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宮本邦彦巡査部長は死にたくなかった

 今月6日、東京の東武東上線の線路内で、自殺しようとした女性を助けようとして電車にはねられて入院していた交番のおまわりさん、宮本邦彦巡査部長(53)が12日に亡くなられました。心からご冥福をお祈りしたいと思います。

 この死に対して、警視庁は13日、警部に2階級特進させたと発表しました。阿部首相は緊急叙勲をする意向を発表しました。

 先日も、安倍首相は交番まで弔問に訪れ、名前を間違えるという失態を犯しながらも、記者団に「危険を顧みずに人命救助に当たった宮本さんのような方を、首相として、日本人として誇りに思う」と語っています。

 今朝のワイドショーでは、東京都の石原都知事が今時これほどの自己犠牲心を持った日本人は珍しいというようなことを(都議会)かどこかで演説している様子を流していました。

 確かに、宮本さんが自殺しようとした女性を自分の身体を張って助けようとしたことは間違いなく、そのこと自体は警察官として称賛に値することだと思います。たとえ、職務だとしても同じことをできる人はそんなに多くないかもしれません。

 しかし、宮本さんは決して自分を犠牲にしてその女性を守ろうとしたわけではなく、危険を顧みずに人命救助に当たったわけでもないと思います。もしも亡くなっていなかったとしたら、たとえ大けがをしていたとしても宮本さんは警察官として当然のことをしただけだと言ったと思います。

 職務を遂行する中で殉職してしまったことは、決して誇るべきことでも、自己犠牲でもなく、宮本さんは非常に悔しく思っているに違いありません。女性も助かり、自分も助かることこそが宮本さんの最大の目標だったはずです。結果的に、女性の命を救い、自分の命が犠牲になってしまいましたが、最悪のシナリオとしては両方ともが命を落とす可能性もあったと思います。

 もしも、女性の命を救うことができなかったとしても、宮本さんは責められるべきことは何もありません。しかし、やはり宮本さんは女性の命を救いたかったのです。女性の命を救えたことは目標の半分を達成したことですが、自分の命を守るという意味では目的を達成することができませんでした。

 結果的には自分の命を顧みずに行動したことにされてしまいましたが、やはり宮本さんとしては死にたくなかったはずです。言い方は悪いですが、列車にはねられたときに「しまった」という思いが胸をよぎったのではないかと思われてなりません。

 それなのに、自分の命を顧みない自己犠牲の精神で女性を救ったと言われて納得できるものでしょうか。残された宮本さんのご家族にとっては、宮本さんが英雄に祭り上げられることで、今後の生活がしやすくなるのだとしたら、それは良いことなのかもしれませんが、宮本さんは死んで英雄になりたかったのでしょうか。

 総理大臣や都知事が、自分の命を捨ててまでも他人の命を救った行動を、「誇らしい」とか「素晴らしい」とかいうことの真意はどこにあるのでしょうか。それは間違いなく、国や国民のために命を顧みずに行動するという「愛国心」あるいは「忠誠心」を我々に求めるということではないかと思われてなりません。

 宮本さんが亡くなったことはとても悲しいことで、日本国中が喪に服するに値することだと思いますが、同じことを繰り返さないために、自殺したくなる人を減らす政策を提言するとか、事故が起こりにくい鉄道にするためにはどのような安全策を講じたらよいのかを考えるだとか、いやしくも一国の総理大臣や東京都の都知事ともあろう人は、そのようなコメントを発して欲しいと思います。

 この国はまた、死ぬことが美しいとか誇らしいとかいう国に戻ってしまったのでしょうか。そして、我々はそれを受け入れるのでしょうか。
Commented by enoki at 2007-02-16 07:12 x
ご無沙汰しております。
同感です
韓国の方が線路に落ちた人を救おうとして亡くなったときにも感じましたが、確かに感動するようなすばらしい行為であると同時に、英雄視してしまうことで思考停止してしまうような傾向に危惧を覚えます。

亡くなった方から受け取ったメッセージをどう役立てるか、私たちは考えないといけないと思います。
Commented by もも at 2007-02-16 08:00 x
全く同感します。
ここで考えるべきは、もし人が線路に立ち入ったりホームから落ちたときの、安全設計だと思います。
なにもかも精神論に摩り替える、しかもこのところ、人気タレントの映画や戦争映画で「命を犠牲にする」テーマが多くて危惧します。
石原知事が総監督した「僕は君のためにこそ死ぬ」という特攻隊映画が封切られるそうです。「君のため」と言われて死んでもらうほど、つらいことはない。そんなこと、望んでないし。
政界も財界も、なんか「酔ってるオジサン」が目につきますね。
Commented by ヨシダヒロコ at 2007-02-16 12:12 x
自殺したくなる原因のひとつとしてうつ病があげられますが、問題はよくなって働けるようになっても職場に理解がなく、また病状が再燃することにあります。そのことはあまり知られていないと思います。午後出勤させたり、時間短縮したりしながらだんだん慣れていってもらって、など。最近は本も出ています。

ニュースがNHK名古屋地域で入っている人限定ですが、
「ナビゲーション」という番組で患者の社会復帰を取り上げます。今日19:30分よりです。

http://www.nhk.or.jp/nagoya/navigation/
Commented by たろさ at 2007-02-16 13:06 x
宮本さんの死に関わらず、政治家の政治的発言に胸一杯になることは私もよくあります。
また、人間本能として誰も他人のためになんか死にたくは無いわけで、「宮本さんは死にたくなかった」という論も同感です。
ただ、間接的にせよ(同じ公務員として)自分の下位職位者である警察官の殉職に際して、トップたる首相あるいは都知事が何を言うべきか、という観点からすれば今回の安倍首相&石原都知事の発言自体は当然の感があります。
むしろ「職務を遂行していました。そして死にました。大変残念ですが、そういうこともありうる職務ですからしょうがありません。」などと言ってもらっては困ります。
また、結果的にせよ自己犠牲による死を迎えた(「殉職」した)事実を国家あるいは社会が明確な形で顕彰せねば「公僕」はただの「下僕」となります。これは民間企業でも従業員殉職者の顕彰を行っているぐらいですし。従業員はただの労働力ではなく、やはり生きた人間なのだという尊厳をもって接するのはどこの世界でも同じですよね。
「本人が好き好んでやっている仕事ですから、本人はそれも承知の上でしょう。」とはいかない訳です。
(すみません、続きます)
Commented by たろさ at 2007-02-16 13:10 x
(続きです。)
今回の発言は「日本人として」という言葉を持って顕彰したことに好き嫌いが出ているのだとは思いますが、「日本の首相」の発言ですので、いいんじゃないでしょうか?仮にあれが「同じ板橋人として」と板橋区長が言ったとしても何も議論は出なかっただろうと思われますし。さらにそれに加えた例えで申し訳ないですが、「地元大好き!」の延長線上に自然に「日本大好き!」があってもイイと思いますよ。つまり、「日本」と言う言葉が出ると「愛国心、忠誠心の強制=好ましくないもの」という戦後民主主義イデオロギーによる思考停止は、殉職の極端な英雄視と同じ危惧の対象となりうるのではないでしょうか?私には戦前の反共・大政翼賛的なものの裏っ返しに見えてしようがありません。
話がだいぶ大きくなってしまいましたが、安倍首相や石原都知事の発言を冷静に見る必要はあるものの、たいした問題ではないと思います。むしろ何度も何度も報道して神妙面しているテレビの方が胸一杯です・・・。
通りすがりのくせに長くなり申し訳ないです。また、文面に失礼があったらすみません。以上です。
Commented by stochinai at 2007-02-16 13:41
 たろささん、コメントありがとうございました。

 おっしゃることは良くわかりますが、私の個人的感情としては私が殉職した時には上司には、「良くやった」と言われるよりは「死んで欲しくなかった」と言われたいというあたりで、意見が違ってくるような気がします。私は、日本でも東京でも自民党でも家族でも、なんでもいいのですが、「何か」のために人が死ぬことを正当化いわんや美化はしたくないと思うのです。

>何度も何度も報道して神妙面しているテレビ

 この点に関しては、今回はまったく考えておらず片手落ちでした。ご指摘を感謝します。
Commented by たろさ at 2007-02-16 17:15 x
ご丁寧なお返事ありがとうございました。
自分も個人的には「死んでもたいそうな弔辞なんてやめてくれ!むしろ生きているうちにたーんと褒めとくれ~。」と思っていますので、stochinaiさんのおっしゃる感覚、よくわかります。
もしかしたら「良くやった」的な発言は、むしろご遺族のためにあるかもしれませんね。
私も経験がありますが、家族が亡くなると遺族は「なぜ死んじゃったの!」という答えのない問いをします。今回の様な状況ならなおさらだと思います。
そこに対して「だんな様(お父様)は立派なことをされて亡くなったのです。」との言葉がせめてもの答えなのかもしれません。

いずれにしましても丁寧なコメント本当にありがとうございました。
また、あらためまして宮本警部のご冥福をお祈り致します。
Commented by stochinai at 2007-02-16 17:29
>「良くやった」的な発言は、むしろご遺族のためにある

 これは、まったくその通りだと思います。少しは悔しさが軽くなるかもしれません。でも、ご遺族に必要なのは1000の言葉ではなく、その後の生活の保障ですから、そちらをしっかりとお願いしたいところです。

 たろささんにも、有意義な議論のお礼を申し上げます。これからも、よろしくお願いします。
Commented by stochinai at 2007-02-16 17:33
 ちょっと遠くなってしまいましたけど、ず~っと上にあるヨシダヒロコさんのコメントを読むと、うつ病からの社会復帰の環境作りは、子育て後の社会復帰の環境作りに似ていると思いました。
 先の失言大臣を含め、政府関係各位がそのあたりのところを認識できていないところに、少子化と高自殺率という一見関係のなさそうな問題が、実はつながっているという日本社会の特徴を形成している元凶があるのかもしれないと思いました。
Commented by merchantsakurai at 2007-02-16 22:28 x
 TVで第三者の目撃談が報じられていたようですが、周りの人がなぜ宮本さんに加勢できなかったのでしょうか。もし踏切事故になった場合渡ろうとしている人も実害をこうむるはずなのですが。
 考えようによっては見殺しです。死ぬことが美しいとか誇らしいとかいう以前に、無関心なのかもしれません。
Commented by killhiguchi at 2007-02-16 23:38 x
 御無沙汰しております。
 自己犠牲という言葉は聞こえがいいのですが、その言葉が誰の為にあるのかを考えると、一瞬で嫌な言葉になります。
 まず、それは亡くなった方の為の言葉ではないでしょう。亡くなった方は、生きて守ることを望んだはずです。また助かった方の為の言葉でもないでしょう。助かった方は、その言葉を聞く度に針の筵に立たされるはずです。亡くなった方の御遺族や知り合いの為の言葉でもないでしょう。彼/女らは、その方の生きた姿をこそ望んでいたはずです。
 この言葉は、体制者/管理者の為の言葉でしかないのです。上手くいかなかった現実を、管理や体制のせいであるというところから目を逸らさせ、亡くなった方の個人的行動の所為とするものです。
Commented by killhiguchi at 2007-02-16 23:38 x
(つづき)
 先の大戦でも同じことが起きました。多くの日本人は、国の為と言って出征していきましたが、恐らく、その「国」とは身の回りの親しい人々/家族/恋人のことであったのではないでしょうか。国民国家としての体制が不十分であった日本人が、中間層/地域社会を飛ばして即国家というところに辿り着いたとは思えません。
 しかし、国家はそのような人々の行動を、国家の為の自己犠牲として描いたのです。国家の十分に無いところに、地域の為に不本意に死んだ人の死を、自らの為と利用することで、自らの形を整えようとしたのです。そして、自らの形が十分にない所為で死んだという事実を覆い隠そうとしたのです。
 人の為に死ぬことは、どんな場合であっても決していいことではありません。そこにはなんらかの体制/管理の不備があるからです。そして、人の死はその不備を覆い隠されることに利用されるからです。そこには死んでいった人の思いも何もありません。流通しやすい、利用しやすい「美談」があるだけです。
Commented by 棚旗織 at 2007-02-17 10:26 x
死にたくなかったからこそ、祭り上げなければならないのでしょう。
死にたくないのに死んでしまった、その無念を晴らすため、私たちは彼を祭り上げます。
皆が彼を讃えなければ、どのように彼の無念、遺族の悲しさを晴らすのでしょう。
体制の整備、その後の保証と言った物理的な面はもちろん必要ですが、それとは別に、言の葉による精神的な救済も必要です。
Commented by killhiguchi at 2007-02-17 13:17 x
>死にたくなかったからこそ、祭り上げなければならないのでしょう。
>言の葉による精神的な救済も必要です。
 その祭は誰の為のものですか?死んだ人の為ではありませんよね。遺族の為ですよね。遺族が言葉で喜ぶでしょうか。所詮は誤魔化しでしかないと思います。しかも誤魔化されて喜ぶ人は別にいるのです。
Commented by stochinai at 2007-02-17 16:16
 私も遺族に必要なものはまず言葉よりも物理的支援だと思います。
 それでもなお政府や役所からの救済の言葉が必要なのだとすれば、それはまわりの人達のサポートがないということを反映しているような気がします。住んでいるところの隣近所の人々がこのような悲劇を、我がことのように一緒に悲しんでくれて、その後の家族を支えてくれるような「ほんとうに美しい国」であるならば、政府や役所からの勇ましい言葉なんていらない、と遺族は思うのではないでしょうか。

 merchantsakuraiさんのおっしゃるように、誰もが無関心であるのならば、誰が何をやっても遺族は救われない気がします。
Commented by 棚旗織 at 2007-02-17 17:45 x
> killhiguchi さん
もちろん遺族のためです。
人は死人のために何もできません。だから本人のためには、お葬式も不要だし、埋葬も不要です。マグロのまま可燃ゴミとして捨てても何ら変わらない。突き詰めるとそういうことです。しかし、自分の葬式のために最後の蓄えを残す老人は多くいます。二階級特進と同じく、死人には不要なのにどうしてでしょうね。考えてください。

さて、遺族のための“言の葉”についてです。
自分の父が、夫が、子供が死にました。
「彼は無駄なことで命をすてた。馬鹿なやつだ。しかし金はやろう。」と、
「彼は素晴らしいことをしました。英雄です。多くのお金は差し上げられませんが、せめて参列させてください。」
どちらが遺族にとって嬉しいでしょうか。
物理的支援だけで人は救えません。
政治的パフォーマンスを差し引いても、賛美を形だけの無為なものだと切り捨てては愚かしいです。

多くの英雄が無惨な死を遂げた理由は、無惨な死を遂げた故に英雄だからです。
彼らの、そして残された者の恨み辛み悲しみを慰める、鎮魂するために死人は英雄、あるいは神になる。その伝統が古今東西を問わず存在する理由を短絡的に切り捨ててはいけません。
Commented by killhiguchi at 2007-02-17 21:54 x
>自分の父が、夫が、子供が死にました。
「彼は無駄なことで命をすてた。馬鹿なやつだ。しかし金はやろう。」と、
「彼は素晴らしいことをしました。英雄です。多くのお金は差し上げられませんが、せめて参列させてください。」
どちらが遺族にとって嬉しいでしょうか。

 これ以外の選択肢も多くあるでしょう。「私のいい友人だった」「親切な隣人だった」なにも祭り上げる必要はないでしょう。言葉は多くの選択肢を持ち、それによって遺族の気持ちをやわらげることはできるのです。
 神や英雄を持ち出すのは簡単です。それが慰めになるという人もいるでしょう。けれど慰めになるからといって宗教の内容が正しいかどうかとは別です。言い換えましょう。慰めの名を借りて、宗教は権威を作り上げていると。無神論者の遺族が神を信じたり英雄を祭り上げたりする遺族より不幸である証拠はないし、そんなことをせずとも、遺族は立ち直れるのです。
Commented by killhiguchi at 2007-02-17 21:55 x
(つづき)
 よくわからないのですが、「素晴らしいことをして死んだ」ことはどのようにして慰めになるのでしょう。魂の不滅を信じるのならしは悲しむべきことではありません。素晴らしいことをしたかどうかも関係ありません。魂がないとすると現世でのことのみが問題になります。現世で英雄だったという誤った信仰を信じることによって得た慰めはそれが誤りとわかるときまでは慰めです。しかしこれは非宗教的なものでも同じです。医者は病気が重くないといって患者に慰めを与えることができます。無論だからといって、神や英雄にすることで慰めを得ることが間違いだとは言えません。それは他のいかなる権威に慰めを求めるのとも等価だからです。
 死んだことを慰める道は、英雄視したり義人化したりする以外にもあるし、それらは権威に都合がいいので、なるべくならば避けた方がいい、そう思うだけです。
Commented by 棚旗織 at 2007-02-17 23:03 x
 うーん、神や英雄と言い方は誤解を招くようですね。たぶん、「宗教」という言葉から連想するそれとは、多少意味が違うでしょう。日本における神や英雄とは、非業の死を遂げた者です。死にたくないのに死んだ者です。そして、戦争で殺された者は平和の神となり、難産で死んだ者は安産の神となり、病に倒れた者は健康の神となりました。興味があれば神社等の由来を調べてみると面白いです。
 さて、この日、宮本さんは無念の死を遂げました。故に神に祭り上げられます。(神と言っても一神教的神ではなく、アニミズム的な神です。念のため。)誤解して欲しくないのは、彼は「勇敢の神」にはなりません。彼の無念を晴らすため(彼が無念に思っているだろうと考えている現世の人の無念を晴らすため)、彼は「交通安全の神」あるいは「自殺防止の神」になります。現に彼を見舞う多くの人は、彼の冥福と共に、「今後このような事故がないよう」願います。それが神になるという意味です。
Commented by 棚旗織 at 2007-02-17 23:04 x
> 「素晴らしいことをして死んだ」ことはどのようにして慰めになるのでしょう。
 これは伝統的な考え方ですからね。「木曾の最期」を引用するなら「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名候へども、最期のとき不覚しつれば、長き疵にて候ふなり。」です。
今井四郎兼平の気持ちが分からなければ残念です。また、上に書いたお葬式の話にも通じます。
> 現世で英雄だったという誤った信仰
 誤りか否かは人それぞれの価値判断です。誤りと断定してはいけません。少なくとも助けられた女性の遺族にとっては英雄です。(女性が立ち直ったら、という前提ですが。)
> 権威に都合がいい
 確かに総理や知事の参拝には政治的な色が見えます。しかし、権威に都合がいいことがどうして宮本さんに都合が悪いのでしょうか。「権威」への単純な反応はどうかと思います。もっとも、彼らが単純な慰めではなく、今後このような事故が起こらないようにするための建設的な意見をはくべきだ、という考えには賛成です。
Commented by stochinai at 2007-02-18 13:54
 棚旗織さんのお考えはわかりました。それは、「信仰・宗教の自由」のもとに尊重されるべきことだと思います。

 しかし、それはあくまでも個人的あるいは家族ごとに異なっているプライベートなことであり、キリスト教やイスラム教、その他の宗教あるいは無信仰の方々にとってはまったく受け入れることのできない考え方でもありましょう。「日本人」だからといってくくることのできることではありません。

 というわけで、そうした部分には国や団体が介入すべきことではなく、あくまでも個人的に納得できる形でそれぞれの事情に基づきながら慰霊を行うべきですね。それを邪魔することも、強制する権利はありません。
Commented by 棚旗織 at 2007-02-19 02:39 x
六十年前の国家神道(神道とは全く別物です)による反動から、無意識に宗教を、特に国の関与を恐れ嫌うようですね。ブッシュが十字を切るよう、フセインがイスラムを支持するよう、国のトップが宗教行事を行う例は珍しくありません。むしろしない国が異様です。
> 「日本人」だからといってくくることのできることではありません。
済みません。言い直します。「特定の一神教を信じていない99%の日本人」です。そもそも、日本人に無宗教の人はほとんどいません。日本人の思想の根底に横たわる宗教観は、仏教が大陸から、神道が高天原から伝わるより前から存在するアニミズムです。"religion"の訳語である「宗教」とは似て非なるモノで、具体的な教義などが存在しないので認識しにくいでしょう。"religion"ではないから「無宗教」です。
証拠に「命あっての物種」という考え方自身が日本人の宗教に由来します。「彼岸宗教」を信じるクリスチャンやムスリムからは決して生まれません。ハイジャック犯に身代金を渡した日本に対する各国の反応を見れば容易に分かります。何よりも命を重んじる考え自体が「此岸宗教」という宗教観、あるいは「穢れ」に対する宗教観に無意識に染まっている証拠です。
Commented by stochinai at 2007-02-19 11:48
>日本人の思想の根底に横たわる宗教観
 残念ながら、私はこの伝統は今の日本ではすでに途切れていると判断しています。おそらく、ほとんどの団塊ジュニアに伝わらなかった(団塊世代で握りつぶされた?)ので、断絶したままもう2世代が過ぎたと言えるのではないでしょうか。
Commented by 情報学ブログ at 2007-02-20 16:06 x
人間、歳を取って自分が戦争に行く必要がなくなったり、権威や名声を得て自分の子供が戦争で死ぬことはないだろうという確信を持つと、急に「国のために命を犠牲にしろ」などと言うようになるような気がします。

Commented by stochinai at 2007-02-20 19:23
 おそらく本人達は意識していない可能性は高いと思いますけれども、結果的におっしゃるとおりの状況になっていることが多いと思います。アメリカの共和党の議員の子ども達もほとんど戦争に行っていないという話も聞いたことがあります。建前と本音を使い分けている政治家に、我々のような純真な(^^;)国民はすぐにだまされてしまいますね。
Commented by 棚旗織 at 2007-02-20 21:27 x
> 残念ながら、私はこの伝統は今の日本ではすでに途切れていると判断しています。
形式的な面ではとぎれた文化も多いですが、思想面では結構生き残っていますよ。団塊世代の方々はよくわかりませんが、少なくとも今の学生には生き残っています。たとえば、「キットカット」「うカール」「ハイレるモン」などの験担ぎ。言霊思想が由来です。他にも死んだ人の悪口を(たとえ思っても)口に出してはいけません。事件の被害者は皆いい人ばかりです。これは怨霊信仰が由来。また、いじめられっ子が触った机などはみんな嫌がります。(よろしくないことですが。)しかも、彼らに触られた子供は他の子供にタッチして汚れ(正確には穢れ。)を移します。(無意味にバリアーはったりしますが。)これは「穢れ」の思想。もちろん誰も、本気で神頼みの効果があるとは思っていませんし、死人に祟られるとも考えていませんし、いじめられっ子が本当に不潔だとも信じていません。しかし、「宗教」を意識せずとも「宗教」に振り回されている証拠です。日本の「文化」として「宗教」を知らないとなかなか認識できませんね。
Commented by stochinai at 2007-02-20 21:32
 おっしゃることはわかりますが、精神が受け継がれずに残ったそうした「文化」(それすら、もうかなり薄れています。神様が見ているから悪いことはできないと思う人は激減しています)が、日本を動かす「力」になりうるでしょうか。お話としてはなかなかおもしろいと思いますが、もはや文化人類学の領域だと感じます。
Commented by 棚旗織 at 2007-02-21 17:29 x
確かにみんな《知って》いても誰も《識らない》文化が目に見える形で日本を動かすことはないでしょう。また、知識として《識ら》なくても体で《知って》いるのだから、わざわざ《識る》必要性もないかも知れません。少なくとも日本を出ないのならば。しかし文化を《識った》上で違う文化を持つ人々──外国の方々と話してみると、自分たちの思考が宗教を含む文化の影響を大きく受けていることを《知り》ます。日本の外交の下手さもここに起因するのですが、大半の人がそれを《識ら》ないが故に、やはり日本を動かす「力」にはなりえないでしょうね。
Commented by stochinai at 2007-02-21 21:45
 ですね。高校までに、世界史や日本史さらには日本文化をまともにならったことがない私などは、外国人と話をする時に日本文化を語れなくて困ることは多いです。日本のほとんどの人が、歌舞伎や文楽を見たことがないのに、外国人はすぐにそういうことを質問してくるんですよね。どうしましょう。
Commented by 雄孝 at 2007-10-03 20:04 x
感心しました。自分の死も顧みず職務に生きた人と思ってました。
そうですよね。自分だって死にたくはない。残された家族の事を
思うはずです。二人とも助かる事が最大の目的。その通りだと思い
ました。
Commented by stochinai at 2007-10-03 21:43
 ずいぶん古い記事になってしまいましたが、コメントをいただきありがとうございます。誰だって死にたくはないはずという素朴な気持ちから出発すると、死んだことを褒められることなど決して本人が望んでいるはずはないという結論にたどりつけるのではないでしょうか。死んでしまったあとで、その死を悼むために褒めるという気持ちもわからないでもないですが、そのことが生きている人に死ぬことを勧めることになるのではないかという危惧を感じてしまいます。誰も何かあるいは誰かの「犠牲になって」死ぬことなどない世界が「正解」なのだと思います。
by stochinai | 2007-02-15 23:37 | つぶやき | Comments(31)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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