2020年 11月 01日
11月になりました
11月になりました。





朝日が見えない暗い一日の始まりでしたが、気温はそれほど低くないようです。
今朝最初に見たのはクリスマスカクタスでした。

毎日、次々に花を咲かせているのにじっくりと見ることがなくなってきているのが申し訳ない感じでしたので、今日は写真に撮っておきました。
これだけではちょっと寂しいので、いままでほとんど登場することがなかったと思われるハートホヤです。

おそらく何かが気に入らないのだと思いますが、ここへ来て数年たちますがぐんぐん育ったという記憶がありません。最近は霧を吹きつけていて、ちょっとは反応がある気配なのですが、まだ気に入ってもらえません。とはいっても枯れるわけでもないので、なんとか花を咲かせるところくらいまではもっていきたいと思っていますが、なかなか難しいものです。
さて、昨日からショーン・コネリーの死去のニュースが世界中を駆けめぐっております。さすがに女王陛下の007の人気は世界的なものだったことがよくわかります。私がショーン・コネリーことジェームズ・ボンドに出会ったのは中学生の頃だったと思いますが、衝撃的におもしろかったことは記憶にあります。最初に見たのはこちら。

私達は最初は「ゼロ・ゼロ・ゼブンは殺しの番号」と読んでいましたが、中学校の英語の先生があれは「ゼロ・ゼロ・ゼブン」じゃなくて「ダブル・オー・セブン」と読むんだよと教えてくれました。言われて見れば英語では「ダブル・オー・セブン」と発音していたようで、われわれ中学生は字幕夜映画のポスターを見て「ゼロ・ゼロ・ゼブン」というものだと思い込んでいただけなのでした。
最初の映画も邦題が「007は殺しの番号」という脱力的なタイトルで公開されましたが、再公開くらいからはタイトルも原題通り「ドクター・ノオ」へと変わっていたようです。

ともかく、モノクロのテレビでは見られない色のついた刺激的な画面が映画館に行くと見られるということで、テレビはあったものの映画はお盆やお正月にだけ許される特別な娯楽として君臨していた時代に「スパイ」などという居るのか居ないのかわからない存在がスクリーンの中で大活躍する姿に日本中が興奮していたのは、今から考えると不思議な時代だったのかもしれません。
まあ、今でも「鬼滅の刃」が同じように(かどうかはわかりませんが)沢山の人をスクリーンの前に惹きつけているようなので、50年後に同じように懐かしがられることになるのだとしたら時代はそれほど変わっていないのかもしれません。
私はこの映画が公開されたしばらく後に大ヒットしたブルー・ライト・ヨコハマを作曲した筒美京平さんも同じ時代の記憶として忘れられない存在でしたが、彼も先日なくなられました。
私は筒美京平さんといえばブルー・ライト・ヨコハマなのですが、これに関しては多作な方なので時代時代で人により記憶に残った曲は違っていると思いましたが、今日ここでこんな記事を見つけました。
そこで掲載されていたベスト20がこちらです。

もちろん知らない曲はないのですが、これも記憶している側の個人的状況で大きく変わるものだと思います。
記事では次のように書かれていました。
ベスト5は「スニーカーぶる~す」(近藤真彦さん/1980年)、「また逢う日まで」(尾崎紀世彦さん/1982年)、「木綿のハンカチーフ」(太田裕美さん/1975年)、「ブルー・ライト・ヨコハマ」(いしだあゆみさん/1968年)、「よろしく哀愁」(郷ひろみさん/1974年)となった。投票総数は4682票で、得票率は「スニーカーぶる~す」7.5%、「また逢う日まで」7.2%、「木綿のハンカチーフ」7.0%、「ブルー・ライト・ヨコハマ」4.4%、「よろしく哀愁」3.6%である。
上位は筒美さんの作曲家歴の中では初期~中期にあたる1960~80年代初頭に集中している。以後も60~80年代の楽曲が続き、90年代以降の曲は人魚(NOKKOさん/1994年)が17位にランクインしたのみとなった。
「スニーカーぶる~す」は近藤真彦さんのデビュー曲かつ初のミリオンセラー曲で、売上面でも筒美さんのシングル曲歴代2位を記録。「また逢う日まで」「木綿のハンカチーフ」「ブルー・ライト・ヨコハマ」も歴代ベスト10以内に入っていたが、逆に歴代売上1位の「魅せられて」は当アンケートでは15位にとどまった。
非常に長い間、曲を書かれていたので受け手側の年代によって、今ベストを選ぶと当然このようにバラけるということなのでしょう。
ちなみに私個人としては、「ブルー・ライト・ヨコハマ」が一位であることに変わりはありませんが、「たそがれマイ・ラブ」と「東京ららばい」が記憶に強く残っております。前者は札幌出身の大橋純子さんが歌い、後者は函館出身の中原理恵さんの歌だったということも影響しているのかもしれません。
ショーン・コネリーにせよ、筒美京平さんにせよ、1960年から80年くらいまでを黄金期として活躍した方で、日本では「昭和」として記憶される時代ですが、今から考えても時代を越えて記憶される文化が花咲いた時期で、私達がその時期に青春を送ることができたことは単なる偶然に過ぎませんが、ある意味で世界が成熟しつつあるスゴイ時期を目撃あるいは体験できたという意味で幸運だったということを日々の訃報とともに思い出す今日このごろです。
by STOCHINAI
| 2020-11-01 22:03
| つぶやき
|
Comments(0)