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臓器移植というパンドラの箱 (4/29, 5/2追記あり)

 海外で臓器移植手術を受ける日本人が増加しているというニュースを受けて、23日に「移植臓器の売買はどうしていけないのか」というエントリーを書きました。たくさんのコメントといつくかのトラックバックをいただき、この件(移植医療)についてはまだ決着がついていないという感を強くしました。

 日本国内で脳死者からの移植は完全に合法的ですし、すべてが国の管理下にありますので、臓器売買とか、不当な高額医療費の請求とか、移植を受ける患者の不当な選別や貧富の差だけによる移植拒否などは基本的にはないだろうと信じています。しかし、法律が施行されてから10年近くも経つのに臓器を提供した脳死者の数が41件にとどまっているのは、この法律が国民に支持されていないことを示しているのではないかと感じたことが、あのエントリーを書くきっかけでした。

 もともと私は生物学を研究していて、その中でも発生学や免疫学(といっても、扱ってきた動物は主にカエルでした)を中心に研究してきました。そして、到達した結論のひとつがヒトを含む動物は生物学的に臓器移植を拒否するようにできているということです。植物では種を越えて接ぎ木をしたりすることも可能ですので、ちょっと事情がちがうかもしれませんが、動物はそのからだのなかに他の種はもとより、他個体の細胞が入ることを拒否するしくみを持っています。

 今日は、そのことについて書いてみたいと思います。

 地球上に我々の先祖となる生命体が生まれてから、30数億年たつと言われています。その間にたくさんの生物が絶滅していますが、地球上のすべての生命が滅び去ってまた新しい生命が誕生したとは考えられていません。つまり、現在地球上にいる我々ヒトを含めたすべての生物は、生殖し進化してできた最初の生命体(細胞)の子孫ということになります。我々の先祖をたどっていくと、30数億年間一度たりとも死んだことがないからこそ、我々が今ここにいるのです。

 つまり、生命は生きた状態を続ける生命としてしか連続できないのです。

 基本的に有性生殖するあらゆる動物は卵から発生します。卵はメスが作りますが、オスの作る精子によって受精することで発生を開始します。受精卵はメス由来の遺伝子(ゲノム)とオス由来の遺伝子を1セットずつ持った、たったひとつの生きた細胞です。もちろん、その前の卵も精子も生きた細胞です。受精卵はその後、細胞分裂を繰り返して、胚とよばれる時期をへて、だんだんと大人の形になっていきます。これが発生です。我々を含めてほとんどすべての動物は「個体」という単位で生きていますが、個体を作っているすべての細胞はたって1つの受精卵が分裂してできた子孫の細胞です。別の言い方をすると、我々のからだを作っている細胞はすべてが受精卵に由来するクローン細胞だということです。

 生物は子孫を作らなければ死に絶えてしまいます。子孫を作る細胞は卵や精子という生殖細胞です。我々が卵や精子を作って次世代の子どもを作ることだけが、生命が存続する手段というわけです。しかし、たとえ卵や精子が受精卵となり、次世代の子どもとして生き延びたとしても我々のからだは一代限りで死んでしまいます。運良く子どもとなって生き延びた、1個ないし数個の細胞以外の細胞は死に絶えてしまうのです。

 我々のからだを作っているすべての細胞が死に絶えた(つまり我々が死んだ)としても、その細胞と同じ遺伝子を持ったクローンの生殖細胞から卵または精子が作られますので、我々が死んだとしてもその遺伝子は次の世代へと受け渡されるのです。

 このように、生物学的あるいは進化学的に考えると、我々のからだは生殖細胞を通じて次世代へ遺伝子を受け渡していくための乗り物にすぎないと考えることもできます。その乗り物は自分が死んでも、自分の遺伝子を次世代に伝えてくれるクローンの生殖細胞を大切に保護し、子孫を作ることで自分の持っている遺伝子を残すことができるのです。

 ミツバチの働きバチが子どもを生まずに女王の生んだ卵を育てる場合も、女王蜂の生んだ卵には働きバチの持っているものと同じ遺伝子が受け継がれるのと同じような状況だと考えることができます。

 いずれの場合も、一代限りで死んでしまうからだを作る細胞や子どもを生まない働きバチが自分を犠牲にしているように見えても、実は自分の遺伝子を次世代に残すという生物(生命)の連続性を保証するという目的は達成できているのです。

 ところが、もしもからだを作る細胞と生殖細胞がクローン同士でなかったらどうなるでしょう。犠牲的に働いたからだの細胞の遺伝子は次世代に受け継がれず、そこで生命の連鎖が絶たれてしまうことになります。

 そうしたことを防ぐために、動物はそのからだを構成する細胞のすべてを受精卵に由来するクローン細胞だけで作り、そこによそものの細胞が入ってくるのを防ぐしくみを持っています。そうした働きを担っているもののひとつが「免疫」だと考えることができると、私は思っています。

 移植医療を行う時にみられる免疫による拒絶反応は、もともとはこうしたからだを構成するすべての細胞のクローン性(正統性?)を保証するための正常な反応です。つまり、生殖細胞とことなる遺伝子(ゲノム)を持つ細胞を移植されることを動物は拒否するのです。

 しかし科学の発展によって、ゲノムの型を合わせたることで免疫反応をだましたり、薬剤によって免疫のしくみを抑制し拒絶反応を抑えることができるようになってきました。生物学的・進化学的にみてどうあれ、臓器移植によって個々人を延命することができる技術を医学が開発してしまったのです。実際に延命を望む人あるいはその家族にとって、そうした技術にすがりたくなるのは当たり前のことだと思います。

 私は生物学者としては、移植手術の生物学的無意味さや反自然性を説くことはできますが、実際に移植以外では救えない患者さんを前にして何が言えるのだろうと思います。

 医療技術が開いてしまったパンドラの箱としての移植医療と、それに付随して起こっている様々なケースについて考えるたびに、手にしてしまった技術の罪深さを感じずにはいられません。

前のエントリーにトラックバックをくれた皆さんに、トラックバックを送らせていただきます。
移植臓器の売買は人身売買
海外で臓器移植、法施行後522人(厚労省)臓器売買も?
医者はなぜ諦めないのか

【追記】
 コメント欄にありますが、47thさんのブログサイトにノーベル賞を受賞した経済学者による移植臓器売買論についての紹介記事があります。
Beckerが語る臓器移植論 (1) [ 2006年04月29日 ]
 本気で臓器売買を肯定するというよりは、思考実験することにより議論を整理したいという趣旨だと思います。今回の私の問題提起も同じような気持ちから出発しています。
 続編もあるようなので楽しみにしたいと思います。

 続編が出ております。
Beckerが語る臓器移植論 (2) [ 2006年04月29日 ]
Beckerが語る臓器移植論 (3・完) [ 2006年05月01日 ]

 さなえさんが臓器移植に対して、続々とエントリーを重ねておられます。ある意味では「頑固」と思えるまでに「こころ」の問題にこだわるさなえさんの立場は、こういう論争においてとても貴重だと思いますし、合理的ではないという理由で切り捨てることこそ間違っていると思います。私とは意見が違う部分もあるのですが、さなえさんに敬意を表してここにエントリーをまとめてリンクさせていただきます。

2006年04月25日 医者はなぜ諦めないのか
2006年04月29日 臓器移植について
2006年05月01日 通りすがりさんへのコメント-臓器移植について
2006年05月02日 さらに臓器移植について

 ついでと言ってはなんですが、三余亭さんのところにも重要なエントリーがたくさんありますので、ここでまとめてリンクさせていただきます。

移植臓器の売買は人身売買
移植臓器の売買は人身売買 その2
「息子の腎臓を2000万円で売った」といううわさが立った
「再開された臓器売買をめぐる論争」という論文。
Commented by ハニーm at 2006-04-27 23:27 x
自己あるいはかけがえのない人の肉体に、たとえ細胞に過ぎなくても死刑囚の一部が同化されることは、殆どの人は受け入れがたいと
思います。取り返しのつかない精神的な拒絶反応です。知らなければ心身ともに救われ、元の持ち主への嫌悪感に苛まれないでしょう。「闇」の恐ろしさを感じます。
誰かを『何としても助けたい、可能性に賭けたい』」という気持ちは否定できません。同時に、次の引用にも共感致します。
  《…昏睡状態の人の肉体は、それがまだ―たとえ人工的な補助によってではあっても―呼吸や脈拍などの働きをしている限りは、
なお、かつて愛したり愛されたりした主体の残存的継続であると見なされなければならない。そして、そのようなものであるからには、
その肉体はなお、神の法や人の法によって、そのような主体に対して与えられる不可侵性のいくらかを享受する権利を持っているので
ある。その不可侵性は、肉体が単なる手段として使用されてはならないということを命じる。…》 死の定義と再定義 ハンス・ヨナス
出典:『バイオエシックスの基礎』 東海大学出版会  1988.5.31 第1刷発行  233頁
Commented by stochinai at 2006-04-28 00:09
>肉体が単なる手段として使用されてはならないということを命じる。
 現在のアメリカでは、死体を単なる「リソース(資源)」と呼ぶことにためらいを感じていないように、私には感じられます。
Commented by さなえ at 2006-04-28 07:07 x
日本は日本です。宗教観も考え方も異なります。アメリカを基準として後追いすることもないと思います。散らばったものを追いかけ、再度パンドラの箱に閉じこめる方法を考えるべきだと思います。
Commented by stochinai at 2006-04-28 08:03
 国会や医療機関の「推進側」は、日本のアメリカ化を強力に推進しようとしているように思われてなりません。一方、昨朝の朝日新聞に出ていたように、医療関係者の過半数が「脳死は人の死ではないあるいはわからない」と答えています。日本で脳死移植が少ないことの理由のひとつは間違いなくここにあると確信しました。こういう状態で法律がどんどん作られる日本という国の現実が反映されていると思いました。
Commented by hal at 2006-04-28 14:11 x
臓器移植の話には、個人の倫理観や宗教的な立場が絡んで問題が複雑になりがちなだけでなく、どんなものにもつきものの「新技術はイヤ」的な嫌悪感もあると思います(例えば約20年前に一大センセーショナルで迎えられた試験管ベビーが今は街の産婦人科で普通に行われていることを想起してください)。
臓器移植は、一方では確かに脳死(特に全脳死でなく脳幹死)を定義として採用するという感情的な違和感を与えやすい問題をもっているものの、ひとつの治療法として有効だと思われています(もっともこれには米国での5年後生存率の統計からの反論もあるようです。もし有効でないなら臓器移植はいったん中止すべきですが、ここでは有効という立場で書きます)。臓器移植をひとくちに否定するのは、(自分個人のこととしてなら勝手ですが)他人にまで押しつけることではありません。どんな治療法を選択するかは、個々人の権利でもあります。例えば私は、どんなにチューブだらけになろうが体の臓器の8割を入れ替えようが、(経済的な問題は別にして)延命治療を受けるでしょうし、家族にも受けさせたいと願うでしょう。
Commented by hal at 2006-04-28 14:12 x
現に海外に行ってまで移植手術をするひとが多い事実や、それを援護する募金やボランティア活動の多さから見ても、臓器の移植の禁止は、国民の大多数が賛成するものだとは思いません。また、善意の提供だけでなく、たとえ臓器提供に金銭の授受があったとしても、それが貧困のために余儀なくさせられたことでなく自由な意志の下でなされたものである限り、「人身売買」(三余亭さん)とはまったく異なるものです。まして「命を犠牲にして・・・助かろうとするのは浅ましい」(さなえさん)という「臓器のために誘拐されて殺される」話は、問題の混同以外の何物でもありません。
さらに言えば、「提供可能な臓器があれば、生命保険の加算支給」(ハニーmさん)というアイデアは、一見突飛なことのように見えますが、実際には斬新であり、十分今後の検討課題にあり得るのではないでしょうか。
Commented by 三余亭 at 2006-04-28 15:52 x
TBさせていただきました三余亭です。移植医療は有効な治療で、今後日本でもドナーが増えていくことを期待しています。
さて、臓器提供以前に金銭を受け取れることがわかっていた場合、ドナーが臓器を提供する動機が、相手を助けたいという気持ちなのか、金銭なのか、確認する手段は無いように思います。従いまして、潜在的な人身売買が行われる可能性があり、そちらの方が一人のレシピエントを助けるよりも社会的に容認できないという立場です。(人間の命は地球より重いとは考えておりません。)
しかしながら、提供される臓器不足は世界的な問題で、どの国でも対処に困っているようです。webでスウェーデンでの出来事を見つけましたので、ご覧下さい。http://www.isa.se/templates/News____24853.aspx#top
最後の患者団体がドナーの健康診断や診察の優先的配慮には賛成しても金銭報酬に反対したことが印象的でした。そのような臓器で生活することは嫌だという方のほうが多いのでしょう。
Commented by hal at 2006-04-28 16:38 x
臓器提供者の動機が善意か報酬かということが移植される側にとって問題になるというのは、提供者が死刑囚なのか良き隣人なのか問うことと同じように、ある意味ではとても不健全なことではないでしょうか。もっとも、それがあまたのボランティアを生んだキリスト教文化の別の一面であるのかもしれませんが。

さて、今日の午後に書いた上のコメントでは、私が臓器移植に大賛成のような印象を与えたかもしれませんが、私自身はまだ現実の脳死判定が信頼に値するかどうか危ぶんでいますし、実際のところ、現在の臓器移植はしょせんは「つなぎ」だろうと思っています。というのも、ここでの議論からも明らかなようにドナー不足は根本的な問題だからです。次の「つなぎ」は、拒絶反応が起こらないようにした(臓器の大きさがヒトに近い)ブタからの移植かもしれません。そして何と言っても将来的な大本命は、「マイES細胞(もしくはマイ体性幹細胞)」に由来する「マイ臓器」の移植でしょう。臓器移植に反対する人たちも、自分の細胞を使った移植にもなお反対(しつこいようですが、自分のことではなく他人に対する規制として反対)のままの宗教観や倫理観でいることができるとは思えません。
Commented by 三余亭 at 2006-04-28 18:33 x
halさんの使われた「不健全」という意味は、目の前にいる犬を食べないと死ぬのに食べられないといって死んでしまう、生物として生きる意思を持たない「不健全さ」、今回の文脈で言えば、臓器移植をしないと死ぬのに、金が絡んだものは汚いといって死んでしまう「不健全さ」と理解しましたが、いかがでしょうか。別の意味であればすみません。その意味での「不健全」との指摘、わかります。
しかし、「不健全」ではありながらも、死刑囚の体の一部が自分のものになることへの抵抗感も想像できます。私は知っていても犬肉を食べることには抵抗があります(本当に死ぬとなったら食べるでしょうが)。そういえば中国で人間の死体を混ぜて客に食べさせた店があったと思いました。そんなときの気分と想像しましたが、どうでしょうか。
私が臓器提供に伴う金銭報酬に反対であるのは、結果として人身売買を防げないということが理由です。結果として起こる社会のゆがみ(貧困層の固定化、富裕層への憎悪の強化等々では話題が広すぎますか?)が、他の多数の人間に迷惑をかけるからです。得られる利益は、腎臓に限定すればレシピエント一人が透析しなくてすむことしかありません。
Commented by ハニーm at 2006-04-29 03:51 x
まず、私の投稿《…移植可能なパーツを遺せたら死後の…》と引用文が微妙に異なりますので再掲致します。半ば危惧のつもりでしたが、
halさんのようなご意見・リアクションを予期(覚悟)しておりました。確かに臓器移植の否定は他人にまで押しつけることではありません。
移植の大前提となる臓器提供も、強要すべきではないと考えて宜しいでしょうか。仮に、人を救えるかも知れない(活用可能な)我身を灰に
帰すことを望んだとき、提供の拒否→人間愛の欠如であるかのような負い目を持たずにすむ社会であるかどうかが問題です。
また、自由な意志の下で法外な金額の要求が起こるかもしれません。  ①
Commented by ハニーm at 2006-04-29 03:52 x
《どんな治療法を選択するかは、個々人の権利でもあります》砂時計が落ちていくように命が消えそうな傍らで、引き止めたいと願うのは、
人の情です。ただ、貧しさゆえの犠牲や犯罪を妨げるためには、例えば「何人も自己の肉体の提供を強いられない権利を有する。」など、
個々の人権を守る法が必要になるでしょうか。ドナーではなくレシピエントの犯罪歴などは? 助けるに値するかなど選別できないでしょう。
先月、ヒューマノイドのHPを見て、亡き人の姿と記憶?記録を埋め込んで再現できればと思いました。 
移植はさておき、生物として人間が命ある限り、人格が継続し発展していきます。《我々のからだは生殖細胞を通じて次世代へ遺伝子を
受け渡していくための乗り物にすぎない…》、地球全体の主体であるようでいて、生きものの一種にすぎないと改めて考えさせられます。
しかしながら我々は地球上から様々な形で資源を得ています。動植物は食料資源です。例えば人類が、異星人や他の生物の食料やペットに
されない限り、人間は互いに精神性を認めあい、人格を重んじていけるのだとSFに陥りそうです。  ②
Commented by 47th at 2006-04-29 13:36 x
はじめまして。記事を拝見して、今年の年始にノーベル賞経済学者のBeckerがブログで展開していた臓器売買解禁論を思い出したので、紹介する記事を書いてみました(TBさせていただこうと思ったのですが、うまくいかないようです)。
私自身の最終的な結論はまとまっていませんが、倫理観以前の現実の認識や現在の制度の功罪については、社会科学的な知見も踏まえた正確な認識がなされた上で、倫理のコストも見据えた上での政策判断がなされるべきなんだろうという気がしています。抽象的ですが。
by stochinai | 2006-04-27 21:33 | 生物学 | Comments(12)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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