2007年 03月 30日
やはり教科書検定はやめるべき
先ほどNHK総合テレビの7時のニュースのトップで、高校の日本史の教科書の検定によって太平洋戦争末期の沖縄戦での住民の「集団自決」について、昨年までは認められていた「日本軍により強制された」となっていた記述が、強制はなかったというように修正されたと報道されていました。
従軍慰安婦問題でも、「日本軍の直接関与」がうんぬんされ、証拠がないからなかったのだろうという議論がありましたが、今回の教科書検定も教科書検定調査審議会が、日本軍の強制の証拠がないから、教科書から削除するようにという意見(逆らうと検定外になってしまうので、事実上の強制)を付けたものと思われます。(不思議なことに、従軍慰安婦問題には検定で意見書が付いていないそうです。外圧のせいでしょうか?)
これでまた、明日から世界中からいろいろな文句が来ることは間違いなく、国際的に孤立して生きていくことはできないグローバリゼイションの時代に、なんともセンスのない行政を行う政府なのかと疲れてしまいます。(総理は文科省のやることこは、政府がやっていることではないとコメントしているようですが、外国からみるとそうはならないでしょう。)
従軍慰安婦にしても、沖縄の非戦闘員集団自決にしても、存在したことは事実として否定する人はいないと思うのですが、それを日本帝国軍が直接指揮したかどうかについては議論が分かれるのはかまわないと思います。そして、両方の意見が自由に言える状態でこそ、本当の民主主義国家と言えるのだと思います。ですから、時の政府がどちらの意見であったとしても、それを国民全体に強制するということになる教科書検定などはもうやめてしまってはどうでしょう。
そもそも教科書検定の大問題は、教えてはならないことが出てくることであり、検定教科書に載っていないことは受験に出してはいけないことになっており、そのせいで能力のある子どもでもその能力を伸ばそうと思っても、モグラたたきのようにたたかれてしまう原因のひとつにもなっていると思います。
これだけの情報化社会なのですから、教科書で知識や思想を統制しようという発想そのものが古すぎます。これを機に、教科書検定そのものをやめてしまってはどうでしょう。そうしなければ、ただでさえ評判がガタガタになっている公教育そのものが見捨てられることになってしまうと思います。(結果的には、それでも検定制度は崩壊します。)
教科書の検定制度は廃止しましょう。
従軍慰安婦問題でも、「日本軍の直接関与」がうんぬんされ、証拠がないからなかったのだろうという議論がありましたが、今回の教科書検定も教科書検定調査審議会が、日本軍の強制の証拠がないから、教科書から削除するようにという意見(逆らうと検定外になってしまうので、事実上の強制)を付けたものと思われます。(不思議なことに、従軍慰安婦問題には検定で意見書が付いていないそうです。外圧のせいでしょうか?)
これでまた、明日から世界中からいろいろな文句が来ることは間違いなく、国際的に孤立して生きていくことはできないグローバリゼイションの時代に、なんともセンスのない行政を行う政府なのかと疲れてしまいます。(総理は文科省のやることこは、政府がやっていることではないとコメントしているようですが、外国からみるとそうはならないでしょう。)
従軍慰安婦にしても、沖縄の非戦闘員集団自決にしても、存在したことは事実として否定する人はいないと思うのですが、それを日本帝国軍が直接指揮したかどうかについては議論が分かれるのはかまわないと思います。そして、両方の意見が自由に言える状態でこそ、本当の民主主義国家と言えるのだと思います。ですから、時の政府がどちらの意見であったとしても、それを国民全体に強制するということになる教科書検定などはもうやめてしまってはどうでしょう。
そもそも教科書検定の大問題は、教えてはならないことが出てくることであり、検定教科書に載っていないことは受験に出してはいけないことになっており、そのせいで能力のある子どもでもその能力を伸ばそうと思っても、モグラたたきのようにたたかれてしまう原因のひとつにもなっていると思います。
これだけの情報化社会なのですから、教科書で知識や思想を統制しようという発想そのものが古すぎます。これを機に、教科書検定そのものをやめてしまってはどうでしょう。そうしなければ、ただでさえ評判がガタガタになっている公教育そのものが見捨てられることになってしまうと思います。(結果的には、それでも検定制度は崩壊します。)
教科書の検定制度は廃止しましょう。

教科書の検定は、本来、必要最小限を満たしているかどうかということではないかと思います。
今日の文脈で検定制度を廃止しようという提案は充分理解できますが、書くべからずは言わずに、少なくとも書くべし、という「検定」はあるのではと思います。その場合、たとえ書くべしが妙な具合でも、さらに「とはいっても、、」と書けるわけですから(これには文句をつけられない制度にする)。
今日のニュースは、私も議論を阻止するという意味でむちゃくちゃだと思いました。
今日の文脈で検定制度を廃止しようという提案は充分理解できますが、書くべからずは言わずに、少なくとも書くべし、という「検定」はあるのではと思います。その場合、たとえ書くべしが妙な具合でも、さらに「とはいっても、、」と書けるわけですから(これには文句をつけられない制度にする)。
今日のニュースは、私も議論を阻止するという意味でむちゃくちゃだと思いました。
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>教科書の検定は、本来、必要最小限を満たしているかどうかということ
そうなんですか。理科の場合だと、動物の名前を書きすぎたり、少し発展したことを書いたりすると、ダメ出しされることが多かったので、てっきり「書くな」というのが検定の趣旨なのだと思っていました。
両論併記が許されるなら、大きな問題にはならないと思いますけれども、今の制度はやはりひどい運用がされていると思いますね。
そうなんですか。理科の場合だと、動物の名前を書きすぎたり、少し発展したことを書いたりすると、ダメ出しされることが多かったので、てっきり「書くな」というのが検定の趣旨なのだと思っていました。
両論併記が許されるなら、大きな問題にはならないと思いますけれども、今の制度はやはりひどい運用がされていると思いますね。

>そのせいで能力のある子どもでもその能力を伸ばそうと思っても、モグラたたきのようにたたかれてしまう原因のひとつにもなっていると思います。
私もそのように思います。「この範囲のことを学習せよ」では、発展できないですね。残念です。
私もそのように思います。「この範囲のことを学習せよ」では、発展できないですね。残念です。

上の私のコメント、誤解を生んでしまったようです。
「本来」とつけたのは、そうあるべきだけれども現状ではそうではない運用であるというつもりでした(したがって、現実はstochinaiの仰るとおりです)。
「本来」とつけたのは、そうあるべきだけれども現状ではそうではない運用であるというつもりでした(したがって、現実はstochinaiの仰るとおりです)。
ナオサンさん、了解しました。わざわざご説明をありがとうございました。
くりさん、kitanomizubeさん、コメントありがとうございます。そろそろ、我々も政府主導の教育から脱皮することを決意しなければならないのかもしれません。先は長いですが、みんなで少しずつやっていけば、いずれは光も見えてくる気がします。

教科書検定を無くすのはいいが、「水からの伝言」「EM菌」「インチキ燃費向上グッズ」などを義務教育に持ち込む実践例が流行りまくっている現状を考えると、無くした途端にトンデモに入り込まれるリスクを背負うことになりそうですよ。
あと、検定で範囲を縛るのは、我が子に楽をさせたい親のエゴがあるから簡単じゃないでしょうね。どこまで勉強したらいいかわからないから、際限なく負担がかかって受験が大変、と大声上げ始める人が出てきそうです。
あと、検定で範囲を縛るのは、我が子に楽をさせたい親のエゴがあるから簡単じゃないでしょうね。どこまで勉強したらいいかわからないから、際限なく負担がかかって受験が大変、と大声上げ始める人が出てきそうです。
検定をなくすることにより、トンデモが増える可能性は否定しませんが、それはどっちもどっちだと思います。いずれにせよ、教科書を選ぶ権利が教員にないのでは、検定があろうとなかろうとダメだと思っています。
「どこまで勉強したらいいかわからない」という悲鳴は出てくるでしょうが、そういう状況までもっていかないと、少なくとも学問の発展は望めそうもありません。学問のためには、ほんの一握りでもいいのですが、どこまででも勉強し続ける後継者が必要だと思います。大学がそれを望まなくなったら、自殺ですよね。
「どこまで勉強したらいいかわからない」という悲鳴は出てくるでしょうが、そういう状況までもっていかないと、少なくとも学問の発展は望めそうもありません。学問のためには、ほんの一握りでもいいのですが、どこまででも勉強し続ける後継者が必要だと思います。大学がそれを望まなくなったら、自殺ですよね。
by stochinai
| 2007-03-30 20:01
| 教育
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Comments(9)