5号館を出て

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大学では何を売るか

 国立大学は法人化されましたが、民営化されたわけではありませんので、独立採算でやっているわけではありません。それどころか、入学試験、入学金、授業料など学生(の親?)が払っているお金や、付属病院のあるところではそこからの収入を除くと、残り(といっても半分以上)のほとんどは税金から回ってくる資金で運営されています。また競争的外部資金と言っても、政府関係諸機関からのものが多いので、税金に依存する割合は非常に高いままです。

 税金ですから、「国民の意思」が国立大学にはそんなにお金をかけるべきではない、と判断したならば、大学の数を減らしたり、教職員の数を減らして縮小することも仕方がないことです。

 それでもなお、生き残りたいということであれば、税金以外のソースを探さなければならないのですが、どうやってそれを得れば良いのでしょうか。

 大学が商売として売っているものは、とりあえず教育で、学生から直接お金を頂いていますから、これは重要な収入源です。この収入だけで今ある大学を維持しようとしたら、授業料などを5倍くらいに値上げしなければなりませんが、その値段にしたら、入学したい(あるいはできる)学生は激減してしまうでしょうから、商売としては成り立たなくなります。

 北大では、学生納付金と同じくらいの収入になっている競争的外部資金は何を売ってもらっているのでしょうか。研究費に代表される外部資金の多くは、資金を出しているところには報告書を出すことだけが要求されていますので、学生から頂いているお金よりもひどいぼったくりと言えるかもしれません。

 国や企業では、研究成果が日本の科学を発展させてくれることに期待して出している、ありがたい資金だとは思いますが、ではそちらを5倍獲得することができるかというと、どんなに優秀な研究者をかき集めても、おそらく無理でしょう。何しろ、具体的に売っているものがないのですから、出す方にしてみれば寄付のようなものです。

 外国の大学では、寄付収入がとても大きいという話を聞いたことがありますが、日本では大学が運営できるほどの寄付が集まることはほとんど期待できません。「感謝と称賛」以外に相手にわたるものがないという意味では、研究費よりもさらにぼったくり度が高いものが寄付でしょう。

 最近は大学も「商売」をするようになってきて、大学ブランドのワインやハム、日本酒、ビール、お菓子などがどこの大学でも売られるようになってきていますが、観光みやげとほとんど変わらないこうした品物を売って、大学の運営が潤うほどの商売としてなりたつことは期待できません。

 というわけで、現状の大学にはその運用を支えるほど売れるものがないことが明らかになりました。日本の大学は私立でさえも、税金からの補助なしには経営が成り立たないところがほとんどだと思います。ましてや、公立や国立大学は税金からの資金投入なしには1日たりとも立ちゆかない存在です。

 というわけで最初に戻りますが、日本の大学をどうするかを決めるのは納税者である日本国民の意思なのです。

 もう大学はいらないと言うことであれば、つぶしてしまえば良いし、入学金や授業料をタダにして、学生の生活費も保証して、明日の国を担う人材を育てるために、税金を投入するという判断もありうる選択の一つだと思います。同じように、大学におけるどういう研究にどのくらい税金を投入すべきかについての決定権も、国民が持っているのが日本の政治体制です。

 というわけで、我々国立大学法人が国民の理解なしには存続し得ないことを再確認するとともに、その理解を得るために最大限の努力をすべきだと思います。今は、どちらかというと国民の代表である、政府や官庁にのみ理解してもらうための努力を注ぎがちですが、もっともっと直接に主権者・納税者への働きかけをしなければ、数年後にはあっさりと何割かの大学がなくなってしまうことを覚悟しておかなければなりません。

 さて、我々は国民に存在を認めてもらえるのでしょうか?
Commented by M姫 at 2007-05-12 01:41 x
サイエンスフェアリー活動で、国民の皆さまから直接お金をいただくことは出来ないかしら?と、思う今日この頃です。
Commented by え? at 2007-05-12 02:16 x
何か出発点の「ビジネスモデル」が違うような気がしますよ。

上で全く正しく分析されている通り、「大学は教育や研究成果を売ってその対価で成り立つ筈」という言明は真っ赤な嘘です。

これはもちろん「自由競争」というアダムスミスの概念の頭の悪い曲解に基づく邪説です。



Commented by え? at 2007-05-12 02:33 x
アダム・スミスの原典見れば分かりますが、市場原理には「市場の失敗」という特例がつきもので、教育、特に高等教育は、治安維持と並んで、そのような公権力で市場の失敗を補完する必要のあるものの代表例とされてますよね。

国民の「上智」の希求の付託を受けた公権力が大学を支え、その付託にこたえるために学問のプロが集結し、社会の教育水準と文化水準の向上に寄与しながら、長いスパンで文化的価値と科学技術の実利の根本の種を育むーーこういうデュルケームやマックス・ウェーバー流の大層古風な大学像は、実は根本的には今でも有効なのだと思います。

現代のサッチャー流新自由主義の流入の前後を問わず、また国民が主権者か君主が主権者かという政体によらず、現代の大学の存在の根本は変わっていません。

問題はそういう根本的な部分ではなく、ミクロな現実的な部分のテューニングに「市場原理」が応用されてるだけなのでは?
Commented by え? at 2007-05-12 02:53 x
抽象度高すぎると、最近出入りする院生とかは理解できないらしいので、具体例で言いましょか。

1)進学率の上昇に伴って「高等教育」から「中等教育」へと変化している大学の現実に、大学人を向き合わせ、適応を強いるための、痛みを伴う処置としての「市場化』=>授業評価、エフデーその他の学生の機嫌取りゴッコ
2)産業の高度化に伴い、割と短期的な成果が出る部分まで、個々の企業の研究投資あまりにリスキーに=>大学に「公的競争資金」と言う形式で政府を通して外注 
ッてな感じかな。。

大学の数が多すぎるのは、デモグラフィーからみても、多分単純な事実なので、いずれ減るか、「値付け」を大幅に変えて生き残るかのどちらかでしょう。(一節では学費の水準を今の半分にすれば進学率70%まで行くらしいとさ)

これを政府に圧力かけて、無理に現状で維持しようとすると、大学が農協と同じメンタリティーになって百害。国民を直接ペテンにかけるのは、さらに悪い浅知恵でしょう。

こういった資源のショートサーキットの試みを排除するのが社会正義、というのこそが、正しい新自由主義のメッセージじゃないかなあ?


Commented by ぜのぱす at 2007-05-12 12:44 x
アメリカだと、有名大学であれば、アメリカンフットボールやバスケットボールなどのスポーツの観戦料が結構な財源に成るのかもしれませんね(具体的には分かりませんが)。ウチの大学の新築アリーナは、卒業生が、後に金持ちになって、ポンと寄付をして建てたもので、自分の父親に因んだ名を冠してます。そこでは、バスケットボールの試合がない時は、コンサートなど各種催し物が開かれて、それも金儲けに繋がっているようです。州立大学なのに、です。

日本では制度的に有り得ないでしょう。確か、京大病院かどこかで、民間からの寄付で増築しようとしたら、国からの予算がその分だけ減らされたような話がありましたよね(ウロ覚えです。すいません)。

完全に国から独立した予算にしない限り、例え、どこからかお金を得ても、その分、国からの補助が減らされ、収入は一定、と云う仕組みが在る限り、貯金も出来ない訳で、何時までたっても独立出来ないようにする、と云うのが国の狙い?
Commented by alchemist at 2007-05-12 14:03 x
同窓会に寄付してもらった図書館の耐震改修費用の支出を文部省から拒否されたという話を聞いたこともあります。
Commented by 社畜 at 2007-05-12 19:30 x
海外の大学はしっかりカネをもうけてますが何か?
http://www.tez.com/blog/archives/000645.html
Commented by stochinai at 2007-05-12 23:09
 そうですよね。たとえ文科省の交付金を減らされたとしても、やっていけるくらいお金を儲けないと、エラそうなことは言えませんね。
Commented by え? at 2007-05-13 00:40 x
それから導かれる話は、どう考えても

「文科省の交付金を減らされたとしても、やっていけるくらいお金をもうけないと」

ではなくて、

「同等に競争しろというなら、日本の大学も国から資産を譲り受けて、その運用も自由化してもらわないと」

ですよねえ。

同じ結果は大学はすべて国立だけにして、非常に潤沢にファンディングを行うことでも達成できます。これが大陸欧州モデルです。

つまり資産があるなしという問題ではなく、大学の運営が国家の毎年毎年のマイクロコントロールを受けるか、大きく自主性にまかされる制度かということでしょう。
Commented by 社畜 at 2007-05-13 02:53 x
信頼できる運用プランなり実績がないと無理ですが?
Commented by alchemist at 2007-05-13 15:14 x
これまでの日本の国立大学は運用プランを考える機関ではなく、文部省の方針を反映して実施する出先機関でした。いわば建設省の出先の地方の土木事務所のようなモノです。従って、構成員にも現場で運用できる範囲の裁量を判断できる最低限の人員しか配置されておりません。つまり、米国の大学でいうadministrationを担当できる人材も居なければ、そういうヒトを配置しなければいけないという必要性もありませんでした。
私の勤めていた大学で、事務担当の副学長(事務局長ですね)が自分の大学運営に対する考えがscienceに採択された・・・と喜んでいましたが、そういうヒトが育つ場所も予算も全く配慮されずに来てしまった、ということじゃないでしょうか。
唐突に法人化の方針が出て実現しましたが、運用プランを作成した経験も作成できる人材も、そこに配置するポストもないまま、毎年予算を削減するよ、だから何とかしろと言われて右往左往しているのが今の大学でしょう。
Commented by alchemsit at 2007-05-13 15:16 x
(続き)では、教員が運用プランを考えることができるかといえば、そんなトレーニングは受けていませんし、付け刃では碌なことは起きません。ひょっとすると、文系教員にそういうことのできるヒトがいるかも知れませんが・・・・。教員は信頼できる研究計画を立案し、申請書にまとめるという仕事ではプロですが、その先の大学運営についてはシロウトです。大体、学部の予算の決定についてすら、執行部以外の教員はほとんど情報を持っていないのですから。
要するに、法人化は具体化してどう実施するかを含めて拙速であった、あるいは経費節減のため以上の目的は本来なかった、ということなのでしょう。
Commented by え? at 2007-05-13 23:38 x
結果として法人化というのは、「選択と集中」と「分権化」というのを両にらみにして、その方向へ大学を巧妙に動かす方向に作用をしているわけですね。

お金の流れ自体はマクロ的には本質問題ではないと思います。「政府とツルんで税金をふんだくる」、「証券市場でうまく立ち回ってぬれ手に粟の金をとってくる」、「市民に夢を売ってお金を出させる」の間に、高等教育機関を運営する上で本質的な違いは無いです。現代の倫理観からすると後へ行くほど望ましいのか知れませんが。いずれにしても科学技術予算はふえてるし、これは大学の活動によるのではなく、単に国策に基づくものです。


国民から集めた税金を大学に直接投入する大陸欧州型、市場原理で大学自身に多くのお金を調達させる英米型。日本の大学は伝統的にこの中間型だったのが、前者から後者にシフトしてるだけの事です。
Commented by え? at 2007-05-13 23:39 x
思うに、これはもちろん、偶然ではなく、そもそも法人化というのは、財務省の切れ者たちが、きっと先の先まで考え抜いて始めた事業なのでしょう。現代の流行思想シカゴ派新自由主義経済学に従って、大学人のミクロな行動パタンの変化を、お金の動きだけで誘導する、つう非常に高度な手法だし。。文科省のオリコウサンたちにはとてもとても及ばない芸当ですよ
by stochinai | 2007-05-11 22:20 | 大学・高等教育 | Comments(14)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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