2006年 05月 21日
教員の背中
「学生は教員の背中を見て育つ」という言説に関しては、いくらでも肯定的・否定的意見を見つけることができます。私自身でも、この言葉を肯定的にも否定的にも解読することができるとともに、この言葉が持ち出される状況によってYESという気持ちになることもあれば、NOと否定したくなることもあります。要するに、多義的すぎて「使えない」というところかもしれません。
しかし、育つか育たないかはさておき、学生が教員の背中を見ていることは事実です。背中というのは教員の発する言葉ではなく、教員の生き方そのものという意味だと思います。一般に「背中をみて育つ」というのは学生や第三者から見て、教育らしいことを何もしない先生の下から、暗黙のうちにその生き方を模倣して素晴らしい人材が育っていくというような状況を指して言っているのだと思います。
教員の言葉ではなく生き方そのものが、学生を教育するということは教員にとっては、何も教育的な作業をしなくても良いので楽に思えることもありますが、実はかなり厳しいもので、文字通り聖職者としての生き方をしている人(そんな人はほとんどいないと思いますが)以外は、胸を張って「オレの背中を見ろ」などと言えるものではないでしょう。
逆に、学生は教員の「負の背中」も敏感に見ているものです。その場合には、背中を見て師のようになったとしたら悪が複製されることになりますし、背中を見て師のようにだけはなりたくないということで逆の生き方を選んだとしたら「反面教師」と言われることになります。反面教師は師として価値のある存在と言えるのでしょうか。おそらく昔は学生というものがとても偉い存在だったので、偉い師を見たらそれを真似あるいはそれを越えようとして努力し、悪い師を見たら決してそうならないように努力することで、必ず善なる成長をするものだというふうに考えられていたのではないでしょうか。そんな時代だったら、確かに師は何も教えることもなくただ生きて自分のしたいことをしているだけで、学生はどのような師の下でもきちんと育っていくことができたのでしょう。
時代は下り、誰でもが学生になれるようになりました。そうなってくると、誰でもが師の役割を果たせるわけではなくなってきたのかもしれません。背中を見せても、何も感じない学生には背中を見せることが教育にはなりません。悪い生き方を見せた場合、何も感じない学生だったら害もないかもしれませんが、それを善としてひたすらに模倣する学生の場合にはどうでしょう。昔なら反面教師として、一代限りで終わっていた悪が連鎖的に複製されるという状況すら想定されてしまうかもしれません。
極端な例ばかりで現実味がないと思われるかもしれませんので、ひとつだけ非常に現実的なお話をしてみたいと思います。
学生は自分の指導教員を含めて、いろいろな研究者教員の「背中」を見ていると思います。私が学生の時もそうでしたが、そうした教員の多くがそれほど偉大な存在に思えないということがあると思います。もっと言うと、自分の方がはるかに研究者あるいは教育者として能力があると思えることがあります。まあ、多くの場合は学生の無知による傲慢に過ぎないのでしょうが、そう思うということは否定できません。もちろん、中には「この人にはかなわない」と思える人もいますし、そういう人に対しては、尊敬したり真似をしたいと思ったり弟子にして欲しいと思ったりして、がんばって乗り越えたいと思わないわけではありませんが、やっぱり自分よりも大したものではないと思える先生が意外にたくさんいると思うケースが多いのではないでしょうか。
どう考えても自分よりも劣るように思われる人間が、こんなにたくさん大学の教員として教育研究者となっているのはどういうことだろうと思うとともに、それなら自分だって大学の教員になっても不思議はないと思う学生も多いのだろうと思います。
これほど大学院生が増えてきて、冷静に数学的に考えると、ほとんどの大学院生が大学教員にはなれないということが計算できるにもかかわらず、大学院に進学し、しかも進学の時点ではかなり多くの学生が研究者(できれば大学教員か国公立研究所の研究者)になりたいと思っているという話を見聞きするにつけ、彼らが日々背中を見ている教員が「大したことない」というふうに感じているに違いないと思うことも多々あります。
ただし、もしたとえこの判断が正しいとしても、その前に大きな壁があります。
それは、今の研究者の世界では優秀な人間とそうではない人間をきちんと判断する全国共通のシステムもなければ、そうした人間を交換するシステムもないのです。例えば、私の研究室に私よりも明らかに研究能力も教育能力もすぐれた大学院生がいたとします。そして、あまりにもその学生が優秀なので私もそれに賛同して、研究室をその学生に委譲したいと思ったとして、私が辞職してその学生を私の代わりに研究室の責任者にすることはできません。
学問の世界は非常にフェアですから、大御所と言われる大学の先生よりも大学院学生の方が能力があることがはっきりわかることもあったりしますが、その学生にきちんとしたポストを保障できるかどうかは別問題という状況があります。それはとても不幸でアンフェアなことではありますが、日本の科学・教育の世界における事実です。
そこのところをなんとかするとともに、研究を始めようとする大学院学生に対しては、研究者になれるかどうかは研究や教育の能力だけではなく、運や人脈などが大きく作用しているということを説明しておかなければ詐欺になってしまうということを常々考えているところです。
国家レベルで詐欺しちゃいけませんよね。
しかし、育つか育たないかはさておき、学生が教員の背中を見ていることは事実です。背中というのは教員の発する言葉ではなく、教員の生き方そのものという意味だと思います。一般に「背中をみて育つ」というのは学生や第三者から見て、教育らしいことを何もしない先生の下から、暗黙のうちにその生き方を模倣して素晴らしい人材が育っていくというような状況を指して言っているのだと思います。
教員の言葉ではなく生き方そのものが、学生を教育するということは教員にとっては、何も教育的な作業をしなくても良いので楽に思えることもありますが、実はかなり厳しいもので、文字通り聖職者としての生き方をしている人(そんな人はほとんどいないと思いますが)以外は、胸を張って「オレの背中を見ろ」などと言えるものではないでしょう。
逆に、学生は教員の「負の背中」も敏感に見ているものです。その場合には、背中を見て師のようになったとしたら悪が複製されることになりますし、背中を見て師のようにだけはなりたくないということで逆の生き方を選んだとしたら「反面教師」と言われることになります。反面教師は師として価値のある存在と言えるのでしょうか。おそらく昔は学生というものがとても偉い存在だったので、偉い師を見たらそれを真似あるいはそれを越えようとして努力し、悪い師を見たら決してそうならないように努力することで、必ず善なる成長をするものだというふうに考えられていたのではないでしょうか。そんな時代だったら、確かに師は何も教えることもなくただ生きて自分のしたいことをしているだけで、学生はどのような師の下でもきちんと育っていくことができたのでしょう。
時代は下り、誰でもが学生になれるようになりました。そうなってくると、誰でもが師の役割を果たせるわけではなくなってきたのかもしれません。背中を見せても、何も感じない学生には背中を見せることが教育にはなりません。悪い生き方を見せた場合、何も感じない学生だったら害もないかもしれませんが、それを善としてひたすらに模倣する学生の場合にはどうでしょう。昔なら反面教師として、一代限りで終わっていた悪が連鎖的に複製されるという状況すら想定されてしまうかもしれません。
極端な例ばかりで現実味がないと思われるかもしれませんので、ひとつだけ非常に現実的なお話をしてみたいと思います。
学生は自分の指導教員を含めて、いろいろな研究者教員の「背中」を見ていると思います。私が学生の時もそうでしたが、そうした教員の多くがそれほど偉大な存在に思えないということがあると思います。もっと言うと、自分の方がはるかに研究者あるいは教育者として能力があると思えることがあります。まあ、多くの場合は学生の無知による傲慢に過ぎないのでしょうが、そう思うということは否定できません。もちろん、中には「この人にはかなわない」と思える人もいますし、そういう人に対しては、尊敬したり真似をしたいと思ったり弟子にして欲しいと思ったりして、がんばって乗り越えたいと思わないわけではありませんが、やっぱり自分よりも大したものではないと思える先生が意外にたくさんいると思うケースが多いのではないでしょうか。
どう考えても自分よりも劣るように思われる人間が、こんなにたくさん大学の教員として教育研究者となっているのはどういうことだろうと思うとともに、それなら自分だって大学の教員になっても不思議はないと思う学生も多いのだろうと思います。
これほど大学院生が増えてきて、冷静に数学的に考えると、ほとんどの大学院生が大学教員にはなれないということが計算できるにもかかわらず、大学院に進学し、しかも進学の時点ではかなり多くの学生が研究者(できれば大学教員か国公立研究所の研究者)になりたいと思っているという話を見聞きするにつけ、彼らが日々背中を見ている教員が「大したことない」というふうに感じているに違いないと思うことも多々あります。
ただし、もしたとえこの判断が正しいとしても、その前に大きな壁があります。
それは、今の研究者の世界では優秀な人間とそうではない人間をきちんと判断する全国共通のシステムもなければ、そうした人間を交換するシステムもないのです。例えば、私の研究室に私よりも明らかに研究能力も教育能力もすぐれた大学院生がいたとします。そして、あまりにもその学生が優秀なので私もそれに賛同して、研究室をその学生に委譲したいと思ったとして、私が辞職してその学生を私の代わりに研究室の責任者にすることはできません。
学問の世界は非常にフェアですから、大御所と言われる大学の先生よりも大学院学生の方が能力があることがはっきりわかることもあったりしますが、その学生にきちんとしたポストを保障できるかどうかは別問題という状況があります。それはとても不幸でアンフェアなことではありますが、日本の科学・教育の世界における事実です。
そこのところをなんとかするとともに、研究を始めようとする大学院学生に対しては、研究者になれるかどうかは研究や教育の能力だけではなく、運や人脈などが大きく作用しているということを説明しておかなければ詐欺になってしまうということを常々考えているところです。
国家レベルで詐欺しちゃいけませんよね。

運や人脈が将来に対して大きく作用する事は研究者に限った事ではないので、世の中の現実として出来るだけ早めに分かった方が良いのでしょうね。大学を卒業して10年ほどしか経っていないものの、そこそこの実力がある人ならば後は、人脈(コネ)とタイミングとチャンスを逃さない事が大切だと感じます、ずば抜けた人は別として。
0
ツバメのことで謝らないといけないことがあります。
少し前にある年を境にしてツバメがうちに来なくなったと書きましたが、これはアタシの勘違いでした。
ツバメは。。。うちには巣を作らなくなったのですが、近所の家には巣をつくり子育てに励んでいるようでした。
最近、つばめが空を飛んでいるので、どこに住んでいるのだろうと観察していたら、うち以外の近所に巣を作っていることがわかりました。
ということはうちはツバメに嫌われているということなのね。。。
少し前にある年を境にしてツバメがうちに来なくなったと書きましたが、これはアタシの勘違いでした。
ツバメは。。。うちには巣を作らなくなったのですが、近所の家には巣をつくり子育てに励んでいるようでした。
最近、つばめが空を飛んでいるので、どこに住んでいるのだろうと観察していたら、うち以外の近所に巣を作っていることがわかりました。
ということはうちはツバメに嫌われているということなのね。。。
koneko04さん、わざわざご連絡ありがとうございました。ツバメがいなくなったのではなくて良かったですね。使われなくなった巣があるということは、やはり数は減っているのかもしれません。これからも、よろしくお願いします。
by stochinai
| 2006-05-21 23:59
| 教育
|
Comments(3)