2006年 01月 19日
インターネット・コミュニケーションへの疑問
昨日のエントリー「豪雪地帯」に、ハニーmさんという方からコメントを頂きました。豪雪地帯への直接のコメントというより、インターネット・コミュニケーション全体への問題提起だと思いましたのと、コメント欄に留めておくにはあまりにももったいないご意見だと思いましたので、ここに再掲させていただきます。(改行位置を変えさせていただきました。また、一カ所句点を追加しました。)
sarasara304さんのブログにコメントされたというのは、「市民って?」というエントリーに寄せられたamfkさんからのコメントのことです。
sarasaraさんは、amfkさん(=ハニーmさん)のコメントにインスパイアされる形で、私がCoSTEPの演習で出した課題「ブログではできないこと」に対して「いまさらですが、ブログ演習の課題に焦ってみる」というエントリーで、かなり充実したブログ・コミュニケーションに対する論考をなさっています。
ハニーmさんが昨日書かれたコメントは、その議論の流れの中から出てきたものだと思います。表現が比喩的で私がうまく意図するところを読みとれているかどうか不安はありますが、この人工的に作り出されたインターネット空間で行われているコミュニケーションに、我々が普段あまり気がつかない危険や落とし穴があるかもしれないことに警鐘をならされているように思えました。
確かに、人工的に作り出されたまだまだ未熟なコミュニケーションの手段であり、おっしゃるように参加している人間としていない人間の間にはっきりとしたディバイドを生んでいますし、ネット空間の中における無頼な論者の存在もまた事実だと思います。
しかし私は、そうしたこともすべて認めた上で、今はこの手段が我々に与えてくれるであろう可能性をとことん突きつめてみたいと思っています。正義を行うために使われて有効な武器は、同じように悪を行う場合にも恐るべき凶器にもなり得ます。
この武器を使って、正義が行われるのか悪が行われるのか、ほんの短い人類の歴史ではありますが、我々は今また試されているのではないでしょうか。
つたない議論で申し訳ありませんが、今回はハニーmさんの投稿を保存するという意味もあってエントリーを立てておきます。
初めて投稿させて頂きます。緊迫したテーマの続く折、遡るようで恐縮です。
sarasara304さんのブログに「民意の階層化」への危惧を少しコメント致して以来、補足したいと思いながらまとめられず、「源」を辿ってまいりました。
*自然の河川と人工のパイプライン
昨年、ある業務を通じて、市民と行政が同じテーブルにつき「合意の形成」を図る過程を見続け、「砂金採り」のイメージ、「生成流転」の言葉が浮かびました。ゆく川の流れ、無数の砂粒のような民の声、すくい取る忍耐と繰り返し……
インターネットに拠らないコミュニケーション、情報伝達を自然界の河川に喩えてみます。何者かが汚染物を撒いたとして自浄作用があると思います。土木工事等で思いどうりにしようとしても予測できない事態が発生し、自然を完全・完璧に征服することは不可能でしょう。(独裁体制は「自然」とは言えず…)民は、何かに「参加」しなくとも、ただ「存在」しています。
ブログは人工のパイプラインを流れる水。経済的な関門を通り、管理・制御された中での「自由」の気がしてきました。攻撃・破壊に対してガードや修復の措置は取れますが、「自然界」のような身を守る場はあるでしょうか。非力な民は、ごく普通の雑木林、野原に紛れている方が安全かもしれません。
決してブログやインターネットを否定するつもりではないのです。私にとって有用な楽しみのひとつです。知識不足で杞憂が生じているようです。拙い表現の意をご理解頂けましたら幸いに存じます。
sarasara304さんのブログにコメントされたというのは、「市民って?」というエントリーに寄せられたamfkさんからのコメントのことです。
sarasaraさんは、amfkさん(=ハニーmさん)のコメントにインスパイアされる形で、私がCoSTEPの演習で出した課題「ブログではできないこと」に対して「いまさらですが、ブログ演習の課題に焦ってみる」というエントリーで、かなり充実したブログ・コミュニケーションに対する論考をなさっています。
ハニーmさんが昨日書かれたコメントは、その議論の流れの中から出てきたものだと思います。表現が比喩的で私がうまく意図するところを読みとれているかどうか不安はありますが、この人工的に作り出されたインターネット空間で行われているコミュニケーションに、我々が普段あまり気がつかない危険や落とし穴があるかもしれないことに警鐘をならされているように思えました。
確かに、人工的に作り出されたまだまだ未熟なコミュニケーションの手段であり、おっしゃるように参加している人間としていない人間の間にはっきりとしたディバイドを生んでいますし、ネット空間の中における無頼な論者の存在もまた事実だと思います。
しかし私は、そうしたこともすべて認めた上で、今はこの手段が我々に与えてくれるであろう可能性をとことん突きつめてみたいと思っています。正義を行うために使われて有効な武器は、同じように悪を行う場合にも恐るべき凶器にもなり得ます。
この武器を使って、正義が行われるのか悪が行われるのか、ほんの短い人類の歴史ではありますが、我々は今また試されているのではないでしょうか。
つたない議論で申し訳ありませんが、今回はハニーmさんの投稿を保存するという意味もあってエントリーを立てておきます。

拙い投稿を再掲下さり有難うございました。
「砂金取り」の段落は、昨年、長時間の議論を第三者として耳にして概要作成に関わったときの窒息感、閉塞感から浮かんだイメージを昨秋、手紙にした一部です。その後Costepを知り、リンクを拝見するうちにsarasara304さんの考察に触発され、ブログのことを加えました。更に「学者のたまご」さんのブログ(1/12)、ロッジにおける語らいとブログコミュニケーションを比較なさったご意見に共感致しました。前者については、「自分自身との語らい」、思索も含まれるか思います。そして2つの「成り立ち」の違いを考えたのです。
ところで、素朴な疑問と願望です。ブログの中で「多重人格願望」って起きないものでしょうか。
今、この疑問について話を続けたいという意味ではなく、私はインターネットのシステムやメカニックな知識に限らず勉強不足ですから、時間を経て頭を整理しつつ、もっと的確に議論できるようになることが必要です。
いつかサイエンスカフェのような「カフェメディアテーク」が、誕生したら嬉しいです。
「砂金取り」の段落は、昨年、長時間の議論を第三者として耳にして概要作成に関わったときの窒息感、閉塞感から浮かんだイメージを昨秋、手紙にした一部です。その後Costepを知り、リンクを拝見するうちにsarasara304さんの考察に触発され、ブログのことを加えました。更に「学者のたまご」さんのブログ(1/12)、ロッジにおける語らいとブログコミュニケーションを比較なさったご意見に共感致しました。前者については、「自分自身との語らい」、思索も含まれるか思います。そして2つの「成り立ち」の違いを考えたのです。
ところで、素朴な疑問と願望です。ブログの中で「多重人格願望」って起きないものでしょうか。
今、この疑問について話を続けたいという意味ではなく、私はインターネットのシステムやメカニックな知識に限らず勉強不足ですから、時間を経て頭を整理しつつ、もっと的確に議論できるようになることが必要です。
いつかサイエンスカフェのような「カフェメディアテーク」が、誕生したら嬉しいです。
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>多重人格願望
あるかもしれません。私は匿名といっても「半実名」ですので、もはやここでその願望を満たす術もありませんが、完全に(あるいはできるだけ)匿名でブログを運用なさっている方の中には、無意識に普段は出せない自我(の一部)を出したり、敢えて別人格を演じておられるかたもいらっしゃるようです。私はそのようなやり方も尊重したいと考えます。
ウェブの可能性はまだまだひろがりますので、おっしゃるような「カフェメディアテーク」も必ず出てくると思います。
参加のしかたにも、無限のパターンがありそうです。自由にやっていいのだと思います。
あるかもしれません。私は匿名といっても「半実名」ですので、もはやここでその願望を満たす術もありませんが、完全に(あるいはできるだけ)匿名でブログを運用なさっている方の中には、無意識に普段は出せない自我(の一部)を出したり、敢えて別人格を演じておられるかたもいらっしゃるようです。私はそのようなやり方も尊重したいと考えます。
ウェブの可能性はまだまだひろがりますので、おっしゃるような「カフェメディアテーク」も必ず出てくると思います。
参加のしかたにも、無限のパターンがありそうです。自由にやっていいのだと思います。
by stochinai
| 2006-01-19 21:25
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Comments(2)