2008年 02月 06日
Dan the Real Science Communicator
今やブックアフィリエーターとしては、日本一なのではないかと思われる子小飼弾さんが、私もほんの一部を担当させていただいた「はじめよう!科学技術コミュニケーション」の書評を書いてくださいました。
その影響だと確信していますが、(私の勘違いでなければ)アマゾンのランキング順位が今朝から50,000位くらいアップしたようです。
著者のひとりとしては面はゆいところもあるのですが、気に入っていただけたようで、大変に光栄です。そして、このエントリーには単なる書評を越えて、科学コミュニケーションとは何かということに関して核心をついた名言が、次から次へと溢れ出るように述べられており、どうしても転載したいという欲求を抑えることができません。
しかし、その後に続いて提案された「新語」は、ちょっといただけません。
それはさておき、「科学技術コミュニケーター」という呼び名が長すぎるということには同意なのですが、研究者を「科究者」、科学技術コミュニケーターを「科教者」というのは、ちょっと使いにくい気がします。何よりも視認性が悪く、うっかりすると見間違います。私としては、前者を「サイエンティスト」、後者を「サイエンス・コミュニケーター」で良いのはないかと思っていますが、どうでしょうか。
「科究者と科教者の双方が一致していればそれは理想である。例えばファラデーのような」よりは、「サイエンティストとコミュニケーターの双方が一致していればそれは理想である。例えばファラデーのような」の方がわかりやすくないですか。
「そう考えれば、プロの科教者があってもいいではないか」には、120%同意です。
そして、本書にはほとんど出てこない科学コミュニケーションの費用を誰が出すのか、ということについては、まさに今CoSTEPで教育を受けた人々を中心に新しいビジネスモデルが模索されているところで、さすがに弾さんは現実的なところをしっかり見ていると敬服しました。
また、「一納税者としてはcostepをはじめとする科学技術コミュニケーションにきちんと税金が回っていることを切望するのだが....」と、涙の出るようなうれしいお言葉ですが、CoSTEPはあと2年間は税金(科学技術振興機構の振興調整費)で運用されることが決まっております。
サイエンス・コミュニケーターがプロとして独立するために、とりあえずはサイエンティストがその研究費の一部をコミュニケーターの活動に割いてもらうことで、サイエンティストとコミュニケーターの双方にとってハッピーな未来はあり得ると思っています。
弾さんは時としてサイエンス・ライターでもありますし、科学関係の本の書評をするアフィリエーターでもあります。サイエンス・コミュニケーターを標榜する人達は、こうしたすでにプロとしてのサイエンス・コミュニケーション活動している人々から学ぶべきことが多いのです。
日本のように全体の教育レベルが高い国では、きちんとしたビジネスモデルができさえすれば、ある数の人がサイエンス・コミュニケーターとして食べていくことは、間違いなく可能なはずです。
その影響だと確信していますが、(私の勘違いでなければ)アマゾンのランキング順位が今朝から50,000位くらいアップしたようです。
著者のひとりとしては面はゆいところもあるのですが、気に入っていただけたようで、大変に光栄です。そして、このエントリーには単なる書評を越えて、科学コミュニケーションとは何かということに関して核心をついた名言が、次から次へと溢れ出るように述べられており、どうしても転載したいという欲求を抑えることができません。
本書を読んで改めて感じたのは、「同じ事を、繰り返し、それぞれの人のそれぞれの言葉で語りなおす」ことの重要性。科学者というものは、どうしても最初の業績こそが大事であるという呪文にしばられておりますので、人が言ったことを繰り返すことを嫌います。さらには、自分が言ったことでさえ、2度言うことを嫌う傾向すらあるのです。科学者コミュニティでは、それで良いのかもしれませんが、それではいつまでたっても科学が「ほとんどの人」に伝わりにくいということになってしまいます。
実はほとんどの人にとって、重要なのは「最先端の科学」ではなく「古き佳き科学」なのだ。そうなのです、実際に人々の役に立つ科学のほとんどは「古き佳き科学」なのです。
そう考えていけば、「まだわかっていないことを研いで究める」人々だけではなく、「もうわかっていることがどうやってわかったのかを、わかっていない人々に伝える」人々もまた立派な「科学者」ではないだろうか。この言葉には、思わずひれ伏したくなりました。科学技術コミュニケーターの定義として、おそらく今まで言葉にして語られたことはなかったような気がするのですが、この「わかっていることを伝える」役割を果たす人をコミュニケーターと呼ぶのだと言われると、大きく頷きたくなります。そして、コミュニケーターも「また立派な科学者」であることにも賛同したいと思います。
しかし、その後に続いて提案された「新語」は、ちょっといただけません。
「科学技術コミュニケーター」というのは、後者の科学者の呼び名のようであるが、もう少し短くできないだろうか、例えば「科究者」と「科教者」とか。科学技術コミュニケーターという呼び方は、かなり日本の科学政策にひきずられているもので、欧米ではサイエンス・コミュニケーター=科学コミュニケーターという言い方が一般的です。日本では、文部省と科学技術庁が合併して文部科学省ができたことでもわかるように、科学だけにしてしまうと科学技術庁から継承されてきた政策が消えてしまうことを恐れる「族」の方々がおられるのか、いたるところで「科学」ではなく「科学技術」という言葉が使われるのに出くわします。それで「科学コミュニケーション」と言えばすむところを、なぜかそちらの方面では「科学技術コミュニケーション」と言われることが多いのです。というわけで、科学技術振興機構がスポンサーとなっているCoSTEPは、「北海道大学科学技術コミュニケーター養成ユニット」と、途中で息を継ぎたくなるほど長い名前になってしまいました。
それはさておき、「科学技術コミュニケーター」という呼び名が長すぎるということには同意なのですが、研究者を「科究者」、科学技術コミュニケーターを「科教者」というのは、ちょっと使いにくい気がします。何よりも視認性が悪く、うっかりすると見間違います。私としては、前者を「サイエンティスト」、後者を「サイエンス・コミュニケーター」で良いのはないかと思っていますが、どうでしょうか。
「科究者と科教者の双方が一致していればそれは理想である。例えばファラデーのような」よりは、「サイエンティストとコミュニケーターの双方が一致していればそれは理想である。例えばファラデーのような」の方がわかりやすくないですか。
「そう考えれば、プロの科教者があってもいいではないか」には、120%同意です。
科学は面白くて役に立つ。しかし手がかかるのも事実だ。「なぜなに君」たちをきちんと正面から説得していては授業は進まない。いきおい授業は一方通行になる。ブロードキャスティングでなくコミュニケーションというのは、本当に手間がかかるのだ。このことはさらにプロとしての科教者を正当化するのではないか。まったくまったく、その通りだと思います。
そして、本書にはほとんど出てこない科学コミュニケーションの費用を誰が出すのか、ということについては、まさに今CoSTEPで教育を受けた人々を中心に新しいビジネスモデルが模索されているところで、さすがに弾さんは現実的なところをしっかり見ていると敬服しました。
また、「一納税者としてはcostepをはじめとする科学技術コミュニケーションにきちんと税金が回っていることを切望するのだが....」と、涙の出るようなうれしいお言葉ですが、CoSTEPはあと2年間は税金(科学技術振興機構の振興調整費)で運用されることが決まっております。
サイエンス・コミュニケーターがプロとして独立するために、とりあえずはサイエンティストがその研究費の一部をコミュニケーターの活動に割いてもらうことで、サイエンティストとコミュニケーターの双方にとってハッピーな未来はあり得ると思っています。
弾さんは時としてサイエンス・ライターでもありますし、科学関係の本の書評をするアフィリエーターでもあります。サイエンス・コミュニケーターを標榜する人達は、こうしたすでにプロとしてのサイエンス・コミュニケーション活動している人々から学ぶべきことが多いのです。
日本のように全体の教育レベルが高い国では、きちんとしたビジネスモデルができさえすれば、ある数の人がサイエンス・コミュニケーターとして食べていくことは、間違いなく可能なはずです。
by stochinai
| 2008-02-06 22:02
| CoSTEP
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