2006年 05月 10日
大学を教育の場として再生できるか
第1のレポート大学院における教育と研究は、halさんには及第点をいただけなかったようですので、補足レポートを提出させていただきます。以下の引用はこのレポートのコメント欄からのものです。
halさんのいらだちは私にも痛いほどわかります。特に次のところは、首相や文科大臣、文科省のみなさんには何度も読み返してもらいたいところです。
いわゆる「ゆとり教育」で、高校までに学ぶべき内容が大幅に削減されてしまいました。特に今年の入学生からは新しい学習指導要領で教育されてきている学生ですから、今までのように(実態はどうあれ)「ここ」までは学んできているものとして大学教育を始めるということができなくなっています。そこでは、まさに旧来の高校教育も大学が引き受けざるを得なくなっている現実があります。
ところが、大学設置基準が1991年6月に改正され(施行は1991年7月)、いわゆる大綱化されたことによって、大学教育をつなぐ役割を担っていた大学の教養部・一般教育課程は1996年までには国立大学ではほぼ消滅してしまっているため、高校のつなぎ教育や従来の教養教育といったものは、「普通の大学の先生」によって担われなければならない状況にあります。
ご存じの方も多いと思いますが、大学の教員は教育研究職と位置づけられておりますが、そのほとんどが研究業績と研究能力の審査によって採用されているという現実があります。高校までの教員のように大学で教えるための教員免許制度もありませんので、はっきり申し上げると採用時には教育能力などほとんどない方が多いと思います。かくいう私も採用時には大学教育などというものに経験もなければ、教えられた記憶もない状況で助手として雇われました。
さすがに、それでは新入生などの教育はできるはずはありませんので、最近はどこの大学でも教員研修(FD:ファカルティ・ディベロップメント)というものをやり始めています。
halさんは教員としての資質もあり努力もなさっておられるので、学生から評価される授業ができる教員のおひとりだと思います。それは、その次に書いてある学生の気持ちを的確に把握している文章からうかがい知ることができます。
学生の「評価」は講義の改善には役立ちますが、教員管理に使ったりすべきものではないというのは教育学者の間では常識と聞いたことがあります。それにもかかわらず、かなり多くの大学でそうした非科学的人事管理をやっているという話は聞きます。大学に科学リテラシーがないのでしたら、大学の存在意義すらあやしいと言わざるをえませんね。
それとも、大学の「お客様」である学生は、我々の神様なのでしょうか。そこまでこびへつらうことを誰が命じているのでしょうか。
また、いくら文科省が失策を犯してきたからといって、その被害者である学生を救うために、もう文科省の職員ですらない我々教員がもっと重大な被害者になって償う必要があるのでしょうか。
今いる学生を救おうとするのならば、大学に教育の得意な教員を増員することが最大の近道だと思います。研究業績と研究能力を基準に採用されてきているほとんどの大学教員に、今の大学の状況を「教育の充実」という方面から救えと命令しても、実現性はほとんど薄いと言わざるを得ません。今、研究に割いている時間とエネルギーをすべて教育に注いだとしても、残念ながらその能力を持った人は大学教員のうち多くみても2-3割しかいないと思います。さらに、多くの人がそんなことをする気はないと思っているでしょう。できない上にやる気がない人に命令しても、せいぜいできることは「やったふり」だけでしょう。
あるいは最低でも、彼ら(私達)にどうしたら大学生・大学院生をりっぱな社会人に仕立て上げられるのかという、ノウハウと時間とお金とサポーターをたくさん与えていただきたいと思うのです。学生を教育するアイディア競争に勝ったところにだけ、教育予算をあげるというようなCOE的なやり方だと、負けた大学の学生を切り捨てるということになります。学生諸君は、そのような文科省のやり方を受け入れて納得できるのでしょうか。
今の大学の現状を救うことは可能だと思います。無理というわけではないのです。文科省には、脅かして競争させるのではなく、励まして手伝うということをお願いしたいと思います。
#この状況の中で、どうやって研究を進めていったら良いのかという点については、また稿を改めて書きたいと思います。>halさん、すみません。
halさんのいらだちは私にも痛いほどわかります。特に次のところは、首相や文科大臣、文科省のみなさんには何度も読み返してもらいたいところです。
学部の1-2年は高大連携、2-3年で従来の教養、3-4年で専門初級の内容を教え、いわゆる専門は大学院でという扱いになりつつあります。大学に入学した学生をきちんと教育し、成長させて出そうということになれば、こうした取り組みは当然必要になっている現実は目の前にあります。東大・京大はどうかわかりませんが、旧帝大の末席を汚す北大でも明らかにそうです。
いわゆる「ゆとり教育」で、高校までに学ぶべき内容が大幅に削減されてしまいました。特に今年の入学生からは新しい学習指導要領で教育されてきている学生ですから、今までのように(実態はどうあれ)「ここ」までは学んできているものとして大学教育を始めるということができなくなっています。そこでは、まさに旧来の高校教育も大学が引き受けざるを得なくなっている現実があります。
ところが、大学設置基準が1991年6月に改正され(施行は1991年7月)、いわゆる大綱化されたことによって、大学教育をつなぐ役割を担っていた大学の教養部・一般教育課程は1996年までには国立大学ではほぼ消滅してしまっているため、高校のつなぎ教育や従来の教養教育といったものは、「普通の大学の先生」によって担われなければならない状況にあります。
ご存じの方も多いと思いますが、大学の教員は教育研究職と位置づけられておりますが、そのほとんどが研究業績と研究能力の審査によって採用されているという現実があります。高校までの教員のように大学で教えるための教員免許制度もありませんので、はっきり申し上げると採用時には教育能力などほとんどない方が多いと思います。かくいう私も採用時には大学教育などというものに経験もなければ、教えられた記憶もない状況で助手として雇われました。
さすがに、それでは新入生などの教育はできるはずはありませんので、最近はどこの大学でも教員研修(FD:ファカルティ・ディベロップメント)というものをやり始めています。
それに合わせて私もFD合宿研修で、授業中に学生に答えさせたり、黒板に書かせたり、課題を与えて考えさせたりしながら、学生の間を歩いて一人ひとり指導すること(机間指導と呼ぶそうです)までトレーニングを受けました。しかし、FDというのはまさに泥棒を捕まえてから縄をなうようなもので、ほんの数日間で大学教育の達人になれるはずはありませんので、「ホンモノの大学教員」になるためには、その後何年もかけて試行錯誤を続けなければなりません。その間、使えるようになるまでも現場で教育し続けますから、その時に教えられた学生には本当に申し訳ないことになります。(私も、何年分かの学生には謝らなければならないと思っています。)
halさんは教員としての資質もあり努力もなさっておられるので、学生から評価される授業ができる教員のおひとりだと思います。それは、その次に書いてある学生の気持ちを的確に把握している文章からうかがい知ることができます。
まるで中学校のようですが、学生はそういう面倒見の良い授業しか評価しません(しかも今年度から彼らの評価が、当該年度の論文数などと同列に教員の給与のアップ率の計算に影響することになりました)。halさんがこんなに努力している一方で、学生の評価を教員の給与に反映させるなどという制度を作った大学当局は、正気の沙汰ではありません。学生は楽しい講義をしてくれて、出席をうるさくチェックせず、予習復習などしなくても良い成績をくれる先生には高い評価をくれます。逆に私のように一度でも欠席したらレポートを出さない限り単位はあげません、などと言って実際に何人もの学生に不可を出すようなことをすると、こちらに対して厳しい評価を下す学生が増えます。そんないい加減な学生の「評価」を教員の待遇にまで反映させるというようなことは人権問題とすら言えますし、学生をきちんと教育するという面からみると逆効果になります。
学生の「評価」は講義の改善には役立ちますが、教員管理に使ったりすべきものではないというのは教育学者の間では常識と聞いたことがあります。それにもかかわらず、かなり多くの大学でそうした非科学的人事管理をやっているという話は聞きます。大学に科学リテラシーがないのでしたら、大学の存在意義すらあやしいと言わざるをえませんね。
それとも、大学の「お客様」である学生は、我々の神様なのでしょうか。そこまでこびへつらうことを誰が命じているのでしょうか。
そして彼らは当然ながら大学院でも同じことを期待します。実際、重点化以降に入学が容易になった旧帝大の大学院でも「せっかく○○大の院に入学したのに何も教えてもらえない」と抗議をしたり不登校になったりする学生が増えていると聞きます。天下のK大では、そうした大学院生のために指導教員が家庭訪問をするという精度を作ったとも聞きますが、あきれた時代になったと思います。学部と違いがなくなったとしても、大学院の存在意義はあるのでしょうか。
彼らが求めているものは、「親身の個別指導」「ラボの研究の手伝いではなく専攻分野における幅広い学習」「しかも実社会に出てから役に立つ知識と技術」というキーワードに集約されると思います。そして、実際に学生に聞いてみられればわかると思いますが、現実を知る前までならば、大学院に進学する学生の多くが研究者になることを希望しています。決してかなえてやることのできない希望を持った学生を、大学院に入れてあげることは、誰にとっての幸福につながるのでしょうか。
また、いくら文科省が失策を犯してきたからといって、その被害者である学生を救うために、もう文科省の職員ですらない我々教員がもっと重大な被害者になって償う必要があるのでしょうか。
今いる学生を救おうとするのならば、大学に教育の得意な教員を増員することが最大の近道だと思います。研究業績と研究能力を基準に採用されてきているほとんどの大学教員に、今の大学の状況を「教育の充実」という方面から救えと命令しても、実現性はほとんど薄いと言わざるを得ません。今、研究に割いている時間とエネルギーをすべて教育に注いだとしても、残念ながらその能力を持った人は大学教員のうち多くみても2-3割しかいないと思います。さらに、多くの人がそんなことをする気はないと思っているでしょう。できない上にやる気がない人に命令しても、せいぜいできることは「やったふり」だけでしょう。
あるいは最低でも、彼ら(私達)にどうしたら大学生・大学院生をりっぱな社会人に仕立て上げられるのかという、ノウハウと時間とお金とサポーターをたくさん与えていただきたいと思うのです。学生を教育するアイディア競争に勝ったところにだけ、教育予算をあげるというようなCOE的なやり方だと、負けた大学の学生を切り捨てるということになります。学生諸君は、そのような文科省のやり方を受け入れて納得できるのでしょうか。
今の大学の現状を救うことは可能だと思います。無理というわけではないのです。文科省には、脅かして競争させるのではなく、励まして手伝うということをお願いしたいと思います。
#この状況の中で、どうやって研究を進めていったら良いのかという点については、また稿を改めて書きたいと思います。>halさん、すみません。

ここのところ、つぶやきさんが、すごく一生懸命、大学教育のあり方を考えているのが、伝わってきます。研究職がない、博士に職がないといいますが、大学院に進学しているような実家に余裕がある家の人のまだいいほうで、多くの20代、30代が、大学を出ても安定した職に就けないでします。出口がハッピーだった時代は、大学もワンダーランドで大学時代何をやったかなんて、企業も本人も気にしていなかった。出口の関門が厳しいせいで、大学教育はどうなってんだという声が上がっているような気もします。いつの時代も学生が大学に求めているのは、社会に出て切り札的に使えるパスポートのようなものなのではないでしょうか・
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お国の方針もあるのでしょうが、高校までの知識があれば社会では生きていけると思います。大学で得られる知識は「専門知識」であり、ある職種のある立場につく人に必要な知識の習得の場で良いはずです。今の時間を引き延ばしただけの今の(これからの)教育のあり方には疑問があります。
大学は本当の意味での「専門家養成所」であるべきではないでしょうか?常にかわっていく先端の情報をわかりやすく伝達できるのは、教員ではなく、研究者であるべきです。しかし、自分の過去を振り返っても、研究者(大学教員)による授業にはろくなものがありませんでした。
アメリカの大学であるような、「授業をしなくてはならないポジション」、「しなくても良いポジション」を設けるのが良いのかもしれません。また、医者でいうところの「インターン」制度を導入し、「授業の仕方:実践編」のようなコースをつくるのも手かもしれません。とにかく初心者教育のやり方を学んでほしいです。
大学は本当の意味での「専門家養成所」であるべきではないでしょうか?常にかわっていく先端の情報をわかりやすく伝達できるのは、教員ではなく、研究者であるべきです。しかし、自分の過去を振り返っても、研究者(大学教員)による授業にはろくなものがありませんでした。
アメリカの大学であるような、「授業をしなくてはならないポジション」、「しなくても良いポジション」を設けるのが良いのかもしれません。また、医者でいうところの「インターン」制度を導入し、「授業の仕方:実践編」のようなコースをつくるのも手かもしれません。とにかく初心者教育のやり方を学んでほしいです。

生命科学分野で博士取得したばかりの人間です。この分野における大学院教育の在り方および博士取得者の就職問題には由々しきものがあると常々感じています。大学院重点化になって約10年、簡単に予想できた事態であるだろうに、泥縄式の政策に、怒りをおぼえています。 私は科学教育はよりよい社会には必要だと考え居ます。論理的思考ができることや、真実を見ようとする姿勢を身につけること、これがないと風説に流され易くなり、ひいてはテロなどにもつながると思います。そんなことを大学院でやる必要があるのか、という議論もあると思います。しかしここまで大学進学率が上がればこのようなことに主眼を置いてもよい気もします。大学院で学んだ専門知識は社会に出て役に立つとは思えませんが、専門分野を勉強する上での考え方、物の見方、取り組み方、そして伝え方は必ず役に立つ物だと思っています。大学院教育を受けて来た者は上記のことができるべきだし、社会もまたそのような素養を持っている人間として受け入れる(雇う)ことができれば良いのに、と思います。 真剣にこれからの教育について考える人たちがいらっしゃることに救いを感じます。

(続き)これらの声が政策の改善につながっていけば、と願わずにはいられません。国としてもお金(税金)をかけて高等教育を施しているのです。人材の育成と有用活用がなければこれまで我々に投じて来られた税金は無駄に終わることになるのです。
散文になり、申し訳ありません。
散文になり、申し訳ありません。

関西のD大の話ですが、わざわざ就職のための説明会を「親に対して」全国を回ってやっていたらしいですから。面倒見がよくなったもんだと思いましたね。
いまどきの高校生を見ているとわかるのですが、(しばらくブランクはあるけれど)何をしていいのか分からない、と言う子が目立ちます。親御さんは不安な時代だからと進学を勧めます。大学側が困るのも当然でしょう。
個人的経験などから、助手などの採用に当たって民間経験のある方は、わりと柔軟だと言う気がします。富山県立大はそういう公募の仕方をしているようです。産学協同には利点も暗部もあると思いますが、院時代には大体企業と協力していました。今になって、そのころの先生の苦労が分かります。いつも科研費などの申請書を書いていらっしゃいました。
でも、国や親に投資された分を返せたとは思っていません。いまだに無駄金使いと家族内大げんかになることが。
いまどきの高校生を見ているとわかるのですが、(しばらくブランクはあるけれど)何をしていいのか分からない、と言う子が目立ちます。親御さんは不安な時代だからと進学を勧めます。大学側が困るのも当然でしょう。
個人的経験などから、助手などの採用に当たって民間経験のある方は、わりと柔軟だと言う気がします。富山県立大はそういう公募の仕方をしているようです。産学協同には利点も暗部もあると思いますが、院時代には大体企業と協力していました。今になって、そのころの先生の苦労が分かります。いつも科研費などの申請書を書いていらっしゃいました。
でも、国や親に投資された分を返せたとは思っていません。いまだに無駄金使いと家族内大げんかになることが。

「我々は研究能力はあるけど教育能力は不十分なので、学生の教育ニーズに対応せよとの文科省・大学当局の方針は無責任」というのであれば、皆さんで、教育職と研究職の分離(又は教育業務と研究業務の峻別)を当局に提案されてはどうでしょうか。
その際、学生が教育機関としての機能を大学に求めているのだとすれば、教員の待遇面でも教育職(教育業務)を優先する仕組みになるはずです。
研究職(研究業務)は、基礎水準の待遇を保証し、研究費や待遇の上乗せ分は、競争的資金又は公的助成を獲得するのが基本となり、待遇上不満があるのであれば、その分教育業務にも努力を傾けて給与の上積みを図るという仕組みでよいのではないでしょうか。
その際、学生が教育機関としての機能を大学に求めているのだとすれば、教員の待遇面でも教育職(教育業務)を優先する仕組みになるはずです。
研究職(研究業務)は、基礎水準の待遇を保証し、研究費や待遇の上乗せ分は、競争的資金又は公的助成を獲得するのが基本となり、待遇上不満があるのであれば、その分教育業務にも努力を傾けて給与の上積みを図るという仕組みでよいのではないでしょうか。
提案しても相手にされないだろうという現実はありますが、基本的に私はその提案に賛成です。ただし、教育担当の教員も「教育的研究」はできるしくみを残しておくべきで、それがないといわゆる高等教育にはならないと思います。
実は国立大学では昔、研究と教育のを分離する試みをしたことがあります。いわゆる付置研究所というやつで、そこには研究能力の高い人を配置し、教育の義務を大幅に減らして研究に専念させようというアイディアです。ところが、その試みは内部から挫折してしまいました。なぜならば、教育に携わっていない研究所には学生が集まらず沈滞し、学部の上につながっている大学院の方に学生が集まり、研究がどんどん進展する結果になったからです。その結果、付置研の先生も「教育」をしたがるようになりましたが、下心のある「教育」もあまりうまくいっていないという現実があるようで、、、、。
実は国立大学では昔、研究と教育のを分離する試みをしたことがあります。いわゆる付置研究所というやつで、そこには研究能力の高い人を配置し、教育の義務を大幅に減らして研究に専念させようというアイディアです。ところが、その試みは内部から挫折してしまいました。なぜならば、教育に携わっていない研究所には学生が集まらず沈滞し、学部の上につながっている大学院の方に学生が集まり、研究がどんどん進展する結果になったからです。その結果、付置研の先生も「教育」をしたがるようになりましたが、下心のある「教育」もあまりうまくいっていないという現実があるようで、、、、。
もうひとつ。最近、文科省は国立大学を「研究大学」と「教育大学」にわけようと思っているように思えますので、一般人さんの提案はすでに政策として進行中なのかもしれません。ただし、その先に「教育大学」の廃校がある気配も感じられますので、今は過渡期なのかもしれません。しかし、「過渡期」にも大学生・大学院生はいるわけで、その人達がかなりの被害を被ることになるのが心配です。
stochinaiさん
文科省の委員会などを傍聴していると,「研究大学」と「教育大学」とにわけようとしているのは,実際にそのとおりです.研究ということばの多義性を理解しておく必要がありますが,「教育的研究」はもちろん残していく必要があると思います.ただ,第3期科学技術基本計画のなかの「政策課題対応型研究」の中に「教育的研究」は含意されていないのではないかと思われます(すくなくとも明文化されていないようです).
文科省の委員会などを傍聴していると,「研究大学」と「教育大学」とにわけようとしているのは,実際にそのとおりです.研究ということばの多義性を理解しておく必要がありますが,「教育的研究」はもちろん残していく必要があると思います.ただ,第3期科学技術基本計画のなかの「政策課題対応型研究」の中に「教育的研究」は含意されていないのではないかと思われます(すくなくとも明文化されていないようです).

補足レポートありがとうございます(でも、第一報が及第点ではないということではありません)。研究に関するエントリーも楽しみにしておりますので、よろしくお願いいたします。
ところで、一般人さんのコメントのような職の分離は大変興味深いと思います。ひとを分けるのではなく、基本給は教育で評価し、そして研究は校費と競争的資金でまかないながら、そこから給与の上乗せをするというアイデアもあるかもしれませんね。
ところで、一般人さんのコメントのような職の分離は大変興味深いと思います。ひとを分けるのではなく、基本給は教育で評価し、そして研究は校費と競争的資金でまかないながら、そこから給与の上乗せをするというアイデアもあるかもしれませんね。

古い記事にコメントするのもなんですが、「末席を汚す」とは聞き捨てられませんね。
自分のことを言う時に、こういう言い方をするのは伝統的に許されるのではないでしょうか?(それに、いろんな「ランキング」で、最下位なのは事実であります^^;)

いやな伝統ですね。他の記事で現在の教育システムを非難している人が言う言葉でしょうか。競争は必要ですが、少なくとも大学の価値が受験競争で決まるものではないです。先生が北大を高める努力をしてくださいよ。
すみません。ランキングの説明をするべきでした。受験偏差値のランキングなどは考えてもいませんでした。私が言いたかったのは、科研費の獲得や、論文の出版数や被引用度のことです。そして、今の北大はその実力から言って科学や社会に対して十分に貢献をしており、様々な要因が絡まるいわゆる「ランキング」を高める意味はそれほどあると思いません。
それと、ご存じかとは思いますが「末席を汚す」には、「汚す」意味などまったくありません。
・末席を汚す(まっせき[=ばっせき]をけがす) 会合に出席したり、集団の仲間に加わったりすることを謙遜して言う言葉。(くろこ式慣用句辞典より)
・末席(まっせき)を汚(けが)・す:ある集団に加わったり、会合に出席したりすることをへりくだっていう語。(三省堂:大辞林)
それと、ご存じかとは思いますが「末席を汚す」には、「汚す」意味などまったくありません。
・末席を汚す(まっせき[=ばっせき]をけがす) 会合に出席したり、集団の仲間に加わったりすることを謙遜して言う言葉。(くろこ式慣用句辞典より)
・末席(まっせき)を汚(けが)・す:ある集団に加わったり、会合に出席したりすることをへりくだっていう語。(三省堂:大辞林)
http://pro.tok2.com/~nhg/qa/keigo-3.htmより引用
最近感動した映画に『たそがれ清兵衛』というのがあります。
英語のタイトルは、『The Twilight Samurai』です。
清兵衛は、剣術がとても強いのですが、
「戸田先生の道場の末席を汚しただけです。」と言っています。
この『末席を汚す』は、『~のはしくれ』と同じ意味で使われています。
『末席を汚す』は文語的、『~のはしくれ』は口語的という違いはあるかもしれませんがーー。
英語のサブタイトルがついたもの、あるいは英語版ができたら見て下さい。
古き良き日本人を理解して頂くのに、お役に立つかも知れません。
最近感動した映画に『たそがれ清兵衛』というのがあります。
英語のタイトルは、『The Twilight Samurai』です。
清兵衛は、剣術がとても強いのですが、
「戸田先生の道場の末席を汚しただけです。」と言っています。
この『末席を汚す』は、『~のはしくれ』と同じ意味で使われています。
『末席を汚す』は文語的、『~のはしくれ』は口語的という違いはあるかもしれませんがーー。
英語のサブタイトルがついたもの、あるいは英語版ができたら見て下さい。
古き良き日本人を理解して頂くのに、お役に立つかも知れません。

>それと、ご存じかとは思いますが
まったく知りませんでした。恥ずかしい限りであります。
まったく知りませんでした。恥ずかしい限りであります。
by stochinai
| 2006-05-10 13:13
| 教育
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