5号館を出て

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若者の悲鳴に耳傾けよう

 今朝の朝日新聞の「私の視点」欄に、介護福祉士専門学校非常勤講師の仲田征夫さんという方が投稿されていたものを読んで、同感する部分が多かったので、一部転載しておきます。(「私の声」には、為になる投稿が多いのに、朝日コムに掲載されないのがとても残念です。)
 世の中には、「強い人」から見れば何とも無能で頼りない「弱い人」が圧倒的に多いのではなかろうか。
 それは教育のシステムが悪いとか本人の努力が足りないとかいった問題ではない。現代の過度な競争に適さぬ人や、高度なITを苦手とする人が、もともと社会には多数存在しているということである。
 これは、生物学的にみてもまったくその通りで、人間に限らず、どんな動物や植物でもたくさんの子孫が生まれた時には、かならずいろいろな性質を持った多様な個体が生まれるようになっています。そうなっていない種は、遅かれ早かれ絶滅すると考えられていますので、今生きている生物の子孫は基本的に多様な子供を生むようになっているのだと思います。

 そうした多様な人間の存在を、ついつい忘れがちになってしまうのが、今の競争社会です。
 そもそも「強者」といえども、その境遇は本人の努力だけでなったものではないだろう。激務に耐えられる強健な体や頭脳を持って生まれ、その後も家庭・教育・職場環境などに恵まれるという二重の幸運によりもたらされた境遇ではなかったか。

 反面、そうした幸運を授からなかった人達は、問題の多い境遇の中で乏しい力をふりしぼり、この競争至上社会を生きていかねばならない。「弱者」とは、いまや児童・障害者・老人といった福祉法に記されている者だけではない。能力以上の労働を強いられ、疲弊している一般の人たちも何らかの支援を必要とする福祉対象者なのである。
 最近は、このあたりの議論をするとすぐに「なまけもの」だとか、「自己責任」だとかという声が出てきますが、そもそも「できない人間」を叱咤激励しても無理だということが、かなりのケースであるのではないでしょうか。
 多くの生徒達の意欲や根気は乏しく、学力も低い。

 この若者たちを支え、育んでくれる「ゆとりある職場」をつくっていかないと、彼らが被社会的・反社会的な人間の層を形成し、それはどんどん広がっていくだろう。
 高齢者が増えているのに、支えていくべき若者が支えられる側に回ってしまっているこの異常事態こそ国家の最大の危機なのだ。
 最後に書いてある、生徒の悲鳴は、かなりの若者に共有されている感覚なのではないでしょうか。

 「私はもう疲れました。お金よりも、豊かな人間関係の楽しめる落ち着いた生活がしたいです。お金が欲しい人はどうぞ勝手に競争してください」

Commented by kk at 2007-05-24 06:01 x
「私はもう疲れました。お金よりも、豊かな人間関係の楽しめる落ち着いた生活がしたいです。お金が欲しい人はどうぞ勝手に競争してください」

 これって若者だけでなくて多くの人が痛切に思ってることなんじゃないだろうか? 逆に、才能と幸運を得られた一部の人たちはある意味いつふるい落とされてドロップアウトするかおびえてたりするんじゃないかなあ? いや、もしかしたらそういう感覚すらも失ってしまっているのかもしれない。ただもう、こなしていくだけ。

そういうことが積み重なって、みんなが戦々きょうきょうとしているので、余計にしれつな競争や成果主義の導入に拍車がかかり、立場の弱いものはあきらめ、立場の強いものが意固地になる。そんな気がしてなりません。
Commented by 花見月 at 2007-05-24 08:39 x
大学院で学ぶようになって気づいたのは、大学の先生と、小中高の先生の一番の違いは、自分の業績(研究)の素晴らしさを授業で自慢するかしないかだと思いました。素晴らしい研究を語るのは、学生に夢を与えるのかもしれませんが、若い人が大学で研究してもほとんど報われない状況で業績を自慢されても、それは、若い人の夢につながりません。どんな素晴らしい先生の自慢話より、私の心に一番残っている先生の一言は、中学のときに聞いた、「君たちの人生のほとんどは、拍手を送られる側ではなく、送る側にいることが多いだろう。しかし、人の素晴らしさは、拍手を送るとき気持ちよく拍手できるかどうかなんだ」という言葉です。
Commented by 花見月 at 2007-05-24 08:45 x
この熾烈な競争社会で、教育者に教えてもらいたいのは、どうやって勝ち残ったのかではなく、どうやって、多様な価値観による座標軸、評価軸を自分の中にもって、心安らかに暮らしていくかと言うことだと、私は思います。今自分が必死に模索しているのも、新しい座標軸なのだと思います。
Commented by ヨシダヒロコ at 2007-05-24 16:13 x
「お金は要りませんから皆さん勝手に競争してください」と言えるのは、まだ恵まれた層だと思います。おそらく定期的にほどほどのお金が入ってくる人でしょう。
Commented by stochinai at 2007-05-24 16:46
 ヨシダヒロコさんのおっしゃることは、まさにその通りだと思います。パラサイトが多くなっていることとも関係がありそうですね。しかし、ワーキングプアなどの話を聞くと、一方ではその「ほどほど」の程度がどんどん下がっているのかもしれないと思ったりします。
Commented by adhoc at 2007-05-24 23:20 x
「そもそも「できない人間」を叱咤激励しても無理」
おっしゃる通りです。

適応力のない人に捨扶持を与えて食わせておくことをよしとするぐらいが、本当の意味で豊かな社会なんじゃないかと思うんですが、世の中の風潮はなかなかそうなりませんね。

それにしても、理工系の大学人というのは、競争至上主義を疑いもなく受け入れて、余計なことを考えずに競争しているものだと思ったのですが、つぶやきさんみたいな考えの理工系人間というのは、やはり少数派なんですか?
Commented by stochinai at 2007-05-24 23:34
 負け組なんじゃないでしょうか(苦笑)。
Commented by nq at 2007-05-26 17:35 x
赤道に近いある島国を訪れたとき、その国では、親類一族、あるいは会社の職場に、ごく少数の働き者がいて、そのほかの人たちは、たとえ職場に出ていてもほとんど生産には寄与していないことに気づきました。しかし、少数の働き者は、それを特に困ったこととも不満にも思っているようでもなく、生き生きと一族を養っていました。養われている方も、何とも思っていないようです。世界にはそれでも成り立っている社会もあるのだな、と感心しました。
Commented by stochinai at 2007-05-28 00:18
 少し前まで(30年くらい前まで?)は、日本もだいたいそんな感じだったのではないかと記憶しています。今思えば、右肩上がりの経済と質素な生活がそれを支えていたように思います。今は、どちらもなくなりましたので、成り立たなくなったということなのでしょうか。
by stochinai | 2007-05-23 22:54 | つぶやき | Comments(9)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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