2006年 05月 06日
研究と教育についてのいくつかの伝説(追記あり)
halさんの問いかけに対して、まじめに考えなければならないと思っているのですが、連休の最中で落ち着いて時間が取れませんので、今日はいくつかキーになると思われる教育・研究現場にまつわる「伝説」を思い出して書き留めておきたいと思います。
その1; 大学の教育は研究者でなければできない。
大学で教えられるものが、高校までとは違ってまだ教科書に書かれるほど成熟・安定してはいなかった時代には、大学で教えられるようなことは教科書にも載っておらず、研究の現場で起こっていることが研究者から学生にダイレクトに伝えられた時代もあったのでしょう。そういう時代には、大学で教育することができるのは現場で研究する人間でなくては無理だったのかもしれません。
私も大学に入った頃にはそういうふうに思っていたこともありますが、その後アメリカを中心に作られている充実した教科書を見るたびに、この伝説は日本の大学教員が教育にまじめに取り組むことから逃避するための口実だと思うようになりました。
その2: 大学院では教育などしなくてもよい。学生は研究者の背中を見て育つ。
これは今でも言われることがしばしばある、非常に根深い伝説です。しかし、今になってわかることは、要するに教育する能力や動機のまったくない研究者教員にあこがれて大学院に進学した学生が、教員の指導を受けることなく自力で次世代の研究者へと「自然に」育っていた古き良き時代のノスタルジーにすぎない言説だということです。
この言葉が力を持っていた時代に大学院に進学した学生は、まさしく自己責任だけで生きていたようなところがあり、教員にまったく研究指導など受けなくてもやっていけるくらいの能力を持っている学生か、あるいはまったくものにならずに10数年の無給研究生を続けたあげく、いつの間にか消えていってしまうようなことになっても、決して文句を言わないというような学生しか大学院へは進学しなかったのだと思います。
その結果、その両方の学生が今の大学の教員を構成することになってしまいました。今の大学の教員が玉石混淆なのは、このことが理由だと思います。
その3: 良い研究者は良い教育者だが、良い教育者は良い研究者であるとは限らない。
これは、ちょっと考えればわかることですが、教育と研究はかなり違う能力ですので、良い研究者が良い教育者であることもないこともありますし、良い教育者が良い研究者であることもないこともあります。
それがなぜか一般的には、良い教育者は良い研究ができないと思われることがしばしばあるとともに、いくら良い教育ができても大学ではそれほど尊敬されることはないのにもかかわらず、良い研究者は良い教育ができなくてもまあ仕方がないと許され、研究ができるのだからと尊重されることがしばしばあるのが現状です。
つまり、政府・文科省および大学当局が、研究ができる人間は教育くらいできるだろうと思っているということだろうと思います。残念ながら誤認です。あるいは、教育よりも研究のできる人間を大学に欲しいと思っているのだと思います。それは、つまり政府がそのような方針でいるからなのでしょう・。理由は、、、よくわかりません。
その4: 本当に能力がある人間は、がんばれば大学教員か研究者には必ずなれる。
冷静に数学的に考えると、絶対にありえないことなのですが、いまだに「勝ち組」の政府高級官僚の多くの皆さんはこれをかなり本気で信じておられるようです。
そういう思想の持ち主から見れば、今のような博士バブル状態になっても、希望を叶えられないのは「能力がない」人間だということになるようです。
確かに上位10%に入れるような人は「能力が高い」ということは間違いないと思いますが、それ以外の人も「能力がない」ということは絶対にないはずです。少なくとも半分、できるならば7-8割の人がそこそこ希望に近い職種に着けないような「競争」は、競争というよりはサバイバルでも呼ぶべきものだと思います。そんな状況に飛び込んで来るのは、よっぱど自信を持った勇気ある青年か、勘違いしたアホなのかもしれません。しかも、その中から選ばれるのが「まともな」人間である保障もないのです。
これを危機的状況と思わない人が教育科学行政をやっているのだとしたら、それこそが最大の危機だと言えるでしょう。
【追記】この件に関しては私も実例をいくつか知っておりますが、私が書くと誰のことかわかってしまってその方々に迷惑がかかってもいけないので、あえて書きません。そのかわりにこちらをご覧下さい。トラックバックしていただけなかったので勝手にリンクさせてもらいますが、この手の話を見聞き(あるいは経験)したことのない人のほうが少ないというのが「現場」の状況です。
その1; 大学の教育は研究者でなければできない。
大学で教えられるものが、高校までとは違ってまだ教科書に書かれるほど成熟・安定してはいなかった時代には、大学で教えられるようなことは教科書にも載っておらず、研究の現場で起こっていることが研究者から学生にダイレクトに伝えられた時代もあったのでしょう。そういう時代には、大学で教育することができるのは現場で研究する人間でなくては無理だったのかもしれません。
私も大学に入った頃にはそういうふうに思っていたこともありますが、その後アメリカを中心に作られている充実した教科書を見るたびに、この伝説は日本の大学教員が教育にまじめに取り組むことから逃避するための口実だと思うようになりました。
その2: 大学院では教育などしなくてもよい。学生は研究者の背中を見て育つ。
これは今でも言われることがしばしばある、非常に根深い伝説です。しかし、今になってわかることは、要するに教育する能力や動機のまったくない研究者教員にあこがれて大学院に進学した学生が、教員の指導を受けることなく自力で次世代の研究者へと「自然に」育っていた古き良き時代のノスタルジーにすぎない言説だということです。
この言葉が力を持っていた時代に大学院に進学した学生は、まさしく自己責任だけで生きていたようなところがあり、教員にまったく研究指導など受けなくてもやっていけるくらいの能力を持っている学生か、あるいはまったくものにならずに10数年の無給研究生を続けたあげく、いつの間にか消えていってしまうようなことになっても、決して文句を言わないというような学生しか大学院へは進学しなかったのだと思います。
その結果、その両方の学生が今の大学の教員を構成することになってしまいました。今の大学の教員が玉石混淆なのは、このことが理由だと思います。
その3: 良い研究者は良い教育者だが、良い教育者は良い研究者であるとは限らない。
これは、ちょっと考えればわかることですが、教育と研究はかなり違う能力ですので、良い研究者が良い教育者であることもないこともありますし、良い教育者が良い研究者であることもないこともあります。
それがなぜか一般的には、良い教育者は良い研究ができないと思われることがしばしばあるとともに、いくら良い教育ができても大学ではそれほど尊敬されることはないのにもかかわらず、良い研究者は良い教育ができなくてもまあ仕方がないと許され、研究ができるのだからと尊重されることがしばしばあるのが現状です。
つまり、政府・文科省および大学当局が、研究ができる人間は教育くらいできるだろうと思っているということだろうと思います。残念ながら誤認です。あるいは、教育よりも研究のできる人間を大学に欲しいと思っているのだと思います。それは、つまり政府がそのような方針でいるからなのでしょう・。理由は、、、よくわかりません。
その4: 本当に能力がある人間は、がんばれば大学教員か研究者には必ずなれる。
冷静に数学的に考えると、絶対にありえないことなのですが、いまだに「勝ち組」の政府高級官僚の多くの皆さんはこれをかなり本気で信じておられるようです。
そういう思想の持ち主から見れば、今のような博士バブル状態になっても、希望を叶えられないのは「能力がない」人間だということになるようです。
確かに上位10%に入れるような人は「能力が高い」ということは間違いないと思いますが、それ以外の人も「能力がない」ということは絶対にないはずです。少なくとも半分、できるならば7-8割の人がそこそこ希望に近い職種に着けないような「競争」は、競争というよりはサバイバルでも呼ぶべきものだと思います。そんな状況に飛び込んで来るのは、よっぱど自信を持った勇気ある青年か、勘違いしたアホなのかもしれません。しかも、その中から選ばれるのが「まともな」人間である保障もないのです。
これを危機的状況と思わない人が教育科学行政をやっているのだとしたら、それこそが最大の危機だと言えるでしょう。
【追記】この件に関しては私も実例をいくつか知っておりますが、私が書くと誰のことかわかってしまってその方々に迷惑がかかってもいけないので、あえて書きません。そのかわりにこちらをご覧下さい。トラックバックしていただけなかったので勝手にリンクさせてもらいますが、この手の話を見聞き(あるいは経験)したことのない人のほうが少ないというのが「現場」の状況です。
もう一つ、付け加えさせてください。
「進学は本人が決めたことだから、結果も本人の責任で引き受けるべきだ」
ミクロなレベルではそうも言える。音大に入ったからといって音楽家になれることを保証する必要はない。
しかし、そんなことが言っていられるのは、大学院定員数が少なく、一部の物好きだけが進学していた時代だからです。
毎年、3万人(東大定員の10倍)もの人間が大学院に進学し、それにかけられる教育費や本人の少なくない人生が、全くの無駄に終わっているとしたら、これは社会的損失といわずしてなんと言うのか。「全く無駄ではないだろう」的なゴマカシで、漫然と定員を増やし、教育費をドブに捨てる。いわば、タチの悪い公共事業です。Ph.Dを取得しても、未熟練労働者としての職しかないとしたら、その社会的損失は莫大なものとなるでしょう。
スタートラインにおいて、ある程度篩にかけて、企業研究員も含めたアカデミックポストに残れる可能性を8割ぐらいにしておかねばなりません。
「進学は本人が決めたことだから、結果も本人の責任で引き受けるべきだ」
ミクロなレベルではそうも言える。音大に入ったからといって音楽家になれることを保証する必要はない。
しかし、そんなことが言っていられるのは、大学院定員数が少なく、一部の物好きだけが進学していた時代だからです。
毎年、3万人(東大定員の10倍)もの人間が大学院に進学し、それにかけられる教育費や本人の少なくない人生が、全くの無駄に終わっているとしたら、これは社会的損失といわずしてなんと言うのか。「全く無駄ではないだろう」的なゴマカシで、漫然と定員を増やし、教育費をドブに捨てる。いわば、タチの悪い公共事業です。Ph.Dを取得しても、未熟練労働者としての職しかないとしたら、その社会的損失は莫大なものとなるでしょう。
スタートラインにおいて、ある程度篩にかけて、企業研究員も含めたアカデミックポストに残れる可能性を8割ぐらいにしておかねばなりません。
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訂正します。2004年度で、修士76,000、博士18,000でした。私の認識は甘すぎました。出展:学校基本調査
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05061401/shiryo/028.htm
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05061401/shiryo/028.htm

その3について、特に興味深く読ませていただきました。
>政府・文科省および大学当局が、研究ができる人間は教育くらいできるだろうと思っているということだろうと思います。残念ながら誤認です。
本当にそのとおりだと思います。しかも研究ができるかどうかを学歴(大学院に行っているかどうかも含めて)で判断する傾向さえあります。
私は院に行っていない高校教師なのですが、この業界にも「マスターを持ってない奴なんて」といった偏見があります。もちろん、マスターやドクターを持っている先生でも、教え方が下手な奴はゴマンといるのですが。
このエントリを見て自分が悔しい思いをした経験を思い出してしまいました。管理人の教え子さんにも、学歴などの偏見で悔しい思いをした人もきっといると思います。このエントリでちょっとは励まされたのではないかと思います。
>政府・文科省および大学当局が、研究ができる人間は教育くらいできるだろうと思っているということだろうと思います。残念ながら誤認です。
本当にそのとおりだと思います。しかも研究ができるかどうかを学歴(大学院に行っているかどうかも含めて)で判断する傾向さえあります。
私は院に行っていない高校教師なのですが、この業界にも「マスターを持ってない奴なんて」といった偏見があります。もちろん、マスターやドクターを持っている先生でも、教え方が下手な奴はゴマンといるのですが。
このエントリを見て自分が悔しい思いをした経験を思い出してしまいました。管理人の教え子さんにも、学歴などの偏見で悔しい思いをした人もきっといると思います。このエントリでちょっとは励まされたのではないかと思います。
すべりしらずさん、コメントありがとうございました。結局のところ、正しく評価できる人がいないのに、評価しようとするから形式的な学歴や人間関係というコネでものごとが決まっていることが多いのだろうと思っています。
競争させるなら先に審判を育てろ!って、言いたいところです。
競争させるなら先に審判を育てろ!って、言いたいところです。

こんな学位取得なら、立派な研究者も育つかな?
http://www.ee.ehime-u.ac.jp/~optele/gakuho03.html
http://www.ee.ehime-u.ac.jp/~optele/gakuho03.html

個人としての体験ですが、大学時代に面白い講義をするヒトは、早石修先生を含め、研究を活発にやっているヒトが多かったと記憶しています。健全なる精神は健全なる肉体に宿る、というコトバが実は健全なる精神を持った健全なる肉体・・・というあらまほしき状況を表現しているように、優れた研究者であり面白い講義者であるというのは大学人がおろしてはならない旗であると、私は考えるのですが・・・。まあ、フィヒテ時代のベルリン大学の夢を未だに追いかけるのは時代錯誤なのかも知れませんが。
もう一つ、アメリカの大学院といっても、色々あります。カリキュラムにそって教え込んで修了者に一定水準を保証するような大学院もありますが(まあ、これは大学院が設立された頃の米国の大学教育の水準がバラバラだったために取られた苦肉の策が源流のようですが)、極端に院生の自主性を尊重する大学院もあります。前者だけが強調されるのが不思議です。
もう一つ、アメリカの大学院といっても、色々あります。カリキュラムにそって教え込んで修了者に一定水準を保証するような大学院もありますが(まあ、これは大学院が設立された頃の米国の大学教育の水準がバラバラだったために取られた苦肉の策が源流のようですが)、極端に院生の自主性を尊重する大学院もあります。前者だけが強調されるのが不思議です。
eztさん、興味深い情報をありがとうございました。まさにエリート教育だと思うのですが、こうやって大事に育てられてエリートは人のために尽くしてくれそうな気がします。我々の目の前にあるのは、仁義なき総力戦ですから、対極ですね。
alchemistさん、いつもどうも。
昔は学生の質も違ったんだと思います。本当に背中を見て感動し、それだけでどんどん育った学生もいたのでしょう。頑固一徹の講義などもそれなりに支持されていたのだと思います。今の学部生などは「おもしろくて、わかりやすい講義」をしない教員は、存在意義なしということで切り捨てられてしまいます。別に、必ずしもそれに応える必要もないのだと思いますが、「お上」の命令とあらば、、、、。
私も昔を思い出してしまうのですが、昔の文部省は大学に何を言ってもいうことをきかないので、放ったらかしていたのだと思うのですが、今の文科省はお金を目の前にぶら下げると、大学の先生といえども、なんでも言うことを聞くのでおもしろくて仕方がないのではないかと思われる節があります。
自分も含めて、どっちもどっちの時代になってしまった感があります。
昔は学生の質も違ったんだと思います。本当に背中を見て感動し、それだけでどんどん育った学生もいたのでしょう。頑固一徹の講義などもそれなりに支持されていたのだと思います。今の学部生などは「おもしろくて、わかりやすい講義」をしない教員は、存在意義なしということで切り捨てられてしまいます。別に、必ずしもそれに応える必要もないのだと思いますが、「お上」の命令とあらば、、、、。
私も昔を思い出してしまうのですが、昔の文部省は大学に何を言ってもいうことをきかないので、放ったらかしていたのだと思うのですが、今の文科省はお金を目の前にぶら下げると、大学の先生といえども、なんでも言うことを聞くのでおもしろくて仕方がないのではないかと思われる節があります。
自分も含めて、どっちもどっちの時代になってしまった感があります。
すみません。地獄のハイウェイさんが、せっかくトラックバックを書いてくださったのに拒否していたようです。是非ともこちらをご覧下さい。
悪事と地獄
http://blogs.yahoo.co.jp/katsuya_440/35363493.html
悪事と地獄
http://blogs.yahoo.co.jp/katsuya_440/35363493.html
by stochinai
| 2006-05-06 23:59
| 大学・高等教育
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Comments(9)