5号館を出て

shinka3.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

巨大なものがうち並ぶ盛岡

 昨日ご紹介したように、トチノキやヤマボウシが巨木化しているのが目についた盛岡ですが、盛岡城内にはとんでもなく巨大なトチノキがありました。

巨大なものがうち並ぶ盛岡_c0025115_22111653.jpg

 しかも、その木にびっしりと花もついているのですから二重に驚きでした。

 フジもここでは巨木化していました。

巨大なものがうち並ぶ盛岡_c0025115_22131365.jpg

 この写真ではちょっとわかりにくいかもしれませんが、ひとかかえもある太さになっており、こんな太いものは見たことがありません。

 中津川沿いにあるユリノキの林も巨木です。

巨大なものがうち並ぶ盛岡_c0025115_2218529.jpg

 巨木の存在は、気候があっているだけでなく、長い年月をかけて人々に慈しみ続けられてきたことを示していると感じられます。

 植物だけではなく、南部は馬も巨大です。これはお祭りに参加していた農耕馬です。今や純粋の南部駒は残っていないと言われていますが、この馬の足の太さは昔の農耕馬を彷彿させてくれます。今はなき南部駒もこのような体躯の持ち主だったことは想像できます。

巨大なものがうち並ぶ盛岡_c0025115_22315673.jpg

 民芸品のチャグチャグ馬コの太い足はリアルに描いた結果そうなったのだということが実感されます。

巨大なものがうち並ぶ盛岡_c0025115_22344551.jpg

 巨大つながりでいくと、盛岡は巨石の宝庫でもあったようで、その石で盛岡城の石垣が作られました。

 石垣を作るために近辺にあった石を切って運んだらしいのですが、あちこちに石垣にならずに放置された石が残っています。使おうと思って準備しながら、結局使われなかった石を「残念石」というのだそうで、ここにもそういう石が残っていると地図に示されています。

巨大なものがうち並ぶ盛岡_c0025115_22425520.jpg

 ところが実際にそのあたりを見渡しても、これが残念石ですという表示がないため、どれがそれなのか確信が持てません。

 地図で示された付近で見つけた四角く削られていながら放置されたと思われるこれあたりが残念石なのかもしれません。

巨大なものがうち並ぶ盛岡_c0025115_2244464.jpg

 そういえば、今年は花の着きが悪かったと心配されていた、巨石を割りながら育ったサクラですが、確かにかなり心配な状況になっていました。

巨大なものがうち並ぶ盛岡_c0025115_22472355.jpg

 このままだと、遅かれ早かれ枯死するということになるのかもしれませんが、サクラがなくなった後に割れた巨石だけが残されて、何百年かした後にそれを見た人は誰が巨岩を割ったと思うのでしょう。

 自然の営みの中で、岩の時間、植物の時間そしてそれらに比べるとあっという間に過ぎ去ってしまうヒトの時間を考えると、地球と生物と社会の歴史の間にいろいろな「物語」が生じる理由がちょっとだけ想像できる気がしてきます。

 盛岡は私の想像力を掻き立てる非常に教育的なところだと、訪れるたびに思うのでした。
Commented by さなえ at 2014-05-27 05:54 x
普段RSSリーダーの方で拝見するので「お宅」が一新されているのに気づきませんでした。くつろぎの間に、すっかりイメージチェンジですね。
盛岡は友人と行きましたが彼女の好きなお店周りになってしまい、こういう面白そうなところがあると知りませんでした。栃(トチノキももトチも同じ漢字なんですね)が多いのにトチナイなんですか…w。トチアルじゃからかわれたでしょうねw。失礼
Commented by stochinai at 2014-05-27 13:30
 少なくともお城の周辺はいろいろなものがコンパクトにまとまっていますので、徒歩でいろいろなところを回れます。京都もそうですが、昔の街は徒歩での移動が前提なので、意外とアクセスが簡単で助かります。

 また、同じトチでも最近テレビによく出てくる栩はトチノキではなく、クヌギだそうです(笑)。

 小学校の頃は借家に住んでいたので本当に「土地無い」でした。中学校の先生がそういう心無い冗談を言っていたのを今も思い出します(笑)。
Commented by alchemist at 2014-05-30 17:44 x
石割り桜、大変そうですね。リンゴの木の手入れなんかに慣れてる農家さんに何か智恵はないんでしょうか?岩手にも磐多いようですね。なんせ、石こ賢サンの故郷ですから。
ただ、残念石ということになると小豆島から積み出せなかった大坂築城のための石(複数)の方が有名かも知れません。
自然に路頭した岩盤の廻りを石垣でかためている不思議な城が中山道沿いの苗木城です。明治に取り壊された天守なんてハの字(上から見て)に並んだ磐を利用してその上に一番面積の大きな三階を置き、二つの磐のスキマになっている空間(ハの字の二つの斜め棒の間)に三階より小さな二階、二階より小さな一階を嵌め込むという独創的なものになっています。
Commented by stochinai at 2014-05-30 18:41
 私は石割桜は寿命が尽きたものとして、ゆっくりと終わらせてあげるのがいいのではないかと思っています。日本のあちこちにある老齢のサクラはどれもみな包帯や支え棒で痛々しく維持されており、見るのがつらくなります。それよりは世代交替させて、新しい若木のサクラに植え替えてあげるほうが心安らぐと思うのは私だけでしょうか。

 土木用の重機もない時代に日本中にお城が作られたのは、今から考えるとほんとうに奇跡的なこととも思えます。それだけに、お城ごとに完全にオリジナルな設計がされているというおもしろさはありそうですね。機会があったら勉強してみたくなりました。
Commented by alchemist at 2014-05-31 15:13 x
原則的に戦時築城ですから、敷地を完全に平地にしたり、その隅を完全に矩形にしたりという整形から外れた部分があります。その影響が建物に出てきますから、一階平面が不等辺五角形の天守(岡山城)、一階平面が平行四辺形の大天守と不等辺五角形の小天守(和歌山城)など、大工さん泣かせの構造になります。姫路城大天守も実は矩形平面ではありません。それよりも大変なのは天守背後の多聞櫓(石垣の端に沿って塀の代わりに建つ一重櫓、石垣の塁線に沿ってカーブしてます。
by stochinai | 2014-05-26 22:55 | その他 | Comments(5)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


by stochinai