5号館を出て

shinka3.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

独りで生き抜くために必要なこと 【追記:フリーこそしがらみ】

 久々に山田ズーニーの「おとなの進路教室。」から話題を頂きます。8月後半から第十一章「フリーランスという生き方」が始まっています。高橋真裕美さんというフリーランスの構成作家の方の話は、ここで話題になっているポスドクの仕事探しとかなりの共通点を持っていると感じられるものです。

 高橋真裕美さんの夢は「字を書いてお金をもらって暮らせたらいいなあ」だったのだそうです。そして今、番組の構成作家になって字を書いてお金をもらって暮らしています。最初は社員として何でもやります的なところから始めて、どうやってフリーランスになっても仕事がまわってくるようになったのかという話は、大学院・ポスドクの時にはボスのいいなりで、何でもやります的な研究生活を経て、独立した研究者になった人の話とたくさんの共通点があるように思えました。

 多くのポスドクの夢は「研究をしてお金をもらって暮らせたらいいなあ」ではないでしょうか。そう考えると、彼女がどうしてフリーランスになったのか、そして今どうやって生きているのかを知ることはかなり参考になるかもしれません。たとえ大学に雇われたとしても、研究者という職業はフリーランスに限りなく近いものに思えます。興味があったら是非とも聞いてみてください。

 昨日は「Lesson43 独りで生き抜くために必要なこと」でした。前半はいつものように山田ズーニーさんがゲストの高橋さんの話を聞いているのですが、途中からなぜか山田ズーニーさんが自分もフリーランスということでか、自分の話を始めるあたりから話が盛り上がってきます。

 ここから、高橋さんが聞き役にまわるという、この番組らしい展開になります。そこで山田さんが言った言葉「不要に恐れない」「自信を失わない」ということは、言い換えるとプライドを失うなということだと聞こえました。フリーになったはいいけれども、全然仕事にありつけなくて、仕事をさがしにいっても断られてばかりだと、自信を失いまわりの何もかもが恐ろしくなるという気持ちは良くわかる気がします。就職活動をしている学生を見ていると、失敗するたびに落ち込みどんどん自信を失い、なんだかおどおどと卑屈になっていくように見え、逆にそれが原因で次も失敗するという悪循環にもなるでしょう。

 山田さんは、ともかく恐れないというのは「簡単じゃないか、恐がらなきゃ済むことなんだ」と気がついたことが大きかったと言っています。似たようなことですが「自信を持て」も大事にしている言葉だそうです。思い返せば「自信を失っていた期間というものがまったく無駄だった」と思えるのだそうで、恐がらず、自信を失わず、そして「体を鍛えよう」が山田ズーニーさん(フリーランス歴7年)のモットーだそうです。

 片や、フリーランス歴21年の高橋さんのモットーは、さすがにその上を行っています。フリーランスになると決めたからには、1)誰にも負けない得意なものを持て、そして先輩からもらった2)ものを作るようになったら絶対に時間給で働くな、という言葉はとても重要なことだと思います。得意なものを持てというのは売り物を持てということで、時間給で働くなというのは結果に値段をつけてもらえということです。フリーで仕事をする時の鉄則だと思います。

 なぜか、山田ズーニーさんがフリーになる時に高橋さんにアドバイスをもらっていたという逸話も紹介され、その時に高橋さんが山田さんに言った「お弁当は配らしてもらえないよ」という言葉が山田さんの胸に刻まれていました。山田さんにはフリーになって教育のテレビ番組を作りたいという夢があって、そのためにはまずどうやってテレビ界に潜り込もうかと考え、「お弁当配りでもなんでもやります」と高橋さんに相談した時、高橋さんは「お弁当は配らしてもらえないよ」と言ったのだそうです。

 フリーランスになって仕事をしようと考えている、ちょっと年のいったそしてプライドの高い生意気な人間を、わざわざテレビ局が雇って弁当を配らせるはずがない、お弁当を配るなら、バイト代が安くて馬力のある従順な若いヤツを使うに決まっている、というのです。なるほど、それはその通りです。使う側の立場に立ってみても、使われる側の立場にたってみても、会社を辞めて独立しようとしているヤツが弁当配りをするということはあり得ないシチュエーションということになります。

 ポスドクが自分の得意な能力をまったく使わない仕事に就くということは、フリーランスに弁当配りをさせるようなもので、雇う側も雇われる側も望んでいることではないということも良くわかります。だから、いろいろと難癖をつけて、ポスドクは雇いたくないといっている企業の方々はポスドクの能力を使う気がないということでしょう。ポスドクの能力について語らずに、彼らの「使いにくさ」などを説いているということはそういうことなのだと思います。使う気がないのなら、はっきりと「うちの会社にはポスドクの能力は必要ないんです」と言って欲しいものです。

 高橋さんのアドバイスは、テレビ番組を作りたいなら「向こうから呼んでもらえるプロになれ」でした。「何でもやりますということが通るのは若いうちだけ。30すぎ、40以上になったらプロ中のプロにならなければやっていけない」。

 これは、なかなかきつい言葉ですが、真実でしょう。

 いろいろと違いはありますが、とりあえずそこには目をつぶって、ポスドクも研究者になりたいのなら、向こうから呼んでもらえるようなすごいプロになっていないと、確実に仕事を得るということはできないぞ、と言われたら、確かにそれには一面の真理があると言わざるを得ません。研究を捨てる(フリーランスで独立することをあきらめる)ということなら、自分を偽ってでも何でもやりますということで、どこかに潜り込むというのも可能かもしれませんが、夢を捨てないつもりなら「何でもやります」はない、ということでしょう。

 これはまさにプロ・スポーツと同じ世界の話だと感じました。そして、ポスドクが研究者になる時にも、かなり似たシチュエーションが想定されるということは、今や研究者になるということも芸能界やプロスポーツ並みの状況にあるとも言えるのではないかと感じます。

 30・40になったら「何でもやりますと言うな」というのは、重い言葉ですね。

【追記】
 ボストンの島岡さんから、TBエントリーをいただきました。中にある「フリーランスほど『様々なコレクションやしがらみのなかに積極的に自分を置かなければならない』」という言葉には、目から鱗が落ちる思いがします。
Commented by D4 at 2007-09-08 14:06 x
博士を取ると30くらいになってしまいますが、その時点で「何でもやります」といってはいけないとなると、就職はますます難しくなりますね。企業が欲しいのは「何でもやります」という人らしいので・・・。
Commented by え? at 2007-09-08 14:46 x
「なんでもやります」が通用するのは修士までじゃないですか?博士なら「なんでもやれます」か「こんなすごいことができます」じゃないでしょうか。
Commented by stochinai at 2007-09-08 15:49
 企業は博士・ポスドクを採ろうという時には、「何でもやります」という人材を求めていないのだと思います。それにもかかわらず、「何でもやります」と言わないから博士は採らない、というような口実を使っているところがあるのではないかというのが、私の「偏見」です。
 ただ「何でもやります」のレベルが、学卒・修士と博士とでは全然違うということはあって、「博士としてなんでもやります」ならば交渉の余地はありそうに思います。
 とりあえず博士だと、「私はこれとこれができますけど、おたくで利用価値がありますか」で交渉するということになるような気はします。
Commented by ヨシダヒロコ at 2007-09-08 18:03 x
「体を鍛えること」実感できます。
健康管理も仕事のうちですね。これはフリーランスに限りませんが。

あと「こつこつやるのが大事だ」という意味のこともおっしゃっていましたね。
Commented by ポリ at 2007-09-08 19:04 x
ポスドクがアカデミアで独立するにしても企業に行くにしても、博士である以上、ある程度は「何でも」できないとダメだと思うんですよね。前者の場合、自分の柱が一本あって、そこから拡がるように「何でも」できるようになるのが(私の)理想であるのに対し、後者の場合、「何でも」できる中から小さな柱が立つ、しかも一本だけでなく、状況に応じて何本も立てることが出来るのが理想ではないかと。
 
逆に言えば、そういった研究に対する指向性の違いで、進む道がおのずと決まってくるのではないでしょうか。
Commented by ポロ at 2007-09-09 11:55 x
構成作家の需要と志望者の数ってどうでしょう?
構成作家:    需要はものすごく少ない
構成作家の卵: ある程度のレベルに達した志望者も多くは無い
ではないでしょうか?
ここで、構成作家になれなかった作家の卵はどうなったのでしょう?

博士とポスドクの問題に置き換えてみると
アカポス: ものすごく少ない
博士やポスドク(学者の卵): 相当多い(全国で数万人)
アカポスを目指すなら構成作家の例と共通点があるでしょう。
但し、構成作家が少数しか必要ないように、アカポスで働く学者も多くは必要ないのです。大多数は別の道に行かねばなりません。それが博士ポスドク問題だと思います。

構成作家の椅子は一つで10名が目指し、9名が敗れる。残りの9名はどうしましょうということです。

構成作家を目指し必死で努力し、駄目なら
1.頭を切り替えて、別の道をめざせ。
2.作家の卵としての能力が生きる道を探れ。
3.あくまでも構成作家を目指し、貧乏に絶えて努力を続けろ。

構成作家をアカポスに読み替えると、現実が見えます。多くは上記の2番を模索するのでしょうが、現実には求人数が少なく難しいと思います
Commented by なんつか at 2007-09-09 15:28 x
数少ない成功者の話を聞いてもしかたないのではなかろうか。
どんな分野でも一握りの成功者はいて、その成功がどんな要因に基づいていようと、その人が過去やってきたことは全て正当化されてしまうからね。たまたまうまくいった実験のデータしか見ないようなもんでは?
努力してもうまくいかなかった人がどうやって食っているのかをもっと表に出したほうがいいと思いますよ。
Commented by stochinai at 2007-09-09 15:49
 なんつかさんのおっしゃることは、まさにその通りだと思うのですが、実は学生の研究指導をしている大学の先生というのがまさにその「数少ない成功者」なのです。学生・院生のほとんどがその人たちの話を聞いて、自分もなんとかなるのではないかと思ってしまうのは、私には無理もないことだと思われます。

 その「努力してもうまくいかなった人」が問題になっているのがポスドク問題で、「「努力してもうまくいかなった人」でどうにか食っていけている場合には、表に出てこないのがこの問題を考える難しさなのだと思います。
Commented by ポロ at 2007-09-09 21:32 x
> 「努力してもうまくいかなった人」が問題になっているのがポスドク問題

重点化前の博士課程は、学者養成でした。重点化を境に博士課程の定員増となり、博士院生の過半数は学者以外の職に就くことになりました。しかし、社会の中で「元・学者の卵」の経歴が生きる場を探っても、求人数には限度があります。大多数は頭を切り替えて別の道を探らねばなりませんが、年齢がかさむと難しく、企業から、「博士は使えない」とレッテルを貼られるのです。

進学した学生の過半数が不幸になるようでは、博士課程の存在意義が問われます。結局方法は2つで、
1.企業が欲しいと思う人材を博士課程で育てる。(次世代の学者の育成が不安)
2.博士課程の定員を重点化前のレベルまで減らし、企業就職は念頭におかず、学者育成に徹する。
(企業就職が少なく、欧米と比べて見劣りする。)
どちらかでしょう。

今後、法科大学院でも、同様の問題が起きます。弁護士資格が取れなければ、お金と時間の無駄になるので、法科大学院のほうがさらに深刻になるでしょう。
Commented by ヨシダヒロコ at 2007-09-10 14:55 x
翻訳者でも、数少ない成功者がいます。みなその人のようになろうと翻訳講座などに金を払うわけです。わたしもそろそろ現実を見ないといけないのかもしれません。
Commented by なんつか at 2007-09-10 15:15 x
こうすれば成功します!てな商売が一番儲かりますからね。
Commented by Motomu Shimaoka at 2007-09-11 08:49 x
stochinaiさんへ、
トラックバックがはじかれますので、コメント欄に貼り付けさせていただきます。
「フリーランスとしての研究者に一番大事なこと」
http://harvardmedblog.blog90.fc2.com/blog-entry-133.html
Commented by stochinai at 2007-09-11 09:10
 島岡さん、関連エントリーをありがとうございます。TBに関しては、いつも申し訳ありません。フリーこそ、いろいろと人間関係に気を遣わなければならないという言葉は、とても重たいと感じました。座右言にさせていただきたいと思います。
by stochinai | 2007-09-07 23:14 | つぶやき | Comments(13)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


by stochinai