5号館を出て

shinka3.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

凍結精子と親子関係

 有性生殖では、卵が精子によって受精することで新しい個体が発生を開始しますが、ヒトの場合もあらゆる動物と同様に、卵に入った精子を提供した個体が父親で卵の提供者が母親であるというのが生物学的定義です。これには一点の曇りもありませんから、生物学的親子判定には裁判を起こす必要はありません。

 しかも普通、女性の場合は卵巣から排卵された卵が輸卵管で受精して、そのまま体外に出ることなく子宮に着床して育ちますので、生みの親は生物学的にもその子の母親であることは間違いありません。ただし、男性の場合には母親の夫が生物学的にも父親であるということは必ずしも明らかではありませんので、昔から父親と子供の親子関係に関してはいろいろともめ事の種になってきているようです。

 それでも今は、遺伝子などを調べることで、父親と子供の生物学的親子判定は極めて正確に行えるようになってきており、不義密通などという言葉自体も死語になってきているのが現状です。

 精子を人為的に子宮内さらには輸卵管内に入れて、母親の卵と受精させる人工授精の場合には、人工授精をした医師は誰が子供の生物学的父親であるかを知っているわけですし、母親の夫が自分の精子によって受精したのではない「生物学的他人」を自分の子供であると法律的に「認知」することで話は丸く収まってきました。

 しかし、生殖医療が発展し、卵も精子も身体の外においた状態で受精する「体外受精技術」が確立されると、話はいきなりややこしくなってきました。この場合は、誰の精子と誰の卵でも受精が可能です。さらには、受精した卵は誰の子宮の中ででも育てることが可能になっています。

 日本の法律では、子供を産んだ人がその子の母親であるということになっているので、他人の卵と精子で受精した子供でも、産んだ人が母親になります。この場合は、生物学的母子関係は法律で否定されるということです。では、父親の場合はどうなるのでしょう。父親に関しても生物学的父子関係によらず、父親がこの子は私の子ですと「認知」すれば、父子関係が成立することになっているのではないでしょうか。つまり、生物学ではなく法的に決まるのです。

 さて、今回のケースです。生殖医療の発達により、精子も卵も受精可能な状態で凍結保存できるようになっています。液体窒素の中にいれておいたら、理論上は何十年でも何百年でも保存した後に解凍して受精させることができます。今回は、すでに死亡した父親から白血病治療の前に取り出してあった凍結保存精子で人工授精してできた子供が、父親の子供で父親の遺産などを相続する権利があるかどうかということを争う裁判でした。

 生物学的には、疑う余地もなくこの子は亡くなったお父さんと生んだ母親の間にできた子です。しかし最高裁は「民法は父親の死後の妊娠・出産を想定していないことは明らかで、死亡した父との法律上の親子関係は認められない」という判決を下し、原告の敗訴が確定しました。

 不思議ですね。生物学的にはまったく疑う余地なく親子なのに「法律的には」親子関係は認められないというのです。逆に、この子が生まれる時に奥さんが再婚していて、その奥さんが亡くなった前のご主人の精子で子供を産んだ場合でも、新しい夫がこの子は自分の子であると認知すると、その夫は遺伝子のつながりがなくても「法律的に」正当な親子関係があると認められるのです。

 いるいろ考えると、私は今回の最高裁の判決は悪くないと思っています。生殖医療が発達し、どんなことでもできるようになっている現在、生物学的親子関係ばかりを強調すると、必要になったら必要な血縁関係を持った子供を「作る」などということがどんどん行われるような気がしてならないからです。理論上は、祖父母がいないのに自分のおじさんやおばさんをつくったり、親がいないのに兄弟を作ったりできますので、財産相続関係の法律はめちゃくちゃになってしまいまうでしょう。さらには、クローンを作ったりもできるようになると、それはいったい血縁的にはどこに置けば良いのでしょう。

 生物学的血縁関係をあまりにも重要視すると、どこかの国のお世継ぎ騒動のような悲喜劇が今後も続いてしまうことになるでしょう。

 ヒトの子は、人類全体の子であるという立場に立つならば、誰の子がどうだとか、相続がどうしたとかいうエゴイズムもはびこらないで済むと思うのですが、なかなかできないのがヒトならぬ人間という存在なのでしょうね。
 
 また、暗い結論になってしまいました。
Commented by 花見月 at 2006-09-04 22:33 x
エントリーと関係ないんですが、トップの写真、最近、気になっています。どういうからくりなんでしょうか。
Commented by stochinai at 2006-09-04 23:57
 ImageChef(http://www.imagechef.com/index.htm)というもので遊んでいます。無料です。
Commented by カタギ at 2006-09-05 13:25 x
私は今回の件は、不思議とは思いませんでした。法的には、親子の遺伝的背景はどうでもよく、親子鑑定などに使われるものに過ぎないからです。養子についても、親が財産を誰にあげたいかが重要なんじゃないでしょうか。今回、死んだ人の精子ですから、死んだ人と生まれた子供が本当に親子かどうか証拠がありません。医者の証言だけです。もし莫大な遺産があった場合、医者と未亡人が組んだ犯罪なども起きるかもしれませんよ。
Commented by stochinai at 2006-09-05 14:29
 カタギさん、コメントありがとうございました。遺産相続にからむ問題が起こる危惧などに関しては、私もだいたい同じ意見です。
 ただし、「死んだ人の精子ですから、死んだ人と生まれた子供が本当に親子かどうか証拠がありません」は誤解です。最新のDNA鑑定を正しく使うと、ほぼ間違いなく(生物学的)親子かどうかは判定できます。
 金持ちを誘惑してその子供を産んで、遺産を取るなどというのはもっとも古典的な犯罪のひとつですから、生物学的親子であるという理由だけで相続権が発生するというルールは危険すぎるというのが人間の世界だと思います。遺伝子を相続するだけで満足してくれると良いのですが、、、、。
Commented by カタギ at 2006-09-05 16:42 x
> 最新のDNA鑑定を正しく使うと、ほぼ間違いなく(生物学的)親子かどうかは判定できます。

そうでしょうか?犯人と死んだ父親が兄弟でもそうなのでしょうか?
父親と偽って精子を凍結するのも簡単でしょうし。
まぁDNA鑑定についての議論は本筋ではないので。
Commented by stochinai at 2006-09-05 18:32
 死んだ人間あるいはその親族のDNA試料がどのくらい手にはいるかにもよるとは思いますが、たくさんあれば多分大丈夫だと思います。
 それとは別に、私はたとえ遺伝的(生物学的)に親子であっても、死後に出産された子供を嫡子と認定することには慎重であるべきだという立場です。カタギさんは、間違いなく親子であると認定できれば、たとえば夫の死後10年経ってから人工授精で「作られた」子供を死んだ夫の実の子として社会的に認知しても良いと思われますか。私はそれはやはりまずいと思います。
Commented by カタギ at 2006-09-05 19:13 x
あれ?すいません、私の書き損じでしょうか。
今回の判決、不思議でもなんでもなく、妥当なものだと解釈しています。
判決についてはstochinaiさんと同じ意見だと思います。
Commented by stochinai at 2006-09-05 19:16
 いえいえ、書き損じてはおられないと思います。それはわかっております。本論外のささいなところににこだわってました。すみません。
Commented by カタギ at 2006-09-05 19:19 x
「間違いなく親子であると認定できれば」に一応お答えしますが、
生殖医療が進むことを考えると、父の死亡と試験管受精のタイミングが
微妙なので、死後24時間以内などの限定つきなら可能かもしれません。
何か、具体的なリミットを明記してる方が混乱は少なくなるでしょう。
by stochinai | 2006-09-04 22:14 | 生物学 | Comments(9)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


by stochinai