5号館を出て

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デフォルトがいじめ

 今日のニュースで公立学校でのいじめ8年ぶりに増加(毎日)と出ていました。

 そこにトラックバックした方達のブログを読んでみると、いじめなんてどこにでもあった、減ったなどということこそが信じられない、増えてきたなんてあえて言うことか、いじめなんてなくなりはしない、今までは隠していただけなんじゃない、などなどこいういうニュースこそが信じられないという声が多いようです。

 私も、いじめがここに来て増えてきたという調査結果にはなんとなく納得できないものを感じました。

 あえて言うならば、今の世の中の人間関係はおたがいにいじめ合いの状態が基本(デフォルト)で、親切だったり思いやりがあったりするほうが珍しいという状況になっていると思います。

 それが、いつからそうなったのかと言われてもはっきりとは言えませんが、少なくとも30年前とは明らかに違うと感じられます。

 たとえば、教室で学生に「突然で悪いけど、来週は****ですから」などとアナウンスします。我々が学生の頃なら、今ならおせっかいと言われるかも知れませんが、そのような情報は別のいくつかのルートを通じてたとえしばらく学校へ来ていなかった人間にも伝えられたものだったように思います。

 それが、最近はその情報が学生同士で横に広がっていくということがほとんど期待できなくなっています。全員にプリントにして配布するか、ウェブで公示するか、どうしても知らせたい場合には全員にメールでもしないと伝わらないというのが今の状況です。

 学生は、教室で全員の前で質問をすることも少なくなり、知りたいことがある場合には講義の後で個人的に聞きにきます。その質問と答えはみんなに役に立つから、是非とも公開の場で質問して欲しいと思うようなことでも、個人的に聞きにきます。それが、一人ずつ何人も繰り返されることもあります。

 この横のつながりのなさというものが、「意地悪」あるいは「いじめ」につながっていないか、といつも心配に思っていました。もちろん、情報を得られなかった学生は休んでいたり、話を聞いていなかったという自業自得の結果を、自己責任で受け取っているわけで、だれも悪いわけではないのですが、結果的にはいじめになっていないだろうか、と常々考えています。

 つまり、いじめようなどとは誰も思ってはいないけれども、結果的にいじめているのと同じことになっているという状態が、一般的=デフォルトなのが今の社会だというのが私の感想です。

 そして、それが日本に特異的なことだとも思えないのは、数日前に韓国の軍人が上官や同僚多数を手投げ弾や小銃で殺したという事件の原因がいじめだったということや、もちろん山口県で自作の爆弾を同級生に投げつけた事件の原因もいじめだったという事件と似たようなことが、世界的にたくさん起こるようになっていると思われるからなのです。

 最近は欧米でもいじめということが意識されてきたのか、映画を見てもブリング bullying といういじめを意味する言葉が良く出てくるようになりましたし、数ヶ月前には小学生の net bullying に関する番組まであったと記憶しています。

 6月18日に配信された第203回JMM [Japan Mail Media]で、冷泉彰彦さんが『from 911/USAレポート』 で、「『いじめ』との戦い」という記事を書かれています。その中で、アメリカでもいじめが大きな問題になっている理由のなかで、アメリカの日本化という興味深い分析をなさっています。ちょっと長いですが、引用させてもらいます。

「では、どうして2000年あたりから突然「いじめ」が流行し出したのでしょうか。私には、日本の状況と似ているように思えてなりません。日本では80年代の好況に拝金主義が流行する一方で、親の労働時間が長くなり、家族はすれ違いになって行きました。同時に共通テストなどによる学歴の序列化が進み、いわば、物質的な価値観の流行、親の子供への保護の総量の低下、更に単純すぎる競争システムによる若年層へのプレッシャーが一気に押し寄せたと見ることができます。更に、90年代不況は、この三つの問題を更に深刻化させながら子供を含めた社会に不安感を与え、事態を悪化させたように思います。

 アメリカの場合は、それがずれています。90年代の好況が拝金主義をもたらす一方で、進学熱も高まりました。一方で、親の労働時間は長くなり、子供への保護の総量は低下、こうした問題を抱えたまま2000年のITバブル崩壊により社会不安が拡大、更にテロや戦争による不安感や社会の分裂が追い討ちをかけている、時系列で整理するとそういうことになるのではないでしょうか。こう考えると、アメリカで起きつつあることと、日本で起きたことはほとんど重なってきて見えるのです。」

 アメリカで起こっていることが10年後には日本でも起こると言われてきましたが、こといじめに関する限りは日本がアメリカの10年先を行っていたということでしょうか。

 この件に関しては、先行していることを喜べませんね。
Commented by Armaca at 2005-06-22 23:15 x
はじめまして、すみません、講義の後で質問する口です。
小学生の頃は授業中でも質問していたんですけどね、いつのまにかコソコソ質問するようになりました。
思い出せば、授業中に質問すると、目立ち何故か孤立していきました。
挙げ句の果てに「空気よめ」とか言われる始末。
それでも我関せずで唯我独尊を保っていると、教室で居場所が無くなるんですよ。
それで、いつのまにやらこそこそと・・・自分勝手になりました。

 お知らせが広がらないのでも、休んでもダチでも教えてくれませんでしたね、
単に知らないことに気がつかなかっただけじゃないかと思います。
周りに気を配れないからじゃないかと、または他者に無関心なのかもしれません。
おかげで、必要な情報は自分で獲得することを覚えました。

 ちょっと横の広がりで、触発されたのでお邪魔いたしました。
Commented by stochinai at 2005-06-23 14:55
 現場(?)からのコメント、ありがとうございました。
 とても良く理解できる内容で、参考になりました。これからもよろしくお願いします。
Commented by akihiroino at 2005-06-23 16:15
不満があるなら面と向かって言うべきで、「空気を読め」なんてことを、「空気」で教えるのは「いじめ」そのものでしょう。
詳しくは、「うるさい日本の私 それから」(中島義道)に考察があります。
Commented by mikami at 2005-06-24 00:06 x
デフォルトがいじめ。「まさに!」という思いで拝見しました。パソコンを使っているとよく出てくる「デフォルト」という語の有無を言わせない感じが、この社会に巣くう陰湿な暴力性をズバリ表現しています。

が、希望もあります。例えば、少し前に取り上げられていた「アカハラ」の問題。以前であれば「いじめ」とは捉えられなかったことが「いじめ」として問題化されるようになっています。実はそうした“告発”自体に問題があるケースも少なくないのかもしれませんが、大事なことは、何が「いじめ」であるのかの定義が、一部の人に独占されるのではなく、開かれた論争の場に引っぱり出されるようになっていくことです。

そんな方向への動きも、「デフォルトがいじめ」の風潮と同時に展開する、今の社会のもう一つの側面だと思います。案外ここが踏ん張り所なのかもしれません。
Commented by stochinai at 2005-06-24 20:15
 「自己責任バッシング」と「ハラスメント糾弾」が、今の社会が同時に持っている二つの側面だというご指摘には頷けるものがあります。
 そうやって引き裂かれた「市民」がどうやってひとつの国を形作っていくのかが試されている時代なのだとも言えるでしょう。
 踏ん張りどころといえばその通りだとも思いますが、踏ん張りきれなかったらどうしようという不安もあるのですが、やるべきことは決まっているようにも思えます。

 ともかく、いろいろやってみるしかないですね。
by stochinai | 2005-06-21 20:42 | つぶやき | Comments(5)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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