5号館を出て

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大学院における教育と研究

 ずっと、halさんにいただいた宿題を考えておりました。考えている間にも皆さんからコメントやトラックバックやメールをいただき、この問題の広さと深さに改めてため息をついている状態なので、とても一刀両断の記事など書けるはずもなく、これから何回も書き続けて行かなければならないと思っているところです。

 しかしhalさんから提起された問題は比較的すっきりとしており、「大学院という教育機関における研究と教育の定義と位置づけ」に関して私の意見を述べよというものだと思いますので、今回はその点に絞って考えてみたいと思います。

 私が大学院に進学したのは1973年です。その頃、北大の生物学科は書類上はともあれ動物と植物に完全に分離しており、動物の学生定員が1学年14名くらいで、大学院修士過程の定員は7名くらいだったと思います。当時、研究職は給料が安く勤務もきついということで、あまり多くの人が希望するような職種ではありませんでした。また、また大学院へ進学しても、必ずしも研究職につけるとも限らなかったので、よほど研究が好きな「物好き」だけが進学していたと思いますが、結果的にはかなりの卒業生が大学教員や研究者になれた時代です。

 もちろん職に就くまでの期間は人によってまちまちで、修士を出るかでないかのうちに助手として採用されるケースも多かったものですが、博士課程で留年を繰り返し、場合によっては博士を取得した後も研究生として研究室に残り、アルバイトをしながらポストが空くのを待っていたというケースもかなりあったような記憶があります。しかし、そういうケースでも苦節10年くらいを経て教員になれる場合もあり、途中でくじけずに長いことがんばれば、5割くらいの確率でポストを得ることができた時代だったと思います。

 現在、大学教員になっている中年以上の方々はこの時代を知っておられる、あるいはまさにその時代を生きて教員になった方が多いので、(それほど優秀ではなかった自分でさえ職を得ることができたのだから)誰でもがんばれば何とかなると思っている人が多いのではないでしょうか。だまそうとしているわけではないのかもしれません。

 当時の大学院では講義などは一切なく、大学院入学後の生活は、文献を読み、実験をし、論文を書き、セミナーをすることだけがすべてでした。つまり、大学院生は基本的には研究以外は何もしていなかったと思います。先生と呼ばれる人も特に体系的な学問を教えるわけでもなく、日々の実験を一緒にやってくれるだけですので、何かを習うというよりは自分が一所懸命実験をして論文を書いてみせるという、まさに「背中を見る」以外には何も与えてくれることが期待できない存在だったわけです。

 それでも、研究者を再生産するという機能は十分に果たしていました。ただし、そうやって身につけた「能力」は研究者になった場合以外には何の役にも立たないものでした。つまり研究者になり損ねた場合には、プライドが高いばかりで「使えない」存在として一般企業からは見向きもされなかったのだと思います。日本の企業は、今でもこうした時代に育った博士のイメージを抱いているのだと思いますし、その判断は必ずしも誤ってはいないのかもしれません。

 博士を大量に増産してポスドク1万人計画は実現したものの、旧態依然とした博士課程で育ってきた人材の受け入れを、一般企業が渋っているという現実を前にして文科省が打ち出した作戦が先日の大学院教育振興施策要綱だったということでしょうか。大学院では研究はそこそこにして、博士を取っても産業界で「使える」人材になって一般企業に就職しましょうということだと、やはり誰も進学してこないのではないかと思います。

 しかし、私は大学院教育の実質化という名のもとに、大学院での研究を縮小し、座学を増やすということは角を矯めて牛を殺す政策だと思います。

 ようやく大学院における教育と研究というところにたどり着けましたが、私は大学院教育はやはり研究を中心としたものでなければ意味がないと思っています。ただし、教員の研究を手伝う形で研究室が一丸となってすでに走っているプロジェクトのお手伝いをする、というようなよくあるやり方は万人向きではないと思います。もちろん、そのやり方で大きく伸びる学生もいることを否定しませんが、最終的にはひとりひとりの学生の主体性を尊重することが教育の出発点だと思います。

 つまり大学院での研究は、あくまでも学生がひとりの独立した研究者として、テーマを設定し、実験を計画し、実施し、ディスカッションし、論文を書き、発表するという研究のサイクルをひとりで回すことができるようにしてやるという教育的なものであるべきではないでしょうか。

 もちろん、そういう研究だといきなりものすごい成果を出すことなどできないでしょうし、指導教員の研究のお手伝いという意味でもショボいものにしかならないかもしれませんが、ものすごい研究のほんの片隅のお手伝いをさせてもらって自分の知らない間に論文の共著者になっていたというよりは、自分自身で最初から最後まで責任を持って小さな研究をひとりでやり抜いたという実感を持って大学院生活を終えたほうが、将来独り立ちして研究者になったとしても、あるいは研究以外の人生を送ることになったとしても、ずっと「使える人材」になっているはずだと確信しています。

 また、こういうポリシーだと研究費もそれほどたくさん必要になるということはありませんし、研究費が足りない時にはどうやってそれを乗り越えるのかという訓練を受けることにもなります。大学院を出て、たとえ運良く研究者になれたとしても、研究費などは足りないほうが普通の世の中なのですから。

 私は、研究者というものは個人企業の社長だと思っています。だとすると、自分で営業も経理も研究という実務もできなければならないというわけですから、オールラウンドな能力がなければやっていけません。そうした能力を磨くためには、大学院を座学の多い学部化するのではなく、逆に独立した研究者としての経験を積ませるための模擬的研究室経営訓練の場とすべきだと思っています。その目論見がうまくいけば、たとえ研究者になれなくとも、ひとりで起業することもできる人材になってくれるのではないでしょうか。

 それが、私が理想と考えている大学院の教育と研究の姿です。

 ダラダラと長くまとまりがなく、バランスの悪いエントリーになってしまいましたが、とりあえずこれを課題に対する第1回目のレポートとさせてください。

 以下のエントリーに、トラックバックを送らせていただきます。
 進むに進めず、退くに退けず
 研究者になれる最低ライン
Commented by alchemist at 2006-05-09 13:37 x
5箇所ほど研究室を転々としましたが、院を含め家内手工業的な研究室ばかりでした。で、院生のテーマといっても研究室の専門領域に関係していましたが、テーマをどう料理するかは本人次第(スタッフが相談に乗ってくれたり手伝ってくれたりしましたが、基本は本人の考え方次第)、その中で必要に応じて蛋白質の精製や抗体とり、蛋白の標識、動物実験ナドナドを試行錯誤を繰り返しながら勉強しました。ほぼ同じ世代ですね。で、院で学んだ最大のことは必要な技術はやってるところに習いに行けば教えてくれる、ということだったと総括しています。今の院で学ばなければいけないことは変わっていないんじゃないでしょうか?あるテーマを仕上げる上で、必要な実験を考え必要な技術を修得する(そして論文にまとめあげる)能力さえ身につけば、大抵の研究室で生きてゆけます。いくら『教育』されても、それだけではそういう能力を身につけるのは難しいのではないでしょうか?
Commented by stochinai at 2006-05-09 21:00
>今の院で学ばなければいけないことは変わっていないんじゃないでしょうか?
 研究者養成ということが大学院の目的ならば、おそらくそんなには変わっていないのだと思います。しかし、今の大学院はボスが研究者であり続けるためと、学生が研究者になるための「業績作り」と、どう考えても研究者になることはあり得ない人の「教育」というおよそ両立しがたい課題を負わされているのだと思います。
 全部を満足させることができないのならば、とりあえずボスから自分の欲望を捨ててもらうしかないのではないか、と思うのです。
 そして、次に増えすぎた学生をどうするのか。考え出すと、出口が見えないとてつもない迷路に迷い込んだような気になってきます。
Commented by M姫 at 2006-05-09 22:18 x
大学の最大の使命はやはり、社会に必要な人材を送り出す事だと思います(学生だけではなく)。それなのに、教育を二の次にして研究成果(つまり論文数)をあげることにとらわれてしまうのは、教育に力を入れている先生達が正当な評価を受けないからではないでしょうか?
一生懸命勉強して(しかも大事な青春時代の何年かを研究に注いで)ドクターをとったにも関わらず、就職が無いなんて絶対におかしい事です。こんな世の中では大学院生が安心して研究に打ち込む事が出来ません。
しかし、院生への教育は各研究室に任されているので、所属していた研究室によってドクターの質もまったく異なっているのでは無いかとも思ったりします。閉鎖的なシステムを改革し、つぶやき先生のような問題意識のある大学人が増えて、少しは良い方向に向かって行く事を願っています(なあんて。かなり生意気ですね。自分が雇用不安定な博士後期過程生活を1年で耐え切れずに中退した経験があったので、問題の重要性をヒシヒシと感じてしまったのです。)。
Commented by hal at 2006-05-09 22:33 x
エントリーを立ててまでお答えくださり、どうもありがとうございます。
ただ、書いていただいた文章、さらには他の方々のコメントやトラックバック先のブログの文章を読むと、結局のところつぶやきさんはじめみなさんは、重点化以前の少数の大学院生が主に研究者を目指していた時代と同じ教育(例えば端的には「学生がひとりの独立した研究者として、テーマを設定し、実験を計画し、実施し、ディスカッションし、論文を書き、発表するという研究のサイクルをひとりで回すことができるようにしてやるという教育」)が理想なのだと思っているように受け取れます。数日前の「背中を見て育つ」のは伝説であるという文章との整合性はどのようにしてとれるのでしょうか。しかも(たとえ文科省の策略や失策だったとしても)現実は既にそういう状況ではありませんよね。
Commented by hal at 2006-05-09 22:34 x
大学全入の時代を目前にして、学部は従来の高校へ、院は従来の学部へとシフトをしていくと言われています。例えば私の勤める地方中堅大では学部の1-2年は高大連携、2-3年で従来の教養、3-4年で専門初級の内容を教え、いわゆる専門は大学院でという扱いになりつつあります。それに合わせて私もFD合宿研修で、授業中に学生に答えさせたり、黒板に書かせたり、課題を与えて考えさせたりしながら、学生の間を歩いて一人ひとり指導すること(机間指導と呼ぶそうです)までトレーニングを受けました。まるで中学校のようですが、学生はそういう面倒見の良い授業しか評価しません(しかも今年度から彼らの評価が、当該年度の論文数などと同列に教員の給与のアップ率の計算に影響することになりました)。そして彼らは当然ながら大学院でも同じことを期待します。実際、重点化以降に入学が容易になった旧帝大の大学院でも「せっかく○○大の院に入学したのに何も教えてもらえない」と抗議をしたり不登校になったりする学生が増えていると聞きます。
Commented by hal at 2006-05-09 22:37 x
彼らが求めているものは、「親身の個別指導」「ラボの研究の手伝いではなく専攻分野における幅広い学習」「しかも実社会に出てから役に立つ知識と技術」というキーワードに集約されると思います。
一方で、大学院の中心はやはり研究であり、そこでの教育もまた(座学もさることながら、しかも実習ではなく)主体的な研究でなければいけないという考えにもうなずく点があります。しかしそうしたOJT教育はもはや機能しない時代であるという内容のコメントも以前にいただきました。やはり問題は上述の院生の要請と研究現場の間の折り合いだろうと思います。しかも、教育に情熱をもっている教員だって、(中には降りてしまったひともいるでしょうが)研究を推進したいという情熱を忘れているわけではないのです。つぶやきさんには、そのあたりの裏側の葛藤や解決の方策などをお聞きしたかったのです。
Commented by alchemist at 2006-05-10 09:50 x
常に安上がりの方向に向かう教育改革を何とかすることから始まるのではないでしょうか?
例えば、この10年余りでもっとも目玉になった初等中等教育改革は「ゆとり教育」です。ゆとり教育のあり方としては、教育水準を下げずに教育環境を充実させることで(つまりは教員を増員し、うまく教えることができるようなトレーニングにも十分な予算と時間をかけ、教育内容が理解できていない生徒の理解度を高めることができるようにする)対応することも出来たはずです。ところが現実に行われたのは、単なる教育内容の切り捨てに過ぎません。
高等教育以後で云えば、ここでも話の出ている大学院重点化があります。ちょうど日本の大学に勤務し始めた頃でしたので、重点化というのは、院生の数を絞って教員数を増やし重点的に指導できるようにすることだと、勘違いしてしまいました。でも現実に起きたのは充填化と揶揄されるような変化でした。
そういう、常に安上がりの方向にしか向かわない「改革」という意識をどう改革するかから始める必要がありそうです。
by stochinai | 2006-05-08 21:40 | 大学・高等教育 | Comments(7)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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