2007年 02月 01日
相撲は八百長やってもいいのでは?
週刊現代がすっぱ抜いたという、横綱朝青龍が「1場所15番中、真剣勝負は4番」、「1番の相場は80万円で、50~100万円で星を買」っているという情報は、おそらく本当のことではないかと私には感じられます。
相撲の世界の八百長に関しては、引退した力士の証言なども数限りなくあり、問題が起こるたびにいつの間にかうやむやに消えてしまうことを繰り返してきていると思います。いわば、角界の伝統文化のひとつではないのでしょうか。
Wikipediaの八百長の項目はまだ確定してはいませんが、そのほとんどの記述が相撲関連に割かれています。そもそも、八百長という言葉自体が相撲と関係しているという話は有名です。
さすがにプロレスがスポーツニュースで取り上げられることはないようですが、相撲は割と普通にスポーツニュースで扱われることもあるので、スポーツの一種として分類されているのかもしれませんが、いわゆるフェアプレーを身上とする西欧のスポーツと違って、神様に捧げる芸能としての歴史を強くひきずっているものだと思います。
今でも、あちこちの神社に土俵があったり、女性が土俵に上がるのを忌み嫌ったりということがあるのは、そうしたことの名残でしょう。誰が勝つのかが占いの判断根拠とされることもあるため、結果が凶にならないように勝敗を操作することはむしろ奨励されていたはずです。Wikipedia相撲の項もおもしろいです。
できれば、清く正しく美しく、そして強い横綱が勝つことは、横綱個人の願望というよりも、相撲の世界全体の願いなのだと思います。横綱に品格を求めることも、そうした流れの中なのでしょうし、なんとなく横綱らしい相撲をとり続けることができる限り、横綱は負けないで欲しいというのは角界全体の願いに違いありません。
だから、たとえ横綱がお金を支払ったとしても、それは大量の懸賞金が彼に渡っていたものを還元してもらうということ以外のなにものでもないのではないでしょうか。そんな世界で、「それは八百長なのではないですか」というような現代の価値観で批判されても、相撲の世界の人々は困り果てているに違いありません。
相撲の世界に、構造改革・新自由主義で強いものだけが勝ち残るのだというルールを持ち込んでも、それは相撲が滅びてしまうだけのことのような気がします。
私は、個人的には相撲がなくなってもかまわないのですが、たとえ外国人の力士ばかりになってしまったとしても、日本の伝統神事としての相撲が残って欲しいと思うなら、「八百長」も彼らのやり方のひとつとして認めることが必要なのかもしれません。
相撲の世界の八百長に関しては、引退した力士の証言なども数限りなくあり、問題が起こるたびにいつの間にかうやむやに消えてしまうことを繰り返してきていると思います。いわば、角界の伝統文化のひとつではないのでしょうか。
Wikipediaの八百長の項目はまだ確定してはいませんが、そのほとんどの記述が相撲関連に割かれています。そもそも、八百長という言葉自体が相撲と関係しているという話は有名です。
八百長は、明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべい)」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が勝っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫のご機嫌をとっていた。格闘技が好きではない私の偏見なのかもしれませんが、プロレス・相撲に関しては芸能の一種だと思っておりますので、その中で金銭による勝敗の取り引きがあったとしても、お客さんを楽しませ、興行収入が上がるのであれば何も問題はないと思います。
その後、周囲のことことが知れわたり、真剣に争っているように見せながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ばれるようになった。
さすがにプロレスがスポーツニュースで取り上げられることはないようですが、相撲は割と普通にスポーツニュースで扱われることもあるので、スポーツの一種として分類されているのかもしれませんが、いわゆるフェアプレーを身上とする西欧のスポーツと違って、神様に捧げる芸能としての歴史を強くひきずっているものだと思います。
今でも、あちこちの神社に土俵があったり、女性が土俵に上がるのを忌み嫌ったりということがあるのは、そうしたことの名残でしょう。誰が勝つのかが占いの判断根拠とされることもあるため、結果が凶にならないように勝敗を操作することはむしろ奨励されていたはずです。Wikipedia相撲の項もおもしろいです。
相撲を行なう神社も多い。そこでは、占いとしての意味も持つ場合もあり、二者のどちらが勝つかにより、五穀豊穣や豊漁を占う。そのため、勝負の多くは1勝1敗で決着するようになっており、また、和歌山県、愛媛県大三島のひとりすもうの神事を行なっている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。場合によっては、不作、不漁のおそれがある土地の力士に対しては、あえて勝ちを譲ることもあった。また、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股は重視され、神事相撲の多くではこの所作が重要視されている。陰陽道や神道の影響も受けて、所作は様式化されていった。そいうした伝統を受けて、相撲の世界では神に愛されるような強い横綱を欲しているのではないでしょうか。
できれば、清く正しく美しく、そして強い横綱が勝つことは、横綱個人の願望というよりも、相撲の世界全体の願いなのだと思います。横綱に品格を求めることも、そうした流れの中なのでしょうし、なんとなく横綱らしい相撲をとり続けることができる限り、横綱は負けないで欲しいというのは角界全体の願いに違いありません。
だから、たとえ横綱がお金を支払ったとしても、それは大量の懸賞金が彼に渡っていたものを還元してもらうということ以外のなにものでもないのではないでしょうか。そんな世界で、「それは八百長なのではないですか」というような現代の価値観で批判されても、相撲の世界の人々は困り果てているに違いありません。
相撲の世界に、構造改革・新自由主義で強いものだけが勝ち残るのだというルールを持ち込んでも、それは相撲が滅びてしまうだけのことのような気がします。
私は、個人的には相撲がなくなってもかまわないのですが、たとえ外国人の力士ばかりになってしまったとしても、日本の伝統神事としての相撲が残って欲しいと思うなら、「八百長」も彼らのやり方のひとつとして認めることが必要なのかもしれません。
おもしろい論点ですね。
相撲の八百長より、
入札の八百長や科学番組の八百長の方をどうにしかしてほしいものです。
相撲の八百長より、
入札の八百長や科学番組の八百長の方をどうにしかしてほしいものです。
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ktatchy at 2007-02-02 21:54
今回の相撲界の反応が、「八百長はあるよ」って言っているようなものだという印象を与えている気がします。週刊誌の記事なんて「なに言ってんだ、バカ」と泰然自若としていればいいのに、過剰に反応しているわけですし。
相撲は元は神事だったわけで、それが現在エンターテイメントに変わりつつあるのに、実は神事のままである(と多くの関係者が考えている)、というのが恐らく一番違和感を感じるところだと思われます。僕は、神事としての相撲は残すべきであり、エンターテイメントとしての相撲はどっちでもいいと思います。エンターテイメントとしては、人気があるとはいえない気がするので。
相撲は元は神事だったわけで、それが現在エンターテイメントに変わりつつあるのに、実は神事のままである(と多くの関係者が考えている)、というのが恐らく一番違和感を感じるところだと思われます。僕は、神事としての相撲は残すべきであり、エンターテイメントとしての相撲はどっちでもいいと思います。エンターテイメントとしては、人気があるとはいえない気がするので。
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tomy
at 2011-02-05 12:13
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by stochinai
| 2007-02-01 23:53
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