2004年 12月 02日
大学院進学はまちがいなく自殺行為である
大学院進学はまちがいなく自殺行為であるというかなり扇情的なタイトルの記事が出ています。
当然、いろいろな条件がついての話です。オリジナルのブログでは、「『研究者になるつもりの』大学院進学は、という限定付きであるが。(修士課程を出て他の職に就くつもりなら、かまいません、止めはしません)」ということです。
大学院生をお預かりしている身としては、穏やかならぬ気持ちで読まされます。
飯田泰之という先生(どちらの先生なのでしょう)の発言との断り書きがついて「東大で大学院に入るのは自殺行為、それ以外の大学で大学院に入れるのは殺人」というものまであります。「特に地方旧帝大の君、要注意。先生は責任とってくれへん」と、うちの大学のことまで書いてくれています。まあ、大学院に入って先生に責任取ってくれ、というのも甘えた話ですが、そういうふうに思っている学生がいても不思議はないとは思います。
これらを引用しながらコメントしている記事を書いている人は、どうもこうした話に納得がいかないといろいろと解説してくれています。
その中には、「日本では東大以外に文系の博士課程はいらない」と書いてあるので、ちょっとわかりました。文系のことなのですね。我々の理系では、そこまでひどくないかもしれないと思っていたからです。でもまあ、50歩100歩と言われれば、それはそうです。
まったく何も考えずに大学院へ進学するのは、まったく何も考えずに就職するのと同様な「自殺行為」だと私も思います。
文系のことは良くわかりませんが、時代が変化しているスピードと、人々の考えていることあるいは信じていることの変化するスピードが違うことが、こういった過激な発言の根にあるのかも、とも思います。
ここでも、すでに何回か書いていますが、政府の大学院重点化政策によって大学院生は急増している一方、少子化により大学は減る傾向があり、不景気によって企業の研究所も縮小の一途をたどっています。つまり、二昔くらい前に私たちが大学院に進学した時代なら、誰でも大学院に入りさえすれば運が良ければ大学の先生、悪くても国研か企業の研究者になれました。私がその見本みたいなものです。ある日、気が付いたら「助手やるか」と言われて採用になりました。しかし、今は大学院を出ても、博士号を取ってもその多くの人は先生にも研究者にもなれません。それは数学的な事実です。
にもかかわらず、世の中(つまり大学院生予備軍、およびその親とか親戚)では、大学院を出さえすれば、まさか食えないってことはないだろう、と思っている人が多いようです。しかし、そのまさかがかなりの確率で本当のことになっているという現実があります。にもかかわらず、世の中の多くの人は、まだ「まさか」と思い続けているようです。それが「常識」のようなのです。
そんなことを知っているなら、きちんと学生に話せよと言われると思いますが、私個人はそれなりに話しているつもりです。しかし、大学の先生の中にもこの「常識」に毒されている人がかなりいるという現実があります。「しっかりやりさえすれば、今でも大学の先生や研究者になることは不可能ではない。もしなれかったとすれば、それは君の努力がたりないからだ」とおっしゃる先生がいることは認めます。このようにおっしゃる先生の多くに悪意はなく、単に現実を知らないだけです。現実を知っているかどうかは、大学に居続けることができるかどうかの基準にはなりません。
ですから、 [edu] 大学院進学するな、させるな問題[承前]書いてあるように、「むしろ(これが言いたいことのもう一つ)大学院担当教員に向けて、おまえら、安直に大学院進学考えてるやつらを安直に入れてどーすんだ、というのが強調したい点で。それは自殺行為だぞ、と諭す(そして自分たち=大学業界にとっても自殺行為であることを自覚する)のがおまえらの役目だろう」と書いてあります。はい、その通りだと思います。私も連帯責任を持つ人間であることを認めます。
でもやっぱり、次のような人には大学院にはいってもらいたいと思います。「大学院へ入ることは、経済的安定を目指す人には自殺行為かもしれないけれども、それを知りつつ自分は生物学の研究をしてみたいから大学院へいきます。もちろん、先生には何の力もないことは知っていますので、責任を取れなどというマヌケなことは言いません。最後は自分でなんとかします」という冷静な判断と覚悟があるのなら、大学院というところは今でもそれなりに自分を磨き、成長し、楽しめる場所であると思うのです。
最後に、老婆心ながら一言だけ。理系では東大の大学院へはいったからといって、事情はほとんど変わりません。東大の大学院生だけで、すでに多すぎなのです。
当然、いろいろな条件がついての話です。オリジナルのブログでは、「『研究者になるつもりの』大学院進学は、という限定付きであるが。(修士課程を出て他の職に就くつもりなら、かまいません、止めはしません)」ということです。
大学院生をお預かりしている身としては、穏やかならぬ気持ちで読まされます。
飯田泰之という先生(どちらの先生なのでしょう)の発言との断り書きがついて「東大で大学院に入るのは自殺行為、それ以外の大学で大学院に入れるのは殺人」というものまであります。「特に地方旧帝大の君、要注意。先生は責任とってくれへん」と、うちの大学のことまで書いてくれています。まあ、大学院に入って先生に責任取ってくれ、というのも甘えた話ですが、そういうふうに思っている学生がいても不思議はないとは思います。
これらを引用しながらコメントしている記事を書いている人は、どうもこうした話に納得がいかないといろいろと解説してくれています。
その中には、「日本では東大以外に文系の博士課程はいらない」と書いてあるので、ちょっとわかりました。文系のことなのですね。我々の理系では、そこまでひどくないかもしれないと思っていたからです。でもまあ、50歩100歩と言われれば、それはそうです。
まったく何も考えずに大学院へ進学するのは、まったく何も考えずに就職するのと同様な「自殺行為」だと私も思います。
文系のことは良くわかりませんが、時代が変化しているスピードと、人々の考えていることあるいは信じていることの変化するスピードが違うことが、こういった過激な発言の根にあるのかも、とも思います。
ここでも、すでに何回か書いていますが、政府の大学院重点化政策によって大学院生は急増している一方、少子化により大学は減る傾向があり、不景気によって企業の研究所も縮小の一途をたどっています。つまり、二昔くらい前に私たちが大学院に進学した時代なら、誰でも大学院に入りさえすれば運が良ければ大学の先生、悪くても国研か企業の研究者になれました。私がその見本みたいなものです。ある日、気が付いたら「助手やるか」と言われて採用になりました。しかし、今は大学院を出ても、博士号を取ってもその多くの人は先生にも研究者にもなれません。それは数学的な事実です。
にもかかわらず、世の中(つまり大学院生予備軍、およびその親とか親戚)では、大学院を出さえすれば、まさか食えないってことはないだろう、と思っている人が多いようです。しかし、そのまさかがかなりの確率で本当のことになっているという現実があります。にもかかわらず、世の中の多くの人は、まだ「まさか」と思い続けているようです。それが「常識」のようなのです。
そんなことを知っているなら、きちんと学生に話せよと言われると思いますが、私個人はそれなりに話しているつもりです。しかし、大学の先生の中にもこの「常識」に毒されている人がかなりいるという現実があります。「しっかりやりさえすれば、今でも大学の先生や研究者になることは不可能ではない。もしなれかったとすれば、それは君の努力がたりないからだ」とおっしゃる先生がいることは認めます。このようにおっしゃる先生の多くに悪意はなく、単に現実を知らないだけです。現実を知っているかどうかは、大学に居続けることができるかどうかの基準にはなりません。
ですから、 [edu] 大学院進学するな、させるな問題[承前]書いてあるように、「むしろ(これが言いたいことのもう一つ)大学院担当教員に向けて、おまえら、安直に大学院進学考えてるやつらを安直に入れてどーすんだ、というのが強調したい点で。それは自殺行為だぞ、と諭す(そして自分たち=大学業界にとっても自殺行為であることを自覚する)のがおまえらの役目だろう」と書いてあります。はい、その通りだと思います。私も連帯責任を持つ人間であることを認めます。
でもやっぱり、次のような人には大学院にはいってもらいたいと思います。「大学院へ入ることは、経済的安定を目指す人には自殺行為かもしれないけれども、それを知りつつ自分は生物学の研究をしてみたいから大学院へいきます。もちろん、先生には何の力もないことは知っていますので、責任を取れなどというマヌケなことは言いません。最後は自分でなんとかします」という冷静な判断と覚悟があるのなら、大学院というところは今でもそれなりに自分を磨き、成長し、楽しめる場所であると思うのです。
最後に、老婆心ながら一言だけ。理系では東大の大学院へはいったからといって、事情はほとんど変わりません。東大の大学院生だけで、すでに多すぎなのです。
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by
SF
at 2006-02-24 00:16
x
>最後は自分でなんとかします」という
>冷静な判断と覚悟があるのなら、
それは冷静なんでしょうか?
たとえば東大理系修士なら普通に専門職に就けて、
東大博士だと大半が無職・任期付きという現状では、
単なる無謀に見えます。
無謀なことを若い者に期待することでしか成立しない
コミュニティーは、変ですね。
>冷静な判断と覚悟があるのなら、
それは冷静なんでしょうか?
たとえば東大理系修士なら普通に専門職に就けて、
東大博士だと大半が無職・任期付きという現状では、
単なる無謀に見えます。
無謀なことを若い者に期待することでしか成立しない
コミュニティーは、変ですね。
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stochinai at 2006-02-25 10:08
確かに自虐的ではありますが、客観的に(それが冷静にという言葉の真意でした)状況を判断していると言えるのではないかと思います。自分は研究者として生き残るのだという自信と強い意志がある人の行動までもが無謀に見えるとしたら、それはやはり状況が異常なのだと思います。
そういう意味では今の日本の高等教育から研究者養成を担っているコミュニティは変です。はっきり言うと、日本の科学政策の過ちだと思います。日本に科学者養成のシステムはないと言われても反論できないのが実態でしょう。
とは言え、その中に置かれた人間にとっては深刻な問題ですので、この状況に対処するためにはなんらかのアクションが必要なのではないでしょうか。我々にも責任がありますので、一緒になんとかしたいとは思うのですが、、、、。
そういう意味では今の日本の高等教育から研究者養成を担っているコミュニティは変です。はっきり言うと、日本の科学政策の過ちだと思います。日本に科学者養成のシステムはないと言われても反論できないのが実態でしょう。
とは言え、その中に置かれた人間にとっては深刻な問題ですので、この状況に対処するためにはなんらかのアクションが必要なのではないでしょうか。我々にも責任がありますので、一緒になんとかしたいとは思うのですが、、、、。
by stochinai
| 2004-12-02 00:00
| 大学・高等教育
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Comments(2)