5号館を出て

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北大に南部藩学生寮としてつくられた巌鷲寮(がんじゅりょう)

 10日ほど前の5日に新しい生協会館本店の壁に一枚のプレートが貼られ、その除幕式が行われたという記事が7日の北海道新聞の札幌版朝刊に出ていたそうです。その道新の記事に添えられていた写真を引用させてもらいます。
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 そのプレートの写真を撮ってきました。

 生協本店の全景です。
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 プレートは正面左下の自動販売機の右側にありました。
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 書いてあることを読むとおわかりになると思いますが、今でもあちこちにある東北各県の県人寮のうち、岩手県のものがなかったのですが、岩手県というくくりではなく「旧南部藩」というくくりで寮を作った最初の場所が今の生協本店の場所だったようです。

 このあたりの経緯は、今は「佐藤・新渡戸記念寮」と名前が変わった巌鷲寮のホームページと、なぜか巌鷲寮の建築を請け負うことになった鹿島建設のホームページに詳しく書かれています。

 巌鷲寮が竣工した昭和2年頃の北大はもう、今と余り変わらないくらいの規模に展開されていたことが北大百年史(鹿島のホームページに引用)に掲載されている絵からもわかります。
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 その後、巌鷲寮は建て替えや移転を繰り返し、4代目の建物が現在の場所に建っているということが、寮のホームページの写真からわかります。最初の寮が北大構内に立てられたのは、その時の北海道帝国大学の初代総長・佐藤昌介も岩手県花巻出身だったということも関係があるかもしれません。

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 この写真で見てわかるように現在の佐藤・新渡戸記念寮は非常に風格がありながらモダンな建物になっています。

 こちらも本物の写真を撮ってきてあります。まずは正面から全体を見たものをどうぞ。かなり贅沢な作りであることがひと目でわかります。
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 玄関です。
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 貼ってあるプレート。
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 公園に面した裏も素敵です。
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 私も南部藩士の末裔の一人であり、さらに北大に長く関わっていながら、この巌鷲寮のことについては正直言ってあまり良く知りませんでした。今回、小笠原先生などが生協会館にプレートを付けるということを聞いて初めてちょっと調べてみて、我が身の無知を恥じております。

 最初の募金運動には農学部の葛西勝彌助教授とともに栃内吉彦教授も力を尽くしたということもわかり、現在も続く南部藩というつながりの不思議さを改めて噛み締めているところです。
by stochinai | 2014-04-15 19:37 | 大学・高等教育 | Comments(0)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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