2006年 08月 15日
オカルトと議論することの不毛
靖国神社には戦争犯罪人が合祀されているのが問題だという議論があります。
神社に祀られている人々は自動的に祀られるのではなく、当然のことながらそれなりの手続きを経て人為的に祀られます。東京裁判で有罪判決を受けたA級戦犯と呼ばれる人々も、死んだことで自動的に靖国神社に祀られたわけではなく、1978年になってからある種の手続きを経て合祀されたとのことです。
普通の論理で考えるならば、人為的に合祀されたものならば、人為的に分祠することが可能なはずだと思いますから、当然にも合祀をご破算にして分祠してはどうかという意見が出てくるわけです。
数日前に、その件に関する靖国神社側の見解というものが複数のテレビニュースやワイドショーで説明されていましたが、失笑を禁じ得ないものでした。説明では、合祀というものはそこに祀られているすべての人が一本のロウソクの火のように一つになっている状態なので、そこから特定の人の霊だけを抜き出すことは、もはや「不可能」だというのです。
宗教というものは人が作ったものです。その中にいろいろな宗教的決まりやしきたりがあることはわかりますが、それもすべて人が作ったものです。宗教を信じる人々が、そのしきたりや決まりを厳格に守って生活することがその宗教の外側にいる人々に迷惑をかけないのであるならば、その自由は最大限守らなければならないでしょう。
しかし、この合祀問題に関しては明らかに日本全体あるいは国際的に大変な迷惑を与えていると言わざるを得ません。
あるスポーツがあってルールに則って競技場の中だけでゲームをしている限り、どんなにバカげたルールであってもそのスポーツの中で完結している場合には問題にはなりませんが、スポーツしていない人の生活にまで影響を及ぼすとしたらどうでしょう。
実際にそんなスポーツはないと思いますが、たとえ間違いだとしてもいったんリングの中に入ったら試合が終わるまで出ることが許されないというルールがあったとします。何も知らないプレーヤーではない人が間違えてそのリングの中に入ってしまったのに、出ることが許されないなどという事態になったらどうするでしょう。ルールだから試合が終わるまでその人は外へ出さない、ということになるでしょうか。
日本という国の社会・政治体制の中で、靖国神社の合祀という宗教のルールを主張して分祠を拒否するということは、それと同じようなことだと思います。科学的に論じられるべき政治・社会のルールと、論理的根拠のないオカルト的な神社のルールが言い争いをするということは、滑稽さを越えて醜悪なものですらあります。
アメリカ合衆国には進化論を信じない人が40%もいるということがサイエンスの8月11日号に出ていましたが、靖国神社のオカルト的な分祠不可能論の説明に対抗できないようだとすると、日本人の科学リテラシーも負けず劣らずなものだと言わざるを得ません。(ちなみに、日本では80%以上の人が進化論を信じていることになっています。)
1978年に国民的議論もほとんどないうちに合祀されたということならば、いったん白紙に戻して議論をしてから、改めて合祀するのか分祠するのかを決めても良いのではないでしょうか。原状復帰ということが、できないはずはないでしょう。
【追記】
MANTAさんから、コメントを頂きました。関連エントリーも書かれていらっしゃいますので、こちらからトラックバックを送ります。
【追記2】
BigBangさんが、「靖国神社はどうなのというかどうなんだ---常勤霊と非常勤霊とか」を読むと、なんと靖国には非常勤の霊までいらっしゃるそうで、神社側の都合で霊にいらしていただいたり、お帰りいただいたりできるのだそうです。それなら、合祀も分祠も自由自在だと思うのですが、靖国さんがやりたくないことは「不可能」なんでしょうね。
神社に祀られている人々は自動的に祀られるのではなく、当然のことながらそれなりの手続きを経て人為的に祀られます。東京裁判で有罪判決を受けたA級戦犯と呼ばれる人々も、死んだことで自動的に靖国神社に祀られたわけではなく、1978年になってからある種の手続きを経て合祀されたとのことです。
普通の論理で考えるならば、人為的に合祀されたものならば、人為的に分祠することが可能なはずだと思いますから、当然にも合祀をご破算にして分祠してはどうかという意見が出てくるわけです。
数日前に、その件に関する靖国神社側の見解というものが複数のテレビニュースやワイドショーで説明されていましたが、失笑を禁じ得ないものでした。説明では、合祀というものはそこに祀られているすべての人が一本のロウソクの火のように一つになっている状態なので、そこから特定の人の霊だけを抜き出すことは、もはや「不可能」だというのです。
宗教というものは人が作ったものです。その中にいろいろな宗教的決まりやしきたりがあることはわかりますが、それもすべて人が作ったものです。宗教を信じる人々が、そのしきたりや決まりを厳格に守って生活することがその宗教の外側にいる人々に迷惑をかけないのであるならば、その自由は最大限守らなければならないでしょう。
しかし、この合祀問題に関しては明らかに日本全体あるいは国際的に大変な迷惑を与えていると言わざるを得ません。
あるスポーツがあってルールに則って競技場の中だけでゲームをしている限り、どんなにバカげたルールであってもそのスポーツの中で完結している場合には問題にはなりませんが、スポーツしていない人の生活にまで影響を及ぼすとしたらどうでしょう。
実際にそんなスポーツはないと思いますが、たとえ間違いだとしてもいったんリングの中に入ったら試合が終わるまで出ることが許されないというルールがあったとします。何も知らないプレーヤーではない人が間違えてそのリングの中に入ってしまったのに、出ることが許されないなどという事態になったらどうするでしょう。ルールだから試合が終わるまでその人は外へ出さない、ということになるでしょうか。
日本という国の社会・政治体制の中で、靖国神社の合祀という宗教のルールを主張して分祠を拒否するということは、それと同じようなことだと思います。科学的に論じられるべき政治・社会のルールと、論理的根拠のないオカルト的な神社のルールが言い争いをするということは、滑稽さを越えて醜悪なものですらあります。
アメリカ合衆国には進化論を信じない人が40%もいるということがサイエンスの8月11日号に出ていましたが、靖国神社のオカルト的な分祠不可能論の説明に対抗できないようだとすると、日本人の科学リテラシーも負けず劣らずなものだと言わざるを得ません。(ちなみに、日本では80%以上の人が進化論を信じていることになっています。)
1978年に国民的議論もほとんどないうちに合祀されたということならば、いったん白紙に戻して議論をしてから、改めて合祀するのか分祠するのかを決めても良いのではないでしょうか。原状復帰ということが、できないはずはないでしょう。
【追記】
MANTAさんから、コメントを頂きました。関連エントリーも書かれていらっしゃいますので、こちらからトラックバックを送ります。
【追記2】
BigBangさんが、「靖国神社はどうなのというかどうなんだ---常勤霊と非常勤霊とか」を読むと、なんと靖国には非常勤の霊までいらっしゃるそうで、神社側の都合で霊にいらしていただいたり、お帰りいただいたりできるのだそうです。それなら、合祀も分祠も自由自在だと思うのですが、靖国さんがやりたくないことは「不可能」なんでしょうね。
TB&引用させていただきました m(_ _)m
「論理」を超越したような(というか、神道には成文化された教義がないので、議論さえ難しいですが)宗教では、さまざまな宗教が入り乱れる現在の国際社会で、他宗教の理解を得ることは不可能に近いかもしれませんね。
「論理」を超越したような(というか、神道には成文化された教義がないので、議論さえ難しいですが)宗教では、さまざまな宗教が入り乱れる現在の国際社会で、他宗教の理解を得ることは不可能に近いかもしれませんね。
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stochinaiさま、こんにちは!
>しかし、この合祀問題に関しては明らかに日本全体あるいは国際的に大変な迷惑を与えていると言わざるを得ません。
とはいえ、一宗教法人?である「靖国神社」がなにをしようと自由なのではないでしょうか?むしろ国としては宗教の自由に対して手を出せないと思います(仮に国が合同慰霊塔を建てても靖国が分祀に応じるかどうかも別の話)。
私自身は、政府見解のとおり、首相が私人として一宗教法人を訪れた、ただそれだけのことと受け止めています。いやいろいろいいたいことはあるのです。ただ「言葉」の定義が定まらないため議論したってしかたないと思うのです。
・A級戦犯については、東京裁判そのものを無効とする考え方があり定義がはっきりしない=「戦犯」の定義とは?
・小泉首相は私人としての参拝を主張しているが、私人たりえないのではないかとの反論あり=「公私」の定義とは?
靖国に関する報道は、むしろ他のいろんな意図(対アジア外交、戦後補償、政権、自衛隊、改憲)を主張しようとする輩のかっこう宣伝の場になっている気がします。そこには靖国神社そのものの宣伝活動も含まれていると思います。
>しかし、この合祀問題に関しては明らかに日本全体あるいは国際的に大変な迷惑を与えていると言わざるを得ません。
とはいえ、一宗教法人?である「靖国神社」がなにをしようと自由なのではないでしょうか?むしろ国としては宗教の自由に対して手を出せないと思います(仮に国が合同慰霊塔を建てても靖国が分祀に応じるかどうかも別の話)。
私自身は、政府見解のとおり、首相が私人として一宗教法人を訪れた、ただそれだけのことと受け止めています。いやいろいろいいたいことはあるのです。ただ「言葉」の定義が定まらないため議論したってしかたないと思うのです。
・A級戦犯については、東京裁判そのものを無効とする考え方があり定義がはっきりしない=「戦犯」の定義とは?
・小泉首相は私人としての参拝を主張しているが、私人たりえないのではないかとの反論あり=「公私」の定義とは?
靖国に関する報道は、むしろ他のいろんな意図(対アジア外交、戦後補償、政権、自衛隊、改憲)を主張しようとする輩のかっこう宣伝の場になっている気がします。そこには靖国神社そのものの宣伝活動も含まれていると思います。
同記事へTBさせていただきました。
トラックバックうまくいっていないみたいですね。こちらからTBしました。
失礼いたしました。うちのブログからのTB、失敗することが多いようです。
いえいえ違うと思いますよ。エキサイトは、あちこちからのトラックバックをはねてしまう癖があるようで、こちらこそ失礼をしております。
こんにちは。はじめまして。日記でリンクおよび引用させていただきました。ブログではないためトラックバックができず、コメント欄でのご報告になりご迷惑をおかけします。
個人的には、靖国の中の人が何を言おうが勝手ということにしてしまって、こちらからも放置したいというのが正直なところです。公人が半ば公式参拝したり、「日本人なら当然…すべき」とかいう人間がいなければそれで済んじゃうはずではないか、戦没者追悼の方法は別に何かやろうよと。しかしそうもいかないんですかね。やはり。
個人的には、靖国の中の人が何を言おうが勝手ということにしてしまって、こちらからも放置したいというのが正直なところです。公人が半ば公式参拝したり、「日本人なら当然…すべき」とかいう人間がいなければそれで済んじゃうはずではないか、戦没者追悼の方法は別に何かやろうよと。しかしそうもいかないんですかね。やはり。
ボクシングファンさん、記事を読ませていただきました。同感です。戦前と戦後が切れていないこの国では、あの戦争の責任がどこの誰にあるのかということすら整理されずに、今日に至っています。そしていつの間にか、戦争で亡くなった人達が今日の日本を作った功労者ということになってしまっているようです。ホントでしょうか??
stochinaiさん、拙ブログへのコメントありがとうございます。
トラックバックを送りながらエントリの内容に言及しないのもやはりバランスが悪いので、簡単に私見を述べておきます。
戦前・戦中の靖国神社は、国家神道という「宗教ではない」存在としてで国家システムの中に組み込まれていました。
それが戦後一転して「一宗教法人」に鞍替えしてしまったのは、「政教分離」の原則を盾にして戦争責任の追及をかわし、「生き延びる」ためです。
生き延びるために「政教分離」の原則を盾にした以上、後になってその原則を踏みにじるのは、どう見てもアンフェアと言わざるを得ません。
靖国神社がオカルトを語るのは勝手ですが、あくまで宗教の枠内に留まるべきです。
「政」と「教」の間を架橋することによって政治・社会のルールにオカルトを持ち込もうとする人々は、当然批判されなければならないと考えます。
「政教分離」を自明として語る方々が、この「政」と「教」の架橋に対して鈍感なことが多いのはどうしてなのでしょう?
トラックバックを送りながらエントリの内容に言及しないのもやはりバランスが悪いので、簡単に私見を述べておきます。
戦前・戦中の靖国神社は、国家神道という「宗教ではない」存在としてで国家システムの中に組み込まれていました。
それが戦後一転して「一宗教法人」に鞍替えしてしまったのは、「政教分離」の原則を盾にして戦争責任の追及をかわし、「生き延びる」ためです。
生き延びるために「政教分離」の原則を盾にした以上、後になってその原則を踏みにじるのは、どう見てもアンフェアと言わざるを得ません。
靖国神社がオカルトを語るのは勝手ですが、あくまで宗教の枠内に留まるべきです。
「政」と「教」の間を架橋することによって政治・社会のルールにオカルトを持ち込もうとする人々は、当然批判されなければならないと考えます。
「政教分離」を自明として語る方々が、この「政」と「教」の架橋に対して鈍感なことが多いのはどうしてなのでしょう?
この点で、昨今の靖国問題を巡る「公」と「私」の使い分けられ方には強い違和感を感じます。
ご指摘の通り、「私的参拝」なる便法が持ち出されたのは三木首相の時からです。
従って、それ以前はそもそも一国の首相による「私的参拝」などという珍妙な概念はなかったということになります。
コメント欄ですので詳細は控えますが、この論理的にねじれている「私的参拝」の概念がどのようにひねりだされ、現在のようなポジションを占めるに至る過程を追うことは、靖国問題の変遷を理解する上で有用と考えます。
ただし、靖国問題全体から見れば、この「公」「私」問題はほんの一部に過ぎない、しかも比較的容易に判断できる問題だとも思っています(だから今回扱ったわけですが)。
靖国問題全体は極めて複雑で、解決困難な論点をいくつも含む大問題であり、外交問題はその氷山の一角に過ぎないでしょう。
それだけに、stochinaiさんやMANTAさんのような、厳密な論理的思考に親しんでおられる理系研究者がこの問題をどう解きほぐしてゆかれるのか、大いに期待しているわけです。
ご指摘の通り、「私的参拝」なる便法が持ち出されたのは三木首相の時からです。
従って、それ以前はそもそも一国の首相による「私的参拝」などという珍妙な概念はなかったということになります。
コメント欄ですので詳細は控えますが、この論理的にねじれている「私的参拝」の概念がどのようにひねりだされ、現在のようなポジションを占めるに至る過程を追うことは、靖国問題の変遷を理解する上で有用と考えます。
ただし、靖国問題全体から見れば、この「公」「私」問題はほんの一部に過ぎない、しかも比較的容易に判断できる問題だとも思っています(だから今回扱ったわけですが)。
靖国問題全体は極めて複雑で、解決困難な論点をいくつも含む大問題であり、外交問題はその氷山の一角に過ぎないでしょう。
それだけに、stochinaiさんやMANTAさんのような、厳密な論理的思考に親しんでおられる理系研究者がこの問題をどう解きほぐしてゆかれるのか、大いに期待しているわけです。
hirokira1さん、丁寧なコメントと解説をありがとうございました。私たち「理系」の人間とて、系に分けることなど絶対にできない総体としての社会の中で生きているわけで、その社会を理系の論理で一刀両断にすることで解決するとは露ほども思っておりません。私のたわごとなど、「こういう見方もできる」という一例にすぎないわけですので、ご期待にそうようなものが出てくることは絶対にありません(汗)が、我々理系の人間もこの社会を構成する一員であるということの主張は続けていきたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。
今後ともよろしくお願いします。
by stochinai
| 2006-08-15 21:42
| 科学一般
|
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