2005年 11月 26日
今の日本国民に臓器移植はなじまないのではないか
1997年に臓器移植法が施行されてから8年経ちます。
毎日新聞によると、26日、近畿地方の病院に窒息のため入院していた成人男性が、同日午前1時半過ぎに、臓器移植法に基づき脳死と判定されたとのことです。
今年になって脳死と判定された例がこれで9人目だそうで、驚いたことにこんなに少ない数でも今までの年間最多なのだということです。国内での脳死判定としてはこれが41例目で、臓器提供が実現すれば40例目になるとのことです。この記事を読むと、脳死になるとほぼすべてのケースで臓器提供がなされるようにも読めますが、臓器提供の意志がなければ脳死の判定をしないということなのではないかと思います。
私は来年早々出版される予定のある本に「これからは脳死者の数は減ることはあっても増えることはないだろう」と書きましたところ、査読をしてくださったある方が「脳死者は今後増えるのではないか」とのコメントをくださいました。医療が進歩すれば脳死に至る前に脳崩壊の進行を阻止できるでしょうし、場合によっては今までは脳死と判断されていたものが治療可能な損傷という判断に変わることもあるのではないかと思い、これからは脳死者は減るだろうと書きました。
その判断が正しいか間違っているかは未来に結果を見なければなりませんが、臓器移植を前提に脳死判定をするようになってから8年も経っているのに、いまだに年間10人に達しないということであれば、国内での脳死臓器移植が通常の治療方法になったとはとても言えません。11月15日付のライブドアニュースによれば、100万人当たりの肝臓移植者数(なぜ肝臓なのかは不明です:stochinai)を国別に比べると、米国が42.8人、カナダが33.2人、ヨーロッパの国々はスペインの47.7人、オーストリアの41.8人をはじめ、ほとんどの国々で20─30人で、日本は4.7人ということです。
銃の存在などを抜きにして考えると、同じような文化程度の国であるならば脳死者の発生率にそれほど大きな差がでないことが予想されますので、臓器移植の少なさは「日本では脳死判定がそれほど行われていない」ということを示しているのではないかと思います。上のニュースでも「国内の脳死で亡くなる人の数は7000 - 8000人と言われ」ていると書いています。ほとんどの方々は脳死判定を受けていないということです。
なぜ日本で、臓器移植法による脳死判定があまり行われないかというと、それはやはり臓器移植のドナーになっても良いという人が増えていないからでしょう。
このような状況を前にして、臓器移植を待っている患者さんに対する理解が足りないとか、脳死というものがわかっていないとか言っても、あまり状況が変化するとも思えません。
脳死になった時に、自分のからだを苦しんでいる患者さんを救うために使って欲しいという気持ちになるかどうかは、子どもの時からどのような社会でどのような教育を受けて育ってきたかということで決まるのではないでしょうか。家族の気持ちも同様だと思います。
今、日本では教育の荒廃が叫ばれています。法律で臓器を提供することを推奨しているだとすれば、臓器を提供するのは善良な国民ということになるでしょう。そうした善良な国民を育てるには最低でも15年から20年かかると思います。
臓器移植法などという法律ではなく、子ども達を育てる教育環境そのものを15年から20年計画で変える取り組みをすることだけが、進んで臓器提供の意志を持った子供達ひいては大人を育てることができると思います。
別に、意識して臓器提供の意志を持った人間を育てる必要などないと思います、単にしっかりとした社会的責任感を持った人間を育てるということがそこにつながっていくのだと思います。
くるくる方針の変わる小手先の改革の継続などではなく、しっかりと未来を見据えた息の長い一貫した政治を始めなければならない、引き返せないポイントに来ていることを感じます。
毎日新聞によると、26日、近畿地方の病院に窒息のため入院していた成人男性が、同日午前1時半過ぎに、臓器移植法に基づき脳死と判定されたとのことです。
今年になって脳死と判定された例がこれで9人目だそうで、驚いたことにこんなに少ない数でも今までの年間最多なのだということです。国内での脳死判定としてはこれが41例目で、臓器提供が実現すれば40例目になるとのことです。この記事を読むと、脳死になるとほぼすべてのケースで臓器提供がなされるようにも読めますが、臓器提供の意志がなければ脳死の判定をしないということなのではないかと思います。
私は来年早々出版される予定のある本に「これからは脳死者の数は減ることはあっても増えることはないだろう」と書きましたところ、査読をしてくださったある方が「脳死者は今後増えるのではないか」とのコメントをくださいました。医療が進歩すれば脳死に至る前に脳崩壊の進行を阻止できるでしょうし、場合によっては今までは脳死と判断されていたものが治療可能な損傷という判断に変わることもあるのではないかと思い、これからは脳死者は減るだろうと書きました。
その判断が正しいか間違っているかは未来に結果を見なければなりませんが、臓器移植を前提に脳死判定をするようになってから8年も経っているのに、いまだに年間10人に達しないということであれば、国内での脳死臓器移植が通常の治療方法になったとはとても言えません。11月15日付のライブドアニュースによれば、100万人当たりの肝臓移植者数(なぜ肝臓なのかは不明です:stochinai)を国別に比べると、米国が42.8人、カナダが33.2人、ヨーロッパの国々はスペインの47.7人、オーストリアの41.8人をはじめ、ほとんどの国々で20─30人で、日本は4.7人ということです。
銃の存在などを抜きにして考えると、同じような文化程度の国であるならば脳死者の発生率にそれほど大きな差がでないことが予想されますので、臓器移植の少なさは「日本では脳死判定がそれほど行われていない」ということを示しているのではないかと思います。上のニュースでも「国内の脳死で亡くなる人の数は7000 - 8000人と言われ」ていると書いています。ほとんどの方々は脳死判定を受けていないということです。
なぜ日本で、臓器移植法による脳死判定があまり行われないかというと、それはやはり臓器移植のドナーになっても良いという人が増えていないからでしょう。
このような状況を前にして、臓器移植を待っている患者さんに対する理解が足りないとか、脳死というものがわかっていないとか言っても、あまり状況が変化するとも思えません。
脳死になった時に、自分のからだを苦しんでいる患者さんを救うために使って欲しいという気持ちになるかどうかは、子どもの時からどのような社会でどのような教育を受けて育ってきたかということで決まるのではないでしょうか。家族の気持ちも同様だと思います。
今、日本では教育の荒廃が叫ばれています。法律で臓器を提供することを推奨しているだとすれば、臓器を提供するのは善良な国民ということになるでしょう。そうした善良な国民を育てるには最低でも15年から20年かかると思います。
臓器移植法などという法律ではなく、子ども達を育てる教育環境そのものを15年から20年計画で変える取り組みをすることだけが、進んで臓器提供の意志を持った子供達ひいては大人を育てることができると思います。
別に、意識して臓器提供の意志を持った人間を育てる必要などないと思います、単にしっかりとした社会的責任感を持った人間を育てるということがそこにつながっていくのだと思います。
くるくる方針の変わる小手先の改革の継続などではなく、しっかりと未来を見据えた息の長い一貫した政治を始めなければならない、引き返せないポイントに来ていることを感じます。
臓器移植をやっている人に、どうしてドナーが増えないかを聞いたところ、「手続きが遅いから」と答えました。
交通事故による脳死者がもっとも臓器移植ドナーになりやすいんですが、臓器移植が行われる前に、脳死状態を通り越して心臓死まで行ってしまう。
臓器移植カードによる意思表示があり、かつ、家族の承諾が得られるまで待っていたら手遅れなんですね。原則は臓器移植可、本人の生前意思による移植拒否があった場合のみ不可とでもしないと、移植は増えないだろうと言ってました。
交通事故による脳死者がもっとも臓器移植ドナーになりやすいんですが、臓器移植が行われる前に、脳死状態を通り越して心臓死まで行ってしまう。
臓器移植カードによる意思表示があり、かつ、家族の承諾が得られるまで待っていたら手遅れなんですね。原則は臓器移植可、本人の生前意思による移植拒否があった場合のみ不可とでもしないと、移植は増えないだろうと言ってました。
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脳死体からの無償譲渡を前提とした臓器移植は米国ですらドナー不足を解消できていません。無償の善意と言えば聞こえがいいが、単なる物乞いに過ぎないからです。物乞いで必要な物資が手に入るなら、社会の構成員はみんな物乞いをしています。
政府は、脳死体からの臓器有償譲渡を法制化すべきだと思う。対価の受取人は遺産相続者ということになります。
政府は、脳死体からの臓器有償譲渡を法制化すべきだと思う。対価の受取人は遺産相続者ということになります。

臓器移植、脳死、生殖医療・・・言葉はよく聞きますが、何が起きているのか正直わからないし、ちょっと怖いような気もします。いっぽうで、自分が当事者だったら、「病気を治して!」と訴えるだろうしなぁ。
・・と不勉強なコメントですみません。先日手にとった最相葉月さんの『いのち-生命科学に言葉はあるか-』(文春新書)。とても考えさせられる、興味深い本でした。
・・と不勉強なコメントですみません。先日手にとった最相葉月さんの『いのち-生命科学に言葉はあるか-』(文春新書)。とても考えさせられる、興味深い本でした。

流行語みたいになってしまった自己責任が日本で考案された理由が脳死移植を可能にする仕組みとして、だったようです。ただ、自己責任が取れる範囲と取れない範囲を考えると、脳死を自分の死とすると自己責任で決め得るかどうか(個人の死の決定の影響は該当者だけに留まるものではないかもしれません)微妙です。
その後、何でも自己責任にしてしまうブームが続いていますが、その裏で組織による失敗の責任が有耶無耶にされているようにも見えます。住基ネットを強引に導入して、情報もれが起きた時の責任は誰がとるんでしょう?元々、組織に甘く個人に厳しいお国柄ですから、先行きが懸念されます。
その後、何でも自己責任にしてしまうブームが続いていますが、その裏で組織による失敗の責任が有耶無耶にされているようにも見えます。住基ネットを強引に導入して、情報もれが起きた時の責任は誰がとるんでしょう?元々、組織に甘く個人に厳しいお国柄ですから、先行きが懸念されます。
結局、このドナーからの肝臓は北大で移植されたのですね。28時間以上もかかった手術だったそうで、手術チームの方々はほんとうにお疲れさまでした。今頃は死んだように眠っているのではないでしょうか。
さて、生きている自分のからだですら、自分の意志だけですべてを決定し処分して良いのかどうかは意見の分かれるところだと思いますから、ましてやすでに意見を言えなくなっている状態で自分のからだのことに決定権を持っているのかどうかはかなり怪しいことではあると思います。
それはそれとして、遺族に「葬儀費用」などの名目で応分の謝礼が払われることに関しては、私は賛成派です。
さて、生きている自分のからだですら、自分の意志だけですべてを決定し処分して良いのかどうかは意見の分かれるところだと思いますから、ましてやすでに意見を言えなくなっている状態で自分のからだのことに決定権を持っているのかどうかはかなり怪しいことではあると思います。
それはそれとして、遺族に「葬儀費用」などの名目で応分の謝礼が払われることに関しては、私は賛成派です。
TBありがとうございます。
厚労省の移植推進派の会議録などを読むと、「ほんとうにこの人たちは人助けをしようと思っているのか?」と恐ろしくなってしまいます。推進の“動機”が卑しい感じがします。
また、中国の死刑囚ドナーや貧困国での「闇臓器売買」の問題も、無視するわけにはいかないでしょう。「脳死」が、蘇生可能な状態にできるような技術が早く開発されることを祈っています。
厚労省の移植推進派の会議録などを読むと、「ほんとうにこの人たちは人助けをしようと思っているのか?」と恐ろしくなってしまいます。推進の“動機”が卑しい感じがします。
また、中国の死刑囚ドナーや貧困国での「闇臓器売買」の問題も、無視するわけにはいかないでしょう。「脳死」が、蘇生可能な状態にできるような技術が早く開発されることを祈っています。
by stochinai
| 2005-11-26 18:10
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