5号館を出て

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なぜ科学コミュニケーションは失敗するか

 CoSTEPの特任教員のNさんにおだてられて、科学技術コミュニケーション・スキル「ブログ・コミュニケーション」というタイトルの演習を担当することになっています。ここまでは覚悟ができていました。

 ところが、そのあとでSさんとKさんに頼まれて、だいたい演習でやろうとしていることと同じような内容で良いので、名古屋大学で行われる科学技術社会論学会(STS学会)のワークショップの発表者のひとりになることになりました。ワークショップのタイトルは「科学コミュニケーションの双方向性をいかに実現するか~〈シビック・ジャーナリズム〉に学ぶ」ということです。

 ほとんど趣味としてやっているこのブログに、ときおり専門の生物学ネタが取り上げられているとはいっても、科学技術社会論などという大それたところで「これが科学コミュニケーションです」などと偉そうに発表するだけでも「困ったなあ」と思っていたのですが、なんとKさんから「『そんな話は聞いていないぞ』とお思いかもしれませんが、何卒ご容赦下さい」と言いながら、容赦なく3000字程度の要旨を送れとの命が下りました。闇夜で背後から斬りつけられた感じです。

 やられた~

 などととおちゃらけている場合でもなく、少しはなにかを考えねばなりません。ワークショップの主旨はなかなかカッコいいです。

趣旨の説明:<欠如モデルを脱却した,双方向的なコミュニケーション>が必要であることは,つとに指摘されてきた。しかし,その具体的姿がどのようなものなのか,またいかにすればそれが実現できるのか,などについてはあまり議論されていない。本ワークショップでは,<シビック・ジャーナリズム>の視点や実践例から学ぶことをとおして,こうした点について議論を深める。

 欠如モデルなどという、市民とのコミュニケーションが成立しそうもない言葉が使われているのは、この文章が専門家に対して発せられているからですが、まずはこういう言葉が禁句になっているということの自覚が科学コミュニケーションには必要かもしれません。ちなみに「欠如モデル」とは、「大衆には科学技術の知識が欠如しているから、その欠如を埋めなければならない」というものだそうです。まあ、これが失敗してきたからこそ、科学技術コミュニケーションとなんとかしようという世の中の流れが出てきたことはわかります。

 さて、こういうことが瞬時に検索できるのがインターネットの強みです。では、インターネットで調べることは科学コミュニケーションでしょうか。結果的には、そう言えないこともないですが、コミュニケーションにおける双方向性がなんとなく足りません。

 実は「欠如モデル」を説明している同じ場所に、サイエンスコミュニケーションにはもう一つの定義があって、「対話(interaction)モデル」というもののだそうです。その意味は、「市民と専門家がもっている知識は、まったく質が異なるものである。両者はそれぞれの世界観の中で、科学技術を理解したいと思っているし、それぞれに固有の知識をもっている。だから、両者はその解釈の違いを埋めて、科学技術への正しい理解や社会的利用の公正化のためにも、もっと対話を深めるべきだ」という、対話による合意形成のモデルなのだそうです。

 おそらく私に命じられたのは、ブログがこの対話モデルの実例となるのかならないのかを体験から語ってみろということなのではないか、と気がつき始めたところです(おいおい大丈夫なのか、とKさんが焦っているのが、目に見えるようです。スミマセン)。

 趣旨の説明の中にあるシビック・ジャーナリズムというのが、大きなキーワードのようです。シンポジウムの目玉は私もネットで良く読ませていただいている河北新報という新聞社の記者の寺島英弥さんという方で、最近「シビック・ジャーナリズムの挑戦―コミュニティとつながる米国の地方紙」という本を出された方です。アメリカで進行しつつある市民ジャーナリズムの動きがこれからの科学コミュニケーションの参考になるに違いないというのが、ワークショップ・オーガナイザーの考えに違いありません。

 そういう意味においては、確かにブログはものすごい潜在能力を持っているような気がします。

 しばらくやってみるとわかるのですが、「はやっている」ブログではサイトの管理者が読者と同じ立ち位置にいることがわかります。講演会や講義のように演壇の上にいたり、テレビやラジオのように放送局にいたり、というのと同じような上下関係が感じられるブログサイトにはまったく反応がないか、ものすごい反発の嵐が吹き荒れる「炎上」のようなことがしばしば見られます。

 この位置関係は、飲み屋のカウンターで隣同士になった間柄に似ているのかもしれません。

 飲み屋でとなりに座った人と、楽しく自分の専門の学問の話ができる状態は、ブログコミュニケーションがうまくいっている時に似ていると思います。飲み屋ですから、たとえ生物学の話をしていたとしても、いつの間にか政治の話になったり映画の話になったり、あるいはちょっとエッチな話になったりもします。しかし、そうこうしているうちにまた生物学の話に戻ったりもします。

 このような生活感の中にどっぷりと浸った科学談義が、ブログにおける科学コミュニケーションなのではないかと、いま思っています。

 それが新時代の科学コミュニケーションになるのか、ただのほら話に終わるのかは神様だけがご存じということだと思いますが、現時点で私の感触はかなりポジティブです。

 そんなことくらいしか話せないと思うんですけど、いいんでしょうか、、、、。
Commented by blue at 2005-09-17 06:52 x
 関係ないかもしれませんが、米国等では科学雑誌が売れますね。ちょっと飛行機の待合で、オムニだのサイエンティフィック・アメリカなどを読む人が居る。普通のビジネスマンです。書いていることは、科学です。でも日本はそんな雑誌を読むひとは少ない。読むのはそれなりのひと。かつ、とんでもない民間療法やオカルト怪奇現象の週刊誌は売れる。科学コミュニケーションは難しですね。ブローグでは、参加者の偏りありますね。まあ、それは言わないことですね。(*_*)
Commented by stochinai at 2005-09-17 14:10
 関係あると思いますよ。
 その差は科学がエンターテインメント(娯楽、趣味)のひとつになっているかどうかということではないか、という気がします。最近はテレビで、健康や食品関連の「科学」を装ったエンターテインメント番組が多いようですが、リテラシーなしのところにぶちこまれますのであまり疑問もなく「民間療法やオカルト怪奇現象」と区別されずに提供されて市民を混乱させているのかもしれません。
 まあ、アメリカでも健康食品やどういう運動がいいとか悪いとかに関するいい加減な話が出ては消えるということを繰り返していますので、必ずしもかの国のヒトの科学リテラシーが高いということでもないように思います。
Commented by blue at 2005-09-17 14:32 x
>必ずしもかの国のヒトの科学リテラシーが高いということでもない
そうですね。でも、アマチュア団体のトップ?クラスは凄いレベルです。どうしてああなんだろうと、、患者家族団体がすごいアカデミックは運営をボランティアでしているなど、、、。医療ではエセ科学が横行して困る。あの痴呆予防も根拠がはっきりしないし、、、。ふー、、、。
Commented by stochinai at 2005-09-17 15:10
>患者家族団体
 日本にもこういう方々がいらっしゃるようなので、我々もお手伝いしたいと思います。とりあえず、ルートというかチャンネルといいうか、コミュニケートできる窓をたくさん開けていくことが当面の仕事なのかもしれません。
Commented by ヤマグ at 2005-09-17 22:52 x
日本は教授するという雰囲気は強いと思います。学会でもそうですよね。
ディスカッションをするというよりも、授業を聞くに近い感じというか。
しかも、先生はすぐにこんなことも知らないのかと言ってしまう。

自分はそんなところが変わるようなことがあれば、少しは変化があるのではないかと。
Commented by stochinai at 2005-09-20 12:55
 ワークショップやサイエンスカフェなど、名前は輸入されているのですが、その内容は多くのものが旧来の「講演会」そのままであるというケースも多いようです。ここにも換骨奪胎の日本文化があるのでしょうか。
 カレーライスなどのように導入後、日本風に咀嚼して我々の血肉の一部なるなでに育てあげることが(難しいですけれども)大切なことだと思っています。
 せっかくの機会を無駄にしないようにしなければいけませんね。
by stochinai | 2005-09-16 23:10 | CoSTEP | Comments(6)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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