2007年 06月 25日
苅谷剛彦さん講演会
午後6時から、本部前の学術交流会館で東大教育学研究科の苅谷剛彦さんの講演会がありました。講演のタイトルは「格差社会と教育改革」。1時間20分ほど講演があり、5分ほどの休憩をはさんで、本学の公共政策大学院の山口二郎さんと会場からの質問をとりあげながらの対談が45分ほどというプログラムでした。
刈谷さんも山口さんもたくさんの著作がある方ですので、今日の話も特にそうしたもので表明された意見から突出したものはありませんでしたが、それなりに考えさせられることもあり、頭を整理するという意味でも有意義なものでした。
特に、刈谷さんが話し始めに、「格差」という言葉は、言いたいことを正確に表現しておらず、「不平等 inequality」という言葉を使うべきだとおっしゃったのは、まさにその通りだと思いました。「格差」という感情を含まない言葉よりも、「不平等」という不正義を糾弾する言葉を使う方が、現実をより正確に表現できると私も思ったのですが、どうして「不平等社会」という言葉が普及せず、「格差社会」が流通しているのか社会学的分析が欲しいところです。
それと、人をタダで動かすしくみとして「競争と評価」が使われているという話は、私も考えていたことでした。刈谷さんは教育再生会議が狙っている改革は、競争と評価によって教育現場にいる人々の尻を叩くことで、予算の増加を伴わずに人を走らせることに成功していると言っていましたが、同じことは国立大学でも起こっています。総額を増やすことなく、競争と評価によって予算を傾斜配分することで、たとえ渋々だとしても現場の教員が競争をせざるを得ず、結果として文科省が大学を自由にコントロールできるようになっているのは、誰の目にも明らかだと思います。実にうまいやり方だと思いますが、それに抵抗できない(しない?)我々という存在も情けないのだと感じます。
さて、教育再生会議が狙うバウチャー制を含む教育改革は、いままで都道府県や市町村を単位として投入されていた教育に対する資源(予算)配分が、個人に対して投入されることを意味し、ある意味それは日本における教育制度の革命的な方針転換であり、実行した場合には「パンドラの箱」を開けることになるのだが、政府や教育再生会議はその覚悟を持ってあるいはそれに気付いているのかどうかが疑問だというようなお話しだったと思います。これは、冷静に考えるとかなり恐ろしいことなのですが、社会全体としてもそうした認識は薄いと思います。マスコミもそのような報道はまったくしていません。
その後の山口さんの話でも、安倍内閣には自信というものがまったく無いので、意味があろうがなかろうが次から次へと何かをやり続けずにはいられない「多動症内閣」だという的確な指摘をされていました。これも、なるほどと思わせるお話しでしたが、逆に考えると、このように刈谷さんも山口さんもとても正しく説得力のあるお話しができる理論をお持ちであるにもかかわらず、その意見がまったく政治に反映されることがない今の日本の状況というものに無力感を感じる講演会でもありました。
科学や学問や理論や正義などが尊重されないまま、政治が突っ走っていった先には何が待っているのでしょう。
最後にちょっとだけ希望の持てる話として、学力テストを拒否した犬山市のことについて触れられましたが、国に任せっきりにするのではなく、市民と地方自治体が協力し合うことが唯一現状を打破する力になるというようなことだったと思います。
自分たちのまわりにも、犬山市を作ることができるでしょうか。
刈谷さんも山口さんもたくさんの著作がある方ですので、今日の話も特にそうしたもので表明された意見から突出したものはありませんでしたが、それなりに考えさせられることもあり、頭を整理するという意味でも有意義なものでした。
特に、刈谷さんが話し始めに、「格差」という言葉は、言いたいことを正確に表現しておらず、「不平等 inequality」という言葉を使うべきだとおっしゃったのは、まさにその通りだと思いました。「格差」という感情を含まない言葉よりも、「不平等」という不正義を糾弾する言葉を使う方が、現実をより正確に表現できると私も思ったのですが、どうして「不平等社会」という言葉が普及せず、「格差社会」が流通しているのか社会学的分析が欲しいところです。
それと、人をタダで動かすしくみとして「競争と評価」が使われているという話は、私も考えていたことでした。刈谷さんは教育再生会議が狙っている改革は、競争と評価によって教育現場にいる人々の尻を叩くことで、予算の増加を伴わずに人を走らせることに成功していると言っていましたが、同じことは国立大学でも起こっています。総額を増やすことなく、競争と評価によって予算を傾斜配分することで、たとえ渋々だとしても現場の教員が競争をせざるを得ず、結果として文科省が大学を自由にコントロールできるようになっているのは、誰の目にも明らかだと思います。実にうまいやり方だと思いますが、それに抵抗できない(しない?)我々という存在も情けないのだと感じます。
さて、教育再生会議が狙うバウチャー制を含む教育改革は、いままで都道府県や市町村を単位として投入されていた教育に対する資源(予算)配分が、個人に対して投入されることを意味し、ある意味それは日本における教育制度の革命的な方針転換であり、実行した場合には「パンドラの箱」を開けることになるのだが、政府や教育再生会議はその覚悟を持ってあるいはそれに気付いているのかどうかが疑問だというようなお話しだったと思います。これは、冷静に考えるとかなり恐ろしいことなのですが、社会全体としてもそうした認識は薄いと思います。マスコミもそのような報道はまったくしていません。
その後の山口さんの話でも、安倍内閣には自信というものがまったく無いので、意味があろうがなかろうが次から次へと何かをやり続けずにはいられない「多動症内閣」だという的確な指摘をされていました。これも、なるほどと思わせるお話しでしたが、逆に考えると、このように刈谷さんも山口さんもとても正しく説得力のあるお話しができる理論をお持ちであるにもかかわらず、その意見がまったく政治に反映されることがない今の日本の状況というものに無力感を感じる講演会でもありました。
科学や学問や理論や正義などが尊重されないまま、政治が突っ走っていった先には何が待っているのでしょう。
最後にちょっとだけ希望の持てる話として、学力テストを拒否した犬山市のことについて触れられましたが、国に任せっきりにするのではなく、市民と地方自治体が協力し合うことが唯一現状を打破する力になるというようなことだったと思います。
自分たちのまわりにも、犬山市を作ることができるでしょうか。
by stochinai
| 2007-06-25 23:19
| 教育
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