないですか。落ちこぼれではなくて。もう高校レベルの学習なんか程度が低くてやってられないような人たち。
そういう人に時間を無駄にさせずに、大学レベルの学習のお手伝いをしてあげられるようなことってできるんじゃないでしょうか。
たとえば、教養教育の講義に加えてあげるとか、一般教養ゼミナールに参加を許すとか。これなら大学教員の負担もぜんぜん増えないし、のんびりした大学生たちへの刺激にもなるわけだし。
そういう人に時間を無駄にさせずに、大学レベルの学習のお手伝いをしてあげられるようなことってできるんじゃないでしょうか。
たとえば、教養教育の講義に加えてあげるとか、一般教養ゼミナールに参加を許すとか。これなら大学教員の負担もぜんぜん増えないし、のんびりした大学生たちへの刺激にもなるわけだし。
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それいいですね。
実は今でも、私も分担担当しているオムニバスの「生命倫理」の講義には、札幌市内の高校生が何人か聴講に来ています。こういうのは、大歓迎ですね。私としては無料でいいので、どんどん潜り込んできて欲しいと思います。
実は今でも、私も分担担当しているオムニバスの「生命倫理」の講義には、札幌市内の高校生が何人か聴講に来ています。こういうのは、大歓迎ですね。私としては無料でいいので、どんどん潜り込んできて欲しいと思います。
by stochinai
| 2005-06-11 23:47
| 教育
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Comments(2)