5号館を出て

shinka3.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

「セレンディピティ」という言葉を避けた「ひらめき本」

 発売になったばかりの「科学史ひらめき図鑑」ですが、8%の消費税込みの価格が1944円のこの本は誰に読んでもらいたいのでしょうか。税込みで2000円以下というのは大学生にとってはマジック価格で教科書の売れ行きが2000円を境にガラリと変わると言われています。2000円以下なら教科書にしますといえばほとんどの学生が買ってくれますが、3500円とか7800円とかになってくると医学部や歯学部でもない限り多くの学生が買うのを躊躇します。逆に言うと2000円なら教科書として授業でしか使わないとしても買ってくれる値段だということです。

「セレンディピティ」という言葉を避けた「ひらめき本」_c0025115_21303750.jpg

 この本を教科書に使う大学の授業はおそらくないだろうと思われますし、この本の主な読者はビジネスパーソンということになっています。ビジネスで本を読まれる方々はどのくらいの価格まで気楽に購入してくれるのかわかりませんが、自分で給料を稼いでいるのだとしたら2000円は、役に立ってくれるものならばわりと気軽に変える価格なのかもしれません。

 というわけではありますが、多くのビジネスパーソンは自分の仕事の役に立つ本を探しているときに「科学史ひらめき」などという言葉にぶつかってもスルーするだろうという危惧を覚えました。現代から未来へと仕事をしている我々に「科学史」などという分野も時代も違うものに触手が伸びるわけはありません。

 それでもこの本はビジネスパーソンが仕事上で行き詰まり突破口を探している時に人類の過去2000年あまりの「科学者」と共通する悩みがあるはずだという新しい見方を提供し、それを突破した過去の科学技術者の「ひらめき」を追体験してもらうことが、今みなさん個々人が抱えている悩みを突破する助けになるはずだという確信のもとに書かれています。

 科学者が偶然のひらめきによって長年の悩みを突破できるような経験をすることはしばしば起こることで、そのことを「セレンディピティ」という言葉で表すことがあります。この本を見た時にこれはセレンディピティについて書かれているものだろうと思ったのですが、ページをめくっていろいろと探してみてもおそらくこの本の中ではその我々にはなじみの深い「セレンディピティ」という言葉が使われていないようです。もちろん、この本の著者や監修のみなさんがその言葉を知らないはずはないのでこの本の中ではその言葉を「禁句」にするというルールが貫かれているのではないかと感じました。

 セレンディピティは科学者の言葉だから、悩めるビジネスパーソンを救おうというこの本ではその言葉は似合わないと思ったのかもしれません。いずれにしても我々科学者にとってはあまりにも普通になっているジャーゴン(他の分野では通じない専門用語)の一つである「セレンディピティ」を排除しているということにもこの本のポリシーを感じているところです。

 「科学史」という切り口で考えていくと、昔々は文系も理系もなくみんなただ謎に向かって悩んでいただけだということがわかります。文系出身者が多いと思われる現代のビジネスパーソンにとって、理系だと考えられがちな過去の哲学者や科学者の悩みとその解決法が実は今「文系の悩み」と思われがちなビジネスの現場における悩みと共通するものが多いに違いなく、その突破は過去の研究者がトライした方法と同じやり方でできるかもしれませんよ、という提案がこれでもかという70のケーススタディとして描かれています。

「セレンディピティ」という言葉を避けた「ひらめき本」_c0025115_22203456.jpg


 現実の世界で起こる謎や悩みに理系も文系もありませんので、入口の前で振り分けてしまうことは非常に損なことだろうと私も思います。私は自然科学系の研究者でしたが、研究の進め方やトラブルの解消の参考にたくさんのビジネス書を読んで非常に参考になった記憶があります。というわけで、文系が多いと言われるビジネスパーソンの方々の悩みやトラブルの解消に過去の自然科学者がとったいろいろな作戦が役に立つ可能性もかなりあるのではなかろうかというのがこの本の作者の方々の意図かとも思われます。

 大科学者の考えることなんて理解できるわけはないというのが一般の方々の感想だとは思いますが、そこは科学技術コミュニケーションに特化して10年間やってきたスペースタイムさんのお得意のところ、まったく基礎知識なしにいろいろなことが理解できるように書かれて、いや描かれていますので「図鑑」なのです。

 絵解きされているので小学生でも理解できるようですが、内容はやはりそれなりに深く描かれており、年齢の高い層にはそれなりに奥深い思想までもが響くようになっています。

 とりあえず困ったことがあるのでそれを解決してもらう方法があると思って読んでもダメかもしれませんが、過去の偉人が実は我々とそんなに違わない悩みをちょっとしたひらめきで乗り越えていった歴史を楽しく読んでいるうちに頭の体操になって、どんどん柔軟な思考ができる脳へと鍛えられるというような軽い気持ちで読むのがよろしいかと思います。

 ビジネスパーソン向けということになっていますが、実は自然科学の研究現場にいる方々にはかなり直接的に響くお話が満載です。日々研究に悩んでおられる皆さまにも頭を休めながらセレンディピティを得られる貴重な本ではないかとも思われます。

 というわけで書店ではビジネス書のところに並んでいることが多いかもしれませんが、万能薬として役に立つ実用書として一度手にとってみて損はないと思いますよ。








by STOCHINAI | 2019-01-20 22:27 | コミュニケーション | Comments(0)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


by stochinai