5号館を出て

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いまさら国語を重視って

 今朝の朝日新聞の見出しを見て、思わず目をこすってしまいました。
いまさら国語を重視って_c0025115_23104164.jpg
 ここへ来て、あえて国語を学習の基本に位置づけると宣言するということは、日本の初等・中等教育では、今まで国語が学習の基本とはされていなかったと言うことなのでしょうか。そんなことを認めてしまっていいのでしょうか。

 オンラインでも読むことができます。「国語、学習の基本に 次期指導要領、言語力を重視」です。

 読んでみても何を言っているのか良くわからず、まさに国語力に問題があるような気がするのですが、引用してみます。
 文科省によると、国語については、全体として「言語力の育成」を目指す。小学校段階から、対話や報告、要約、説明など言語の「技能」を確実に身につけ、さらに「活用」して思考を深めることを目標にする。さらに、高校の国語では、「文章などを理解し、論理的に考え表現する能力の育成を重視する」科目を新設する案も出ている。

 思考力の向上に向けては、国語を基本に見直したうえで、他教科についても議論していくことになる。
 だいたい文科省に限らず「**力」という言葉を使っている場合には眉につばをつけた方が良いことが多いものです。老人力という不滅の言葉もありますが、ほとんどのケースにおいてきちんと定義できないものをごまかす時に使うのが「**力」です。

 今回も言語力と思考力という言葉が登場しており、大安売りの様相を呈しています。

 さらに、おそらくこの記事を書いている記者の及川健太郎さんも文科省が何を言いたいのかよくわからなかったために、やたらと括弧付きの引用になってしまっているのだと思われます。 
「論理的な思考力」
「言語力の育成」
言語の「技能」(を身に付け)
(その技能を)「活用」して思考を深める
『考える道筋』
 いずれの言葉も、単語としては日常的によく使うことのあるものですが、冷静に考えてみると言おうとしていることがなんなのかがはっきりしないものばかりです。具体的に国語の授業時間数を増やすとかいう話ならばわかりやすいのですが、いったい何とどう変えたいのか良くわかりません。

 中央教育審議会が2月に、「言葉は確かな学力をつくるための基盤で、国語力の育成はすべての教育活動を通じて重視する」という報告をしたことを受けて検討を開始したという記事なのですが、国語力がないと指摘されたのは国語ではなくて数学や理科の文章を読み解く能力や、文章で説明する能力だったような気がします。

 初等教育で国語をしっかりと身に付けられるかどうかが、その後の他の学問を理解するための大前提となると思いますので、初等教育に英語を取り込むなどということを言わずに国語の学習時間を増やすということなら賛成したいと思います。あえて「国語」と呼ぶ必要はないと思いますが、論理的に読んだり書いたりすることを学ぶ科目を高校で新設するということにも賛成です。

 しかし、ゆとり教育で授業時間数を削減してしまっている現状では、新しいことをやろうとするとまた何かを犠牲にしてしまうということになるのではないでしょうか。

 何かをやろうとするたびに、力関係で科目ごとに時間を奪い合ったりすることや、また数年ごとにコロコロと指導要領を変えることはここらでやめましょう。その上で、教育全体を見通して何十年か変更する必要のない(あるいは、いったん決めてしまったら何十年かは変えることのできない)基本方針を作って、あとは現場に任せるという方式が今よりは絶対にましです。

 昔から言われているように、教育制度はいじればいじるほど悪くなるものだと実感しています。
Commented by もも at 2006-07-30 08:26 x
文部科学省はOECDの学力調査で、日本の読解力が下位だったことがトラウマなのです。問題そのものは公開されていませんが、類推すると日本のような「国語的」とか「数学的」など分化された問題ではなく、総合的な問題のようです。
日本は、細分化した教科別で教えますので、「文章題があって、そのなかに数計算や理科的知識が混在している」というものを解き慣れていません。「国語力」ではなく、そちらの問題だと思います。「これが数学の問題か」と言われるのを恐れるのですね。
国語という一科目だけに限定しても、世界の事象を理解するにはほど遠いでしょうに。先進国のメンツにこだわっているだけです。子どももたちに真の理解能力を学ばせようとするなら、国語だけにこだわってはいけないでしょう。全ての総合力ですから。
Commented by 匿名 at 2006-07-30 10:02 x
この記事の何日か前に、「怒り心頭に"発する/達する"? を正しく答えられない人がXX%」という記事があったので、単にこれを受けて泥縄的に考えたんじゃないでしょうか?
Commented by けろんこ at 2006-07-30 10:31 x
ほんとうにころころ変わる指導要領や文科省に現場は振り回されるばかりです。総合や英語教育を手放しで歓迎している教員をわたしは見たことがありません。国語や算数(数学)、理科等の時間が大幅に削られ総合にあてられた時、基礎学力の低下が避けられないことは容易に想像できました。近い将来基礎学力の低下が叫ばれるだろうとは私たち教員だけでなくだれしもが想像できたはずです。まあ、当たり前の話で、そら見たことか、というのが感想です。
Commented by ヨシダヒロコ at 2006-07-30 11:04 x
塾業界にしばらくぶりに戻ってみたら驚きました。たとえば、中国の王朝名とか覚えなくてもいいのね。もう。地理もなんか散漫な印象で、こりゃ何県とか何国がどこにあるかわかんなくなる子が続出するな、と。

余談ですが、韓国の工業高校の先生に聞いたところ、上のポリシーがよく変わるとことは同じだそうです。
Commented by sulu その1 at 2006-07-30 15:20 x
はじめまして。私は詳しいことは知りませんが、この変更は素晴らしいと思います。

リンク先の朝日新聞の記事にもあるように、今までの国語教育は、「感性と情緒」が重視されており、文学作品(の細切り)の読み解きが主体でした。(実際、私はそういう教育を受けました。)

それが決して悪いとは思いませんが、常々、日本の国語教育に欠けていると思っていたのが、論理的に書く訓練であり、人前で筋道だってわかりやすく話す訓練でした。

stochinaiさんのような場合ですと、大学・大学院以降の教育や研究で、論文作成等(abstractやintro)によって、緻密な議論の積み重ね方を体得する機会に恵まれるでしょう。また、学会発表などによって、例えば(時計を見なくても)1分や3分の長さがどのくらいであるか、与えられた時間内に自分の主張をどう筋道だてて盛り込めばいいかを体得する機会に恵まれるかもしれません。
Commented by sulu その2 at 2006-07-30 15:20 x
しかし、普通の場合ですと、そのような機会に恵まれることは稀だと思います。実際、テレビで政治家や評論家の議論を聞いたり、新聞の社説を読んでいると、失礼ながら、(支離滅裂で)ちょっと酷すぎると思うときがあります。

今回の変更で、日本人全体の「論理力」・「思考力」が上がって、将来には、(重要な問題についての)テレビでの議論や新聞・週刊誌の記事がもっとしっかりしたものになることを希望するのは、楽観的すぎるでしょうか。
Commented by ogagasawara at 2006-07-30 15:25 x
指導要領も大切なのでしょうが、本当に時間とお金と労力をつぎ込こんで何とかしなければならないのは、学校現場の授業です。クラスの平均点で力量が評価されるため、ひたすら詰め込む授業や、わかりやすくしようとして延々と説明し続ける授業、実験をして「生徒が楽しそうでよかった」とだけ振り返る授業、「試験に出る」を強調する授業… こんなことばっかりやっている教員がかなり多いのです。文部科学省は教員の負担を減らし、しっかりした教案を練る時間を確保させてあげないと。
Commented by shuyu at 2006-07-30 15:51 x
突然の書き込みお許し下さい。
学校は脳味噌のジムや、ゲームで鍛えるより学校来たほうが なんぼか安上がりや、と言った生徒がいます。そのとおり、と言いたい。
インストラクターとしての教員は 何を目的とするのか、その方法、プログラムをいかにして一人一人(であればよいのに)の顧客に合わせて作り上げるのか、また、そのプログラムに従うことで、顧客が喜びを得て、かつ、いっそうのグレードアップに期待をかけるようにするには どうすればよいのか。
先日放送された某国営放送の ワークプアという番組と重ねてしまいます。国語の時間こそ ジャンルにとらわれずに 様々な問題に視野を巡らせることのできる時間だと思うのですが。高校で 週4時間で現代文に古典じゃ、無理です。
Commented by stochinai at 2006-07-30 21:26
 皆さん、たくさんのコメントありがとうございます。とりあえず、suluさんのおっしゃる「楽観的」なご意見にコメントしたいと思います。文科省の言葉どおり国語教育を充実させて論理的に日本語を操る訓練をしたいという意図がそのとおり実現されるならば私ももちろん反対などではありません。
 しかし、ゆとり教育といって指導要領から教育内容を削減し、これ以上は入学試験には出すなといって、教育を破壊してしまったことや、高校生が理科4科目を学べなくなってしまった現状をみるにつけても、文科省が言っている「きれいごと」をそのまま受け入れる気にはなれないというのが、正直な気分なのです。
Commented by stochinai at 2006-07-30 21:26
 suluさんのおっしゃるように、技術としての日本語を学ばずにわけのわからな情緒を読みとるのが日本の国語教育の中心であったことは事実なのかもしれません。だったら、そのことを指摘して、国語の時間をたっぷりとれるような状況にしてやれば日本の国語教育は変われると思うのです。それをまた、細かく教える内容にまで介入することで、今よりも国語教育が悪くなってしまうことになるのではないかという恐れを私は感じています。
 現場におられる先生に、時間とゆとりをあたえれば子どもたちも良くなるというのが教育というものなのではないでしょうか。技術教育として国語を行うのは大学からでも遅すぎないというのが私の意見です。
Commented by M at 2006-08-02 14:06 x
私には国語の時間を増やせば解決、とは思えません。優秀な教師は多くないので、やはり授業プログラム例を文科省が教師に提供し、そこに各教師が味付けする方がいいと思います。「国語力」に関しては、週に1時間作文とディベートの時間を入れると良いでしょう。
Commented by stochinai at 2006-08-02 23:15
 大隅さんのおっしゃるように統計をふやすことにも一理あり、Mさんのおっしゃるように文科省がかっちりとした授業プログラムを作り、作文とディベートの時間を設けるべきだということにも一理あると思います。同じように、たくさんの人が一理ある教育論を持っているので、それをすべて満足させようとして時間が足りなくなってしまったというのが今の教育現場ではないでしょうか。これ以上、教えることを増やすともっと悪くなるだけだと思います。

 私は、小学校のうちは細かくカリキュラムを作るよりは、子供達が学校であるいは友達と過ごす時間をできるだけ長くとるということだけで良いのではないかと思っています。そして快適な労働環境を作っておけば、優秀な人材が先生になりたがると思います。優秀な先生が集まれば、あれこれ細かく決めておかなくても教育に打ち込んでくれる人が多くなるはずです。一部の不良教員を排斥するシステムは必要だと思いますが、すべてを管理してしまうことで優秀な人材が敬遠しているのが今の現場なのではないでしょうか。
Commented by M at 2006-08-03 11:45 x
私には小学校低学年の子供がいます。公立では良いと言われる学校ですが、授業参観の日ですら、授業中立ち歩いたり私語をする子が多く居ます。他家の子でも摑まえて「座って先生の話を聞け!」と言いたくなるのですが、嫁には恨まれるからやめろ、と言われてます。皆さんならどうされますか?
Commented by stochinai at 2006-08-03 12:46
 私ならこっそり「座りなさい」って言うと思いますが、問題はそういう行動をする子が存在するということだと思います。幼稚園や小学校ではそういうしつけをしなくなったのでしょうか、それともやっているのだけれども子供が受け付けなくなっているということなのでしょうか。幼稚園や学校だけではなく、家庭の問題も大きいのだと思います。学校で子供を叱ると、親が学校に苦情を言うことが多く、学校側が萎縮していると聞いたこともあります。我々が子供の頃は先生の叱られたというと、家でも叱られたものです。今は逆で、先生が叱ることを家庭が拒否しているケースもあるといいます。
 文科省は学校の方だけをいじってなんとかしようとして数十年、失敗を続けています。そろそろ、やり方そのものを考え直す時期ではないでしょうか。
Commented by M at 2006-08-03 13:58 x
stochinai先生、ご返事ありがとうございます。最近は低学年でも塾や通信教育で先取り学習し、成績が良くても私語や立ち歩きをする子がいます。学校教育そのものをないがしろにしている親も多いのです。そういう子供が所謂私立名門中高一貫校に進み、早くから受験勉強に励んで大学入試までやり過ごす、という傾向が都会ではあります。数学まで多問経験方式で暗記することを推奨する、有名受験評論家もいます。伸びきったゴムと評される学生が、旧帝大クラスでも増えてるのではないでしょうか。
Commented by stochinai at 2006-08-03 15:00
 私の少ない経験でしかありませんが、講義時間に私語や立ち歩きをする学生にはほとんど出会ったことがありません。もちろん、居眠りをする学生はいますが、自分もそうでしたし、話がおもしろくなければ眠くなるのは良くわかりますので、責められるべきはこちらでしょう。
 10年ほど前から異様に講義の出席率が良くなっています。おとなしく真面目に「勉強」して、それほど深く考えずに大学院へと進学していく学生が大多数だというところに、逆に問題があるのかもしれません。
 大学院を出てから、生まれて初めて勉強以外で評価をされるという就職試験に出会い、かなり動揺する学生が多いように見えますが、気付かないよりはましとしてもちょっと遅すぎます。小学生の頃から受験以外の社会性を身につける教育をしておく必要があると、強く思います。
by stochinai | 2006-07-29 23:58 | 教育 | Comments(16)

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