2008年 02月 15日
【反省】AO入試廃止の原因を学生に求めるのは無責任です
九州大学法学部では、成績だけでは発見できない才能を見出すということで始められたはずの、書類選考や面接などによる人物重視型の「AO入試」を平成22年春から廃止すると発表しました。
「学生の成績悪い」九大法、AO入試廃止へ
それを、「成績などの結果を見れば、制度を廃止するのも一つの見識だ」などとおっしゃる九大のアドミッションオフィスの見識は教育審議会さんのおっしゃるとおり、「そんな『見識』などいらない」と言われても反論の余地はないと思います。
今日行く審議会さんがおっしゃるように、「問題が生じたならその対策を早めに講じれば」いいだけの話なのですが、我々は「学生の出来が悪い」と嘆く前に、どれだけそうした努力をしてきたというのでしょうか。あるいは逆に、彼らの得意なところを伸ばしてやるための教育をどれだけやってきたでしょうか。
もちろん、「流行に流されるままに、『AO入試』を取り入れてみたが、失敗だった。ここに、自己批判して責任の所在を明らかにし、学長・教務委員長・AOオフィス長が辞任するとともに、今後の廃止を決定します。申し訳ありませんでした」ということで、廃止するというならそれはそれで一貫性も感じられますが、「AO入試をやってみたけれども、それで入ってきた学生が不出来だったことがわかったので辞めます」では、あまりにも無責任過ぎるると非難されても、大学の一員として私は反論できません。謝るしかありません。
私も一時期、「AO入試」にかかわったことがありますけれども、これはまさに合格判定ををする教員が試されている選抜方式だと思い知らされました。選抜する側が、充分に準備をし、志望する受験生のことを十二分に予備調査し、そしていざ面接などの時には、彼らの資質を充分に判断するための力がこちらにないと、とても合否の判定などできるものではないと思いました。
その上で、いろいろな教科の試験をしないで入れるということの重みと、彼らの将来を考えたうえで普通の学生とは別カリキュラムを用意するというようなところまでをサポートするということもやった上ではじめて成立する非常に難しい選抜方式ですから、そうしたことにほとんど素人の教員が持ち回りでできるようなものではないのだと思います。「AO入試」には、採用試験をする会社の人事部の人クラスのAO担当専門教員が必要です。
つまり、「AO入試」の廃止は学生の成績が悪いから等では決してなく、大学に「AO入試」をするだけの力がなかったからであると告白すべきものだというのは、今日行く審議会さんのおっしゃる通りです。
今我々がやるべきことがあるとするならば、より意味のあるAO選抜方式の確立と、AO選抜で入学を許可した学生に対する教育プログラムを1日も早く作り上げることなのだと思います。
(大学を動かせないくせに、大学の中からそんな無責任な声を出すな、と言われると反論のしようもないのですが、一応言うだけは言っておきたいと思います。すみません。)
「学生の成績悪い」九大法、AO入試廃止へ
九大アドミッションセンターによると、法学部で導入後の入学者の成績を比較したところ、AO入試で入学した学生の成績は通常の前期、後期試験での入学者より低い傾向にあることが判明。AO入試廃止を決定した。今や、全国の大学に広がっているこの入試方法ですが、もともと「普通の学科試験の成績では落ちてしまうような学生の中に才能が埋もれているかもしれない」という理由で始めたのですから、普通の入試ではいってきた学生と同じ基準で「学科の成績」を比較したら、それは低いことは当たり前なのではないでしょうか。
それを、「成績などの結果を見れば、制度を廃止するのも一つの見識だ」などとおっしゃる九大のアドミッションオフィスの見識は教育審議会さんのおっしゃるとおり、「そんな『見識』などいらない」と言われても反論の余地はないと思います。
問題が生じたならその対策を早めに講じればよかっただけの話。AO入試がきちんと機能するようにすべきだったはず。そういうことをいったいどれだけやってきたというのか。それもなしに,「AO入試は全国に広がっているが、成績などの結果を見れば、制度を廃止するのも一つの見識だ」などと,馬鹿げた「見識」を示してみせる。よくこんなことが言えるものだ。これは,「ゆとり教育」をろくに検証もせずに「転換する」と言っている中教審やマスコミと同じ。AOで入った学生は、専門を除くと学科の成績が他の学生より劣ることは、一般的な傾向だと思います。というか、そうした選抜ではなく面接やプレゼンを重視して、普通の学科試験では見ることのできない基準で合格させたのですから、それは知った上で合格させたのだと思います。
今日行く審議会さんがおっしゃるように、「問題が生じたならその対策を早めに講じれば」いいだけの話なのですが、我々は「学生の出来が悪い」と嘆く前に、どれだけそうした努力をしてきたというのでしょうか。あるいは逆に、彼らの得意なところを伸ばしてやるための教育をどれだけやってきたでしょうか。
もちろん、「流行に流されるままに、『AO入試』を取り入れてみたが、失敗だった。ここに、自己批判して責任の所在を明らかにし、学長・教務委員長・AOオフィス長が辞任するとともに、今後の廃止を決定します。申し訳ありませんでした」ということで、廃止するというならそれはそれで一貫性も感じられますが、「AO入試をやってみたけれども、それで入ってきた学生が不出来だったことがわかったので辞めます」では、あまりにも無責任過ぎるると非難されても、大学の一員として私は反論できません。謝るしかありません。
私も一時期、「AO入試」にかかわったことがありますけれども、これはまさに合格判定ををする教員が試されている選抜方式だと思い知らされました。選抜する側が、充分に準備をし、志望する受験生のことを十二分に予備調査し、そしていざ面接などの時には、彼らの資質を充分に判断するための力がこちらにないと、とても合否の判定などできるものではないと思いました。
その上で、いろいろな教科の試験をしないで入れるということの重みと、彼らの将来を考えたうえで普通の学生とは別カリキュラムを用意するというようなところまでをサポートするということもやった上ではじめて成立する非常に難しい選抜方式ですから、そうしたことにほとんど素人の教員が持ち回りでできるようなものではないのだと思います。「AO入試」には、採用試験をする会社の人事部の人クラスのAO担当専門教員が必要です。
つまり、「AO入試」の廃止は学生の成績が悪いから等では決してなく、大学に「AO入試」をするだけの力がなかったからであると告白すべきものだというのは、今日行く審議会さんのおっしゃる通りです。
今我々がやるべきことがあるとするならば、より意味のあるAO選抜方式の確立と、AO選抜で入学を許可した学生に対する教育プログラムを1日も早く作り上げることなのだと思います。
(大学を動かせないくせに、大学の中からそんな無責任な声を出すな、と言われると反論のしようもないのですが、一応言うだけは言っておきたいと思います。すみません。)
AO入試は一応学力も見ていますよね。たとえば北大では評点A以上、九大では総合評価方式と銘打って学力に加えた何かを見ている、と思います。なので、AO方式で入学してくる学生は一般学力が高いのが当たり前、という前提があるのかなと思います。そのうえで、なにか抜きん出たものがあることが期待されているのではないでしょうか。もちろん、だからといって学力だけで判断するのは違うだろう、と思います。
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おそらく九大法学部はAO入試を最初からやりたくなかったし、ずっとやめたいと思ってたんでしょうね。だって、それに費やす手間と時間は大変ですから。専門のスタッフなんて無理ですよ。stochinai先生も良くご存知のように、入試というのは大学がやっているのではなく、個々の学部がやっているわけですから人員なんてつける予算がありません。したがって「学長・教務委員長・AOオフィス長が辞任」などというのも見当はずれでしょう。担当部局は各学部ですから(おそらく九州大学でもAOオフィス長なんていうのは学部間のスケジュール調整や広報、事務取りまとめで、学生の選考にはノータッチだと思いますよ)。で、なんでそんな嫌なAO入試をしなければいけないかというと、文部科学省の「指導」だからですよね。九大法学部を悪し様に言うよりは、そういう指導をしながら専門のスタッフを雇う予算もつけない文部科学省を批判すべきではないでしょうか。そうでなければ教員に加重負担をかけるだけです。AO入試なんて教員が一番研究したい季節にありますし、その時期に開かれる国際学会にも出られない。大学教員に入試業務を担当させるなんて、日本の大学の研究生産性を落とすだけです。
>評点A以上
それが、高校から送られてくる成績表に全然客観性がなく、「信用できない」という問題があるようです。
一言さんがおっしゃることは、実態をほぼ正確に表していると思います。AOがどこの大学でも横並びのように行われるようになったのは、例によって文科省の指導があったからだというのもおそらく事実だと感じています。しかし、これもまた例によってAOは「各大学が自主的に行っている」という形をとっています。そうであるならば、それは受験生と各大学あるいは、受験生と各学部・学科の「個人的な問題」なのだと思います。
特に、この場合は受験生あるいは学生という確実に特定できる「被害者」が存在しますので、我々には責任はないと言ってしまったらおしまいだと感じています。
教養部廃止、大学院重点化、法人化と同じように、やりたくなかったのなら、やはりやるべきではないでしょうか。
それが、高校から送られてくる成績表に全然客観性がなく、「信用できない」という問題があるようです。
一言さんがおっしゃることは、実態をほぼ正確に表していると思います。AOがどこの大学でも横並びのように行われるようになったのは、例によって文科省の指導があったからだというのもおそらく事実だと感じています。しかし、これもまた例によってAOは「各大学が自主的に行っている」という形をとっています。そうであるならば、それは受験生と各大学あるいは、受験生と各学部・学科の「個人的な問題」なのだと思います。
特に、この場合は受験生あるいは学生という確実に特定できる「被害者」が存在しますので、我々には責任はないと言ってしまったらおしまいだと感じています。
教養部廃止、大学院重点化、法人化と同じように、やりたくなかったのなら、やはりやるべきではないでしょうか。

「多様な入試を推進すべき」とのお上からの指示、同感です。
現在でも多くの大学の中期目標・中期計画でAO入試の導入が述べられていますし。
> 教養部廃止、大学院重点化、法人化と同じように、やりたくなかったのなら、やはりやるべきではないでしょうか。
まさにそうなのですが、法人化以後、首根っこを押さえられている現状で、いかにNOと言えるか…。
現在でも多くの大学の中期目標・中期計画でAO入試の導入が述べられていますし。
> 教養部廃止、大学院重点化、法人化と同じように、やりたくなかったのなら、やはりやるべきではないでしょうか。
まさにそうなのですが、法人化以後、首根っこを押さえられている現状で、いかにNOと言えるか…。
なんか、私の文章変でしたね(恥)。「やりたくないことは、やはりやらないようにしたいものです」というような意味でした。
>首根っこを押さえられている現状
それはその通りだと私も思います。まわりの先生も、どうしたって抵抗できるものではないとあきらめています。しかし、そのことで我々が被害を受けるだけなら良いのですが、学生が被害を受けるようなことになった場合には、我々も加害者としての責任は免れないと思うのです。
一方、利害が一致するならば学生と教員が連帯して文科省と闘うという可能性はあるのではないかと思います。現状はあまりにも学生を議論の外に置きすぎている気がします。大学生は成人も多く、大人として扱うべきではないでしょうか。学生ももっと自分たち(および受験生)の地位向上のために、声を出してはどうでしょう?
>首根っこを押さえられている現状
それはその通りだと私も思います。まわりの先生も、どうしたって抵抗できるものではないとあきらめています。しかし、そのことで我々が被害を受けるだけなら良いのですが、学生が被害を受けるようなことになった場合には、我々も加害者としての責任は免れないと思うのです。
一方、利害が一致するならば学生と教員が連帯して文科省と闘うという可能性はあるのではないかと思います。現状はあまりにも学生を議論の外に置きすぎている気がします。大学生は成人も多く、大人として扱うべきではないでしょうか。学生ももっと自分たち(および受験生)の地位向上のために、声を出してはどうでしょう?

この記事の新聞部員は頑張っているようですね。また、高知大の学長選問題でも学生が頑張っていたように記憶しています。しかし、学生に期待するのも難しいような…。
個人的には、各国立大学の学長が一致団結して反対すべきものには反する姿勢を見せて欲しいと思うのですが、国大協は完全に上意下達のための組織に成り下がっているようですし。
http://www.shutoken-net.jp/2008/02/080218_3tokyo.html
個人的には、各国立大学の学長が一致団結して反対すべきものには反する姿勢を見せて欲しいと思うのですが、国大協は完全に上意下達のための組織に成り下がっているようですし。
http://www.shutoken-net.jp/2008/02/080218_3tokyo.html
ご無沙汰しています。以前、国立大学でアドミッションセンター教授をしていました。
AO入試はいろいろ問題をはらんでいます。ぼくはできるだけ問題をクリアしたシステムにしたいと思いました。AO志願者は以前は情意レベルは高かったので、とくに認知能力を見ようと思いました。
私大のいいかげんなAO入試と違い国立大学のAOの多くはいろいろ工夫していたと思います。
ぼくがやったところで、成績追跡をしたらAO入試組が(下にもいましたが)上の方にたくさんいました。入試学力としては低かったと思うのですが、あるレベル以上の認知能力さえあれば後は情意レベルが大きく響いてくるようです。
九大法も工夫していたと思います。ただ、現在国立大学AOもまた予備校や学校の対策がされてしまうようになっています。面接などで世の中を知らない大学人の心をを捉えるのは簡単です。
人気大学ならAOでさえ強く対策されてしまうという現実があります。
*今は完全にAOから離れているので外野的に見ています。
*4月からは生命科学部で理科教育系の教育・研究をします。
AO入試はいろいろ問題をはらんでいます。ぼくはできるだけ問題をクリアしたシステムにしたいと思いました。AO志願者は以前は情意レベルは高かったので、とくに認知能力を見ようと思いました。
私大のいいかげんなAO入試と違い国立大学のAOの多くはいろいろ工夫していたと思います。
ぼくがやったところで、成績追跡をしたらAO入試組が(下にもいましたが)上の方にたくさんいました。入試学力としては低かったと思うのですが、あるレベル以上の認知能力さえあれば後は情意レベルが大きく響いてくるようです。
九大法も工夫していたと思います。ただ、現在国立大学AOもまた予備校や学校の対策がされてしまうようになっています。面接などで世の中を知らない大学人の心をを捉えるのは簡単です。
人気大学ならAOでさえ強く対策されてしまうという現実があります。
*今は完全にAOから離れているので外野的に見ています。
*4月からは生命科学部で理科教育系の教育・研究をします。
お久しぶりです。補足説明をありがとうございました。
結局、AOが成功するかどうかは、やる側の能力差がでているだけではないかと私は思ったわけです。また、年を重ねるごとにどんどんと「対策」が向上しているのも感じますので、まさに「赤の女王」の世界になっていたところもあったと思います。そういう競争をしたら大学側はかなうわけありませんね。
結局、AOが成功するかどうかは、やる側の能力差がでているだけではないかと私は思ったわけです。また、年を重ねるごとにどんどんと「対策」が向上しているのも感じますので、まさに「赤の女王」の世界になっていたところもあったと思います。そういう競争をしたら大学側はかなうわけありませんね。
by stochinai
| 2008-02-15 21:31
| 大学・高等教育
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Comments(8)