2015年 09月 11日
台風崩れ一過 不思議な空
東日本・東北に膨大な被害を与えた台風18号崩れと17号のペアが、遅いながらも北海道をうかがっているという脅しにビクビクしていたのですが、どうやら札幌を含む道央地域はよけてくれたようで、夕方になるまで雨は一滴も降りませんでした。これが今朝の風の流れです。
この頃、東北地方にはまだまだ豪雨が降っていたので、その後北海道にも雨が襲いかかる可能性は十分にあったのだと思いますが道東を除き北海道は被害が出るほどのところはなかったようです。
夕方になってだんだんと空が明るくなってきた時、西の空になんとも不思議な周期性をもった雲のかたまりの行列が見られました。
なにかおもしろい自然現象が起こっているのだとおもいますが、残念なことに私にはなにもわかりません。
この後はなんともさわやかな秋の夕暮れの雰囲気が広がってきました。
せっかくですので、手稲山も撮しておきます。
そして、だんだんといい雰囲気の夕空になり、
暮れていくのでありました。
夕焼けがあまり赤くはならなかったので、明日も晴れは期待できないかもしれません。
この頃、東北地方にはまだまだ豪雨が降っていたので、その後北海道にも雨が襲いかかる可能性は十分にあったのだと思いますが道東を除き北海道は被害が出るほどのところはなかったようです。
夕方になってだんだんと空が明るくなってきた時、西の空になんとも不思議な周期性をもった雲のかたまりの行列が見られました。
なにかおもしろい自然現象が起こっているのだとおもいますが、残念なことに私にはなにもわかりません。
この後はなんともさわやかな秋の夕暮れの雰囲気が広がってきました。
せっかくですので、手稲山も撮しておきます。
そして、だんだんといい雰囲気の夕空になり、
暮れていくのでありました。
夕焼けがあまり赤くはならなかったので、明日も晴れは期待できないかもしれません。
Commented
by
alchemist
at 2015-09-13 16:34
x
鬼怒川は毛野川だったらしく、毛野国(後の上野と下野の両国)を流れている川というのが原義ではないでしょうか。江戸時代に利根川の水路が付け替えられて、太平洋に流れ込むようになりましたが、それ以前、古河のあたりから東に流れていたのが常陸川(常陸の国を流れる川)と呼ばれていたのと似ています。
今回氾濫が起きた常総市のあたりは、元々は西を流れる鬼怒川と東を流れる子貝川の氾濫原でもありました。かつての鬼怒川は下妻市のあたりで東流し、子貝川と合流した後、筑波山の西側を南下、常陸台地の辺縁に沿って東へと向きを変え、牛久沼の水を集めながら竜ヶ崎あたりで「香取の海」に流れ込んでいました。南北朝の頃までは鬼怒川と子貝川の合流地点から北は騰波ノ江、大宝沼、館沼、砂沼などの湖水地帯となっており、その湖水を防御の要とした大宝城や関城に南朝方が籠城し、ことに関城では勤王よりも実利を重視する武士たちに苛立った北畠親房が、神皇正統記を書いていました(当時の武士にはプロパガンダとしては成功しなかったようですが)。
10世紀半ば鬼怒川本流は、子貝川から分離して西に(ほぼ現在の流域)に移動しますが、鬼怒川—子貝川間の緩傾斜地面を蛇行した痕跡も残っており、この辺りが今回の氾濫面になります。
西遷した後も、鬼怒川は水海道南方の大木台地が障壁となって東に流れを変え、子貝川と合流していました。江戸初期に、障壁である大木台地を開削し、子貝川と分離された鬼怒川は、古河南方の赤堀川開削で旧常陸川に流入することになった利根川と直接繋がりました。この大木開削部分の流量が、今回の水害では上流側の降雨量に対して不足しており、そのために水量を支えきれなくなった堤防から旧氾濫原へと水が流れ出したものでしょう。
今回氾濫が起きた常総市のあたりは、元々は西を流れる鬼怒川と東を流れる子貝川の氾濫原でもありました。かつての鬼怒川は下妻市のあたりで東流し、子貝川と合流した後、筑波山の西側を南下、常陸台地の辺縁に沿って東へと向きを変え、牛久沼の水を集めながら竜ヶ崎あたりで「香取の海」に流れ込んでいました。南北朝の頃までは鬼怒川と子貝川の合流地点から北は騰波ノ江、大宝沼、館沼、砂沼などの湖水地帯となっており、その湖水を防御の要とした大宝城や関城に南朝方が籠城し、ことに関城では勤王よりも実利を重視する武士たちに苛立った北畠親房が、神皇正統記を書いていました(当時の武士にはプロパガンダとしては成功しなかったようですが)。
10世紀半ば鬼怒川本流は、子貝川から分離して西に(ほぼ現在の流域)に移動しますが、鬼怒川—子貝川間の緩傾斜地面を蛇行した痕跡も残っており、この辺りが今回の氾濫面になります。
西遷した後も、鬼怒川は水海道南方の大木台地が障壁となって東に流れを変え、子貝川と合流していました。江戸初期に、障壁である大木台地を開削し、子貝川と分離された鬼怒川は、古河南方の赤堀川開削で旧常陸川に流入することになった利根川と直接繋がりました。この大木開削部分の流量が、今回の水害では上流側の降雨量に対して不足しており、そのために水量を支えきれなくなった堤防から旧氾濫原へと水が流れ出したものでしょう。
0
Commented
by
STOCHINAI at 2015-09-13 21:34
詳細な解説をありがとうございます。毛野川の話は最近どこか呼んで知りましたが、毛野川が鬼怒川に変わったのはやはり暴れ川だったことが原因かもしれないという「説」は今回のような事例があると説得力を持つと思わされます。
最近は雨の降り方がひどくなってきているとは感じますが、日本の夏と洪水は昔から切っても切り離せない関係が続いていますので、逆に治水で洪水を防ぐことができるという「神話」を作ることこそが政策的誤りなのかもしれないとも思います。原発事故にしてもそうですが、ボーイスカウトではないですが「備えよ常に」こそが最低の防御線だと感じさせられることが多い昨今です。
最近は雨の降り方がひどくなってきているとは感じますが、日本の夏と洪水は昔から切っても切り離せない関係が続いていますので、逆に治水で洪水を防ぐことができるという「神話」を作ることこそが政策的誤りなのかもしれないとも思います。原発事故にしてもそうですが、ボーイスカウトではないですが「備えよ常に」こそが最低の防御線だと感じさせられることが多い昨今です。
by STOCHINAI
| 2015-09-11 18:51
| 札幌・北海道
|
Comments(2)